――あの青空の日からいくつも時間が流れて。
私は「いつものように」、家のドアを開いた。
「あ、ママだ!」
私が「別の姿」で家に戻ってくると、明るい声がこっちにまっすぐ飛び込んできた。その声を聞くだけで、どこか癒やされるような気がしてくる。
その声に導かれ、中に入ると――
「あ、おかえり、柾木」
『別の姿』で、エプロンを身に着けたままリビングに座っている秀樹の姿が、目に飛び込んできた。
私たちの娘――蒼衣(あおい)が、こっちに向かってまっすぐに走ってくる。
「えへへ、ずっと会いたかったよ、ママ」
「そうか、偉いな。パパといっしょに待ってくれたんだ」
「うん! いい子でじっとしてた。偉いよね?」
「ああ、偉い偉い」
そう答えてあげると、 蒼衣はまるで向日葵のように微笑む。
我が子ながらそれがあまりにも愛しくて、思わず抱きしめそうになってしまった。
自分はここまで素直じゃないというのに、娘はここまで素直でかわいい。
……よく考えると、これも秀樹の影響だとは思うけど。
「そりゃ蒼衣は偉いんだろ? 俺たちの子なんだから」
「まあ……それもそうだな」
秀樹が自慢そうに胸を張るのがちょっと可笑しくて、私は思わず、吹いてしまう。
……事実、 蒼衣は私ではなく、秀樹が産んだ子なんだし。
いつだって親思いの「偉い」子であるのも、まったくおかしくはない。
「大丈夫だったか? なんか起きたりはしてないのか?」
「やっぱ柾木は心配性だな~。平和そのものだよ。俺も蒼衣も、そしてこの子もね」
そう口にしながら、秀樹は自分の抱いている赤ちゃん――心之介(しんのすけ)のことを、愛しそうな眼差しで眺める。
何よりも大切な、私たちの愛の証。
私は「組織」で働く時に、いつもこの愛しい命たちを背負っているんだ。
「そうだ、ママ、もうすぐて食事、できるって」
「ああ、今日もパパがやってくれたのか?」
「あのさ、そりゃ見ればわかるだろ? エプロン姿だぞ、今の俺って」
私のセリフがそこまで不満だったのか、秀樹は頬を膨らませながらそう言ってきた。
もちろん、別に信じられなかったわけじゃない。お手伝いさんもきちんと力になってるけど、私のいない時の家事って、割と秀樹がやってくれている。
最近は料理もお姉ちゃんに及ぶくらい上手くなってきて、個人的にはいつも嬉しく思っていたりもするんだ。
それを口にしたら、秀樹は「柾木、俺のこと、夫だからって過大評価しすぎ」と言ってたけど、やっぱり今の秀樹は、料理も上手くなったと思う。
「ま、その態度は蒼衣に免じて許してあげよう。それで、お風呂にする? すぐご飯にする? それじゃないとさ、やっぱりいいことする?!」
「……本当にあの頃から変わってないな、秀樹って」
とはいえ、ちゃんと変わっていないところもある。
私たちは時が経って、よくも悪くもちょくちょくと変わったけれど――やはり、いちばん大切なところは変わっていない。
あの時、青空の下で話し合ってから10年――
――本当に10年もかかるとは思わなかったが、長い長い付き合いの後、私たちはめでたく、式を挙げることになった。
その間、決して幸せなことばかりだったわけじゃない。それこそ様々な問題が立ちふさがったし、取り戻せないと思えるほどのケンカをしたこともあった。
文字通り波乱万丈な日々を積み重ねてから、ようやく家庭を持つことになった私たち。
それから子供が生まれて、秀樹が「俺もやりたいことがあるけど、いい?」なんてことを言い出して店を持つことになり――
私たちは、こうして今日も生きている。
「組織」と「反軍」は未だに、10年前と変わらない様子でいがみ合っている。あれからいろいろあったけれど、未だに2つの勢力が収まる様子は見えない。
もちろん、まったく進展がなかったといえば、それは違う。
笑ってしまうくらいゆっくりではあるが、二つの勢力は自分なりのやり方で、向こうと歩み寄ろうとしている。まあ、遠くから見るとあまりにもぎごちなく、不安定なものではあるが……。それでも、お互いのことを無視し、あざ笑っていた頃のことを考えると、ずいぶんと進歩したものだと言えるんだろう。
何より、それをなんとかして早めるため、私を含めた様々な人たちが、自分たちの立場で最善を尽くしている。
時には諦めたくなるくらい虚しくなったりもするけれど、それでも、私は何かを変えるため、自分の意思でここにいるんだ。
「組織」のように現状維持だけを求めるだけではなく、それとも「反軍」みたいに変革ばかりを望むだけでもない――きっとあるはずの、もう一つの道を歩くために。
「ただいま~柾木。ちょっと待たせたかな」
「いや、別に。秀樹こそお疲れさま」
ようやく心之介を部屋で寝かせてから、秀樹がすっきりした顔で戻ってくる。一人だけで子育てをしているわけじゃないけど、やっぱりいちばん子供たちの世話をしている秀樹の方がもっと大変なんだろう。
「最近は忙しくてごめん。もっと蒼衣たちと遊んであげたいんだけど」
「別にいいよ。家にいる時はいつも遊んでくれてるって、蒼衣も喜んでるから」
「そうか、ならよかった」
自分たちの娘ではあるけど、蒼衣は本当によく出来た娘だ。親の「元の姿」もすっきり受け入れていて、私の黒ロリ服とかを見ると「きれい!」と喜んでくれる。今は髪を結んでいないけれど、「いつか蒼衣も、ママみたいなついんてーるしてみたい」とか言ってくれたのは、すごく嬉しかった。
……さすがにまだ、学園生の頃の黒ロリの写真とかは見せていないけれど。
でも、いつかは少しだけ、勇気を出してみたい。服だけなら未だにたまに着ているし、「ママ、かわいい!」なんてことも蒼衣に言われているから。
だ、ダメだ。思い出すと、すごく恥ずかしい。
「でも、蒼衣は本当にいい子なんだからな。愛しくなるのも仕方ない」
「……俺たちの娘だから、当たり前だろ」
「えへへ、やっぱりそう思う? 俺さ、できる限り自分の子のこと、いっぱい愛してあげたいと思うんだよね。自分がされなかったことを、蒼衣たちには精一杯してやりたい」
「ああ」
私はその話に、静かに頷いた。だって、私もそのような考えだからだ。
できる限り、蒼衣たちには私がもらえなかった愛をたくさん注いであげたい。私がお母さんやお父さんからもらえなかったことを、蒼衣たちには十分してあげたい、そう思うんだ。
私の持っていた悲しみは、決して蒼衣たちに背負わせない。辛い感情の連鎖は、ここでもうお終いだ。
「最近は仕事もやりがいがあって、嬉しいことばかりだな」
「仕事と言ったら……パン屋のことか?」
私がそう聞くと、秀樹は大いに頷く。まるでその質問を待っていたような態度だった。
「うん、やっぱりウケるんだよ。柾木のレシピはね」
「べ、別にそれ、俺のおかげじゃ……」
「でも、本当にうまいんだよ?」
「……うっ」
は、恥ずかしい。
この歳になっても、やっぱり私は秀樹に敵わないようだ。
でも、これだけは仕方ない。
「組織」で働かざるを得ない妻の代わりに、その妻のレシピで焼いたパンやお菓子を売るために店までやるだなんて、タダじゃできないことなんだろう。
それも、「柾木のパンはめっちゃうまいから、みんなも知らなきゃ損だって」なんて理由でパン屋を開いた人なんて、秀樹以外にはありえない。
……隣で歩いてくれる人が秀樹で、本当によかった。
あの時、あなたと出会って――こうやっていっしょに歩けて、本当によかった。
「うーん、こんなの喋ってたら食べたくなったなぁ。柾木の作るお菓子」
「……駄々こねはいけないって、いつも言ってるんだろ」
「でもさ、たまにはいいだろ? ご褒美がほしいんだよ~。うまいし」
「わかった、わかったけど、一度『元の姿』に戻ってから」
「え~。その『別の姿』でも美味しいよ?」
「そ、そろそろ蒼衣とも『元の姿』で会いたいし、別にこれは俺の好みだからいいだろ」
「ふーん……」
「なんで拗ねてる」
そんな、ある意味「いつものような」やり取りを交わしながら、私はあの「機械」に思いを馳せる。
――あの「機械」は、それからも自分なりに発展してきたが、未だにほとんどの人には知られていない。
でも、個人的にはもう、存在が知られ、広まるのは時間の問題だと思っている。すでにその大きさはだいぶ減って、部屋いっぱいだったのがブースくらいの広さに縮まった。
何より、まだ少数ではあるけれど、もうあの「機械」は、私達姉妹と秀樹だけのものではない。
それに思いを馳せる度に、私はこの「機械」と同じような発展をやり遂げた、とある別の機械のことを考えずにはいられなかった。
……もし、この「機械」もその運命を辿るとしたら。
きっと、この世界は大きく変わってゆく。ひょっとしたら、それこそ「端末」が広がった頃より大きな変化になるかもしれない。
もちろん、それを歓迎しない人はたくさんいるんだろう。
そんな世界なんて、認められない。そう声を高める人もきっと出てくるはずだ。
別にそれを考えたわけではないけど、私もあの時以来、職場である「組織」では殆ど「別の姿」として過ごしてきた。例外は式を挙げたあの頃くらいで、「組織」の人間はほぼ全員、私のことを「別の姿」としか思っていない。
まあ、今までは職場を混乱に陥るつもりなんかまったくなかったから、それでよかったわけだけど……。
もうあの頃、式の時に来てくれた人たちにはすでにバレているわけだし、そこまで「別の姿」のことを考えなくても、ある程度は行けるかもしれない。
……つまりは、その。
自分だって、子供がほしいって、そう思ってしまうんだ。
「ん? どうしてこっちの方をじっと見ているわけ、柾木?」
秀樹の声に、私はようやく正気に戻る。どうやら、一人でずっと考え込んでいたみたい。
「いや、その。秀樹だけじゃなくて、自分もそろそろ……と思って」
「それって……おやおや、柾木さんも一人産んでみたいって思うの?」
……恥ずかしい。
ありとあらゆる理由で、私はそっと秀樹から視線を逸した。
「別にいいじゃないか。俺もそろそろ余裕出てきたし、もう一人くらいならまだへーきだよ」
「いや、何がへーきなんだ。やっぱり大変だろうに」
「だって、柾木とこうやって夫婦になってるから、子供はたくさん見たいだろ。えへへっ」
「そんな無茶な……」
本当に、秀樹は私に比べると大雑把だ。
でも、そんな秀樹のことが好きだから、私はやっぱり嬉しくなってしまう。
「まあ、そう心配すんなって。ここに立派な経験者もいるんだし」
「……なんか、だんだん自信がなくなるような気がするが」
「えっ? 俺のせいなの?!」
こうして、未だにコロコロと表情が変わる秀樹を眺めているのは楽しい。
さっきはあんなことを口にしたけど、きっと秀樹さえいれば大丈夫だ。秀樹は蒼衣の時に、「もう子供とか無理だよ~。マジ大変だったんだからな~~」なんてこと言ってたのに、何年か過ぎたら「あ、もう一人くらいなら俺で行けるかも」とか言い出して、結局、心之介まで産んでしまったわけだし。
ある意味、まだ子供を産んでいない私より遥かに強い。もう向かうところ敵なしみたいなものだ。
……もちろん、こんなことなんて絶対に口にはしないけど。
「でも、もし柾木までそうなったりしたら、職場が大変なんだろうね」
「ああ、色んな意味でな」
あの日以来、私は求めていた通りに「別の姿」で「組織」で働き続けたが、さすがに結婚することになると、ずっと黙っているわけにもいかない。
……当たり前だが、結婚式の日、式場はある意味大混乱に陥った。
まあ、慎治はすでに知っていたわけだから呆れるだけだったけど、他の子には、その、あんまり説明していなかったから……。
「あの時のあいつの顔、本当に傑作だったなぁ。未だにそれでご飯三杯はイケる。うへへ」
「……趣味悪すぎだろ、秀樹」
「とはいえ、妊娠は結婚ところじゃないからな。柾木って未だに名前もそのままであるわけだし、もっと大騒ぎになるかもしれないな」
それはそうだ。みんなの驚く顔は、決して想像に難くない。
結婚してから自分の意志で苗字も変えたものの、未だに仕事では今までの名前であった高坂で通じている。あの日の出来事さえ頭から消し去ってしまえば以前と変わらない私だったというのに、子まで孕んでしまうと「本当の自分」のことが明らかになってしまう。
……でも、もう未来は動き出したわけだから。
あの「機械」が世の中に知られることが、もう遠くない未来の出来事ならば――私も、そろそろ覚悟を決めた方がいいんだろう。
「まあ、秀樹がいるし、なんとかなるんだろ」
「おお、柾木からそういう言い方されるのって珍しい」
「べ、別にそこまででも……」
これを褒められたものかと言われると答えに困るけれど、なんだか照れくさい。
でも、今までの私たちが「なんとかしてきた」ように、これからも割と「なんとかなる」だろう。
私の隣には秀樹と、私たちを大切にしてくれる、たくさんの仲間がいるから。
きっと、誰かは私たちのことを指差し嘲笑い、遠ざかるんだろう。私たちの生き方を見るだけでも吐き気がして、避ける人だっているかもしれない。
やっぱり私たちの生き方は、誰でも受け入れられるものじゃないから。
私たちの娘である蒼衣は、自分を産んだ秀樹のことを「パパ」と呼び、外で働いている私のことを「ママ」と呼んでいる。もちろん、これも最初には色々あったわけだが……。どちらが見ても、こんな光景は正気だとは思われないんだろう。私たちの「別の姿」を、蒼衣が受け入れていることも同じだ。
それは「あの日」以来ずっと覚悟しているものだし、未だにその事実は変わらない。どれだけ時と価値観が変わったとしても、全てを受け入れられる人なんていうのは存在しない。もちろん、全ての人が認める生き方なんていうのもあるわけがない。
だけど、私たちはそれを承知の上、ここにいる。
たとえ誰かには認められなかったとしても、私たちはここで、生きているんだ。
あの日、私たちが決めたこと。
他人の視線なんかは考えず、自分たちが望む道を歩こう、と約束したこと。
まだ私たちの人生は終わってないし、目の前にはまだまだ道が続いてるけれど――
――それでも、これが私たちのハッピーエンドだと、胸を張って言ってみたい。
これから何が起きるかなんて、やっぱり今の私たちにはよくわからないけれど。
その先に何があったとしても、今はやっぱり、こうして二人で歩いてみたいんだ。
「あ、そういや久々に思い出した」
急にこっちを見てニヤニヤする秀樹に、私は首を傾げる。今度はいったいどうしたんだろう?
「どうしたんだ?」
「いや、そういや蒼衣たちはまだ知らないんだな~と思ってね」
「だから、何がだ」
私が答えを迫ると、秀樹はまたニヤリと笑って見せながら、突然こんなことを口にする。
「あのさ、蒼衣。実はママって、初めてパパと出会った時にはすごく素っ気なくて――」
「ちょ、ちょっと! 何言ってるんだ、今!?」
私は思わず、そう動揺してしまう。まあ、今になっては笑い事だと言えなくもないけど、まさか蒼衣たちの前で聞かされるとは思わなかった。
「へーそうなんだ」
そんなことを口にしながら、 蒼衣は秀樹の方に近づいてゆく。秀樹が優しく抱きしめてあげると、 蒼衣はその胸の中に顔を埋めて、幸せそうに微笑んだ。
い、いや、今はそんなことが重要なんじゃなくて!
「そうそう、ところがどっこい、ママって別にパパが嫌だとか、そういうわけじゃなくて――」
「そ、そこまでにしてくれ。聞いてるこっちの方が恥ずかしい」
「そりゃ柾木には恥ずかしいんだろうけど、こっちとしては……うへへ」
「だ、だから、『別の姿』でそんな不気味な顔はやめてくれって何度も……」
「へへっ、パパの胸、すごく柔らかい」
私たちの騒がしい掛け合いを、秀樹の腕の中にいる蒼衣が、頭を撫でられながら嬉しそうに眺める。
……はっきり言って、こんな姿を自分の子たちに見られるのはすごく恥ずかしい。
それでも、こんなことで騒いでいるこの瞬間は、言葉にできないほど幸せだった。
だから、私たちは――
今日もこうして、この未来で生きている。