94.幼年期の終わり

 そこは、まるで私たちの始まりだった気すらしてくる、あの公園。
 別に初めてここで出会ったわけでもないのに、不思議な話だと我ながら思うけれど……。それでも、やっぱり今日はここに来てみたかった。

「これで本当に、一件落着かな」
 秀樹はこっちに振り向きながら、そう話しかけてきた。日差しが眩しくて、秀樹の顔すらうまく見つめられない。
「……たぶん?」
「だったらいいなぁ。さすがにこれ以上、映画の中の出来事みたいなやつに巻き込まれたくはないんだよね」
「ご、ごめん」
 私は思わず、そう謝っていた。別に今度の出来事はこちらのせいじゃないと思うけど、やはり秀樹には申し訳なかったから。
 でも、「私のせいで」なんてことは、もう口にしない。もう私たちは、そういう仲じゃないから。

 ある意味当たり前かもしれないが、あのどうしようもない事件の後、私の周りからも様々な反応があった。
「お前ってやつは、なんで周りがいつもいつもあんなふうになっちゃうんだ」
 私が無事に「組織」へ戻ってくると、慎治はそんなことを言ってからため息をついた。まあ、それは自分でも納得いかないところなんだけど……。向こうの呆れた顔を見ると、どうしても何か言い返したくて仕方がない。
「まったく、普通の男より遥かにヒーローしてるからな、お前は」
「……こっちが求めたわけじゃないんだが」
「周りからはそんなものんわかんないって! これに『元の姿』はその、か、かわいいし……」
「いきなり何言ってるんだ、お前は」
「し、知らん! とにかくズルいぞ、柾木!」
 ……いったい私は、慎治に何をしたというんだろう。
 そこそこ長い付き合いになってるとは思うけれど、私は未だに、この男がよくわからない時がある。
「すごい! やっぱりわたしの男は違うな~。かっこいいよ、柾木」
 一方、雫は最近の出来事について聞くと、真っ先にそう反応してきた。これは嬉しがるべきなんだろうか、困るべきなんだろうか。こっちが反応にこまる。
「いや、あんな出来事にかっこいいとか言われても」
「でも柾木って、橘さんのことを救うためにそうしたんじゃない。妬いちゃうなぁ」
「だから……」
 まあ、ここまでは想像の範囲内だったけれど……。いちばん予想外だったのは、美由美っていうか、その妹の反応だった。
「あの、わたし、やっぱり心配だったから、美智琉にも柾木くんのこと、話しておきました」
「そ、そうか」
「それを聞いた美智琉ったら、大いに驚いて……。『なんであの人はあんな無茶ばっかするわけ? バカじゃないの?』って言われてしまって」
「……ああ、そうだろうな」
 厳密に言うと、あの出来事って私のせいでもなんでもないんだけど。さっきの慎治や雫の反応を思い出すと、なぜか美智琉の方の反応が安心できる気がするから不思議である。
「で、でも、美智琉ってそう言ってからすぐに、『で、高坂さんは無事だよね? どこか怪我したり、してないよね?』とすごい勢いで心配してきて」
「あの、美智琉が?」
「はい。わたしは大丈夫だよ、と安心させたんですが……。美智琉ったら『やっぱりあたしが高坂さんに連絡してみる』と大騒ぎで、落ちつかせるのにずいぶん時間がかかったんです」
「あいつはいったい……」
 私、いったいどうしたらいいんだろ。
 今この瞬間、私は慎治よりも雫よりも、美由美の妹の方がよくわからなくなってしまった。

「でも、やっぱりあの飯塚って人、柾木のことは最後までわかってくれなかったね」
「……そうだったね」
 秀樹の話に、私はそう答える。未だに秀樹は、飯塚と私のあの会話のことを覚えているようだった。
「やっぱりアレ、ずっと引きずってる? 悔しいとか、怖いとか」
「ううん、それは別にいい」
「ほんと?」
 私が首を横に振ると、秀樹は心配そうな顔でこちらを覗き込んだ。むしろ気にしていたのは、私じゃなくて秀樹の方だったらしい。
「ほんと。もう飯塚に認めてもらえなくたって構わないよ」
「そうなんだ」
 私の答えに、秀樹はそう頷く。
 確かに今までの私なら、こうは思わなかったはずだけど――今の自分には、そんなものがすんなりと思える。
 今までずっと抱いていた悩みが、非常にどうでもいいものになったような不思議な感覚。
 でも、その感覚はとても心地よくて、すごく落ちつくものだった。

 とはいえ、まだどうしようもない迷いみたいなものは、確かに私の中に残っている。
「まだ、前に進むのが怖い?」
 私の心を察したのか、秀樹はこっちに向けてそう話しかけてきた。
「怖い……っていうか、なんとなく戸惑いがあって」
「まあ、それもそうかもね」
 そう言って、秀樹が頷く。
 心を決めたのは間違いないが、前に踏み出すのが、ちょっとだけ怖かった。
「いちおう、俺としては覚悟は出来てるつもりなんだけど、きっとこんなんじゃ甘いんだろうね」
 まるで独り言を口にしているような口調で、秀樹はそう話す。その視線は、目の前にある広い空に置かれていた。
「でも、やっぱり歩いてみたいって気持ちは変わらないよ。しょうがないなぁ」
「そう、だよね」
「うんうん、きっと大変なことはいっぱいあるんだろうけど、覚悟しなきゃ始まらないよね、って感じ」
 私が思っていたことも、まったく同じだった。
 この道を進むと決めた以上、どれほど大変なことがあっても仕方ないって。
 もちろん、大変なことばかりじゃないって信じてるし、実際にもそうなると思うけど……。
 やっぱりこんな道、一人だけじゃ上手く歩けないかもしれない。
「だから、まずは手をつなごう」
 その時、秀樹がこっちの左手をぎゅっと掴んだ。
 不思議なことに、ここまで暑いというのに――その暖かさが、おかしなくらいに心に染みる。
「俺たち、いっしょに歩いていくって、そう決めたから」
 そう言って、秀樹はこっちを見ながら、微笑む。
「本当に十年かかってもいいから、俺たちなりのペースで、ね?」
 ……卑怯だ。
 そんな笑顔を見せられると、こちらとしては頷かずを得ない。

「あ、でも一つだけ欲しいな」
「……何?」
 いきなり真剣な顔をする秀樹に、私はそう聞いた。
「いや、別に大したことじゃないけどさ、やっぱりちょっと欲しくなってしまって」
「だから、何のことか――」
「俺さ、柾木に笑ってほしい」
「えっ?!」
 この答えは、かなり、いやすごく予想外だった。
 確かにあの時にも、「笑ってくれた」とか、変なこと喋ってたけれど……。
「い、いきなりなんてこと……」
「いや、これってずっと俺の夢だったんだよね。柾木の笑ってる顔が見てみたいって」
「あんた、私とは二年生になってから知り合ったんじゃない」
「だから、二年生になってからなんだよ。そう思うようになったこと」
 な、なんか私が負けそうな気がする。
 こんな空気になった時、私が秀樹に勝った覚えなんか、まったくなかった。
「そりゃそうなるんだろ? ずっと拗ねてる顔ばかりしてたから、俺に向けて微笑んでくれるのがすごく見たかった」
「ひ、秀樹のド変態……」
「いや、柾木が俺にやってきたものよりはずっと健全だと思うぞ? こんなもん」
 ……それはそうだ。
 よく考えてみると、好きな人の笑顔が見てみたいなんて夢、おかしくも何もない。
「ま、あの時にはまさか、あの夢が叶うだなんて思いもしなかったけどね。でも俺のこと救いに来た時、柾木は笑ってくれた」
「そ、そういや、あの時の表情って……」
「そう、それ見て思い出したんだよ。『元の姿』でも笑顔が見たいな、なんてこと」
 ……断れない。
 っていうか、こんな願い、断れるわけがない。
「は、恥ずかしいこと、勝手に言って」
「まあ、柾木ならそう答えるとは思ったけどね。ダメかな?」
「そんなん……」
 照れくさいけど。上手くできる自信なんか、まったくないけれど。
「ダメじゃないことに、決まってるじゃない」
 だから私は、秀樹に向けて笑ってみせる。
 これって、自然な笑顔になっているんだろうか。
 ……恥ずかしながらこういう風に笑ったことが滅多にないので、あまり自信がない。
 誰かにこうして微笑んだことって、いつぶりなんだろう。やっぱり私って、こういうのは照れくさいから……。
「……あははっ」
 秀樹は最初、何が起きたのかわからないって顔でこっちをじっと見てから、やがて何がそこまで楽しいのか、声を出して笑った。
「本当にしてもらえるとか、思ってなかったなぁ」
「これで、満足した?」
「そりゃもう、大いにね」
 その笑顔が、あまりにも眩しくて。
 私はなぜか、自分が笑ってみせたはずなのに、秀樹に笑ってもらえたような不思議な気持ちに囚われた。

 空が、どうしようもないくらい青い。
 あまりにも長かった私たちの夏が、ようやく終わりを迎えようとしていた。
「じゃ、歩こうか?」
「うん」
 それでも、私たちはそこに向かって、歩き始める。
 私たちが歩いていきたい、その未来のある方へ。

 ――未来はもう始まっている。
 私たちは誰かが口にしていたその言葉を、強く、強く胸に刻む。
 いつだって未来は、私たちのすぐ目の前にある。
 たとえその未来がどこへ繋がっていたとしても、私たちは、この歩みを緩めない。
 この涼しい風とまぶしい日差しに導かれ、私たちはようやく、前に向かって歩き始める。

「そういや、気になることがあるんだよね」
「今度は何?」
 私が聞くと、秀樹はいたずらっぽく笑顔を浮かべながら、こんなことを言ってきた。
「あのさ、俺たちが『別の姿』で初めて出会ったあの日まで、柾木ってすごく冷たかったんだろ」
「……それが?」
「あの時さ、ひょっとして柾木って俺のこと気になってたのに、興味ないフリしてたの?」
「え、えっ?!」
 ダメだ。どうしても平然としていられない。
 いや、あの時はたしかに、秀樹に素っ気ない態度を取ってたけれど、あの頃から気になっていたかどうかは、その、自分にもよく……
「な、なんで今さらそんなこと口にするわけ?!」
「やっぱり図星だったか。はははっ」
「うっ……」
 やっぱり秀樹って、どうしようもない意地悪だ。
 ……まあ、そんな人に惚れちゃった私の方も大馬鹿なんだけど。

 じゃ、引き続いて、歩いてみようか。
 私たちがずっと夢見ていた、あの輝かしい未来へと。