84.大好きだから、話せない

 ……昨夜はどうやって眠りについたんだろう。
 次の日の朝、なんとか目が覚めたものの、私は未だにそれがわからなかった。
 相変わらず頭が重くて、何も考えられない。だけど、私は社会人なんだから、そろそろしっかりしなくてはいけないんだ。
 わかっている。わかっているつもりだけど――
 今は、どうしても体に力が入らなかった。

 そんな感じで、私が自分の執務室でぼんやりとしていたら――
「柾木!!」
 ここが一応、会社のようなものだということを綺麗さっぱり忘れたような高い声が、私に聞こえてきた。
「どうしたんだよ、昨日は。あれから連絡も何もないし、心配したんだよ?」
 案の定、そこでドアを勢いよく開けて飛び込んだのは、他でもない秀樹だった。何日か前に顔を合わせたはずなのに、今はその顔がとても愛しく思える。
 ……私、会いたかったんだ。
 ずっと我慢してたけど、本当は秀樹と顔を合わせたかったんだ。

 そう思うと、私は思わず、秀樹のことをぎゅっと抱きしめていた。
「ちょ、なになに……柾木?!」
 当たり前のように秀樹は驚くが、私の方は不思議なことに落ちついた気分だった。
 この温もりが、ずっと欲しかった。
 私はやはり、誰かがこうやって、側にいてほしいと思ってたんだ。
「な、何も言わずにいきなりここまでぎゅっと抱きしめられるのは、その、なんだ……」
 秀樹の声が、だんだん小さくなる。らしくない反応っていうか、どうも照れているらしい。
「う~柾木ってズルいよ。こういう時は男よりそれらしい態度だもん。こんなの、女の子がされたら絶対に惚れちゃうよ?」
「……別にいいだろ」
「ぐぬぬ……」
 とか言いながらも、秀樹は私の腕から逃げようとしない。きっと、こっちの気持ちを察してくれたんだろう。
 ……ありがとう、いつも私のこと、考えてくれて。
 自分は口下手だから、あんまりそういうのは言えないんだけど。

「来てくれたのはありがたいが、その、わざわざここまで来る必要はないだろ」
 ようやく秀樹を放した私がそう言いながら視線をそらすと、向こうから微妙に不機嫌な声が帰ってきた。
「む~~。さっきあそこまで急に抱きしめてきた柾木がそれ言う?」
「そ、それはこちらも急すぎたと思ってるが、その……」
「大したことじゃないけど、ただ柾木が気になっただけだよ」
 自分も恥ずかしかったんだろうか、今度は秀樹の方が露骨に視線をそらした。
「その、昨日電話してた時には俺が『元の姿』だったんだろ? 今の柾木は別の方だからさ、この姿で会いに来た方が嬉しいかなと思って」
「別にそんなこと、気にするわけがないだろ」
「それとしてはかなり嬉しそうだけどね」
 ……反論できない。
 元の方の秀樹も好きだけど、お互いが「別の姿」の組み合わせも、その、悪くないって思うんだ。

「で、電話の続きだけど、やっぱ実際に見てみると、今の柾木って元気ないね」
「そうか?」
 わかっているくせに、私はそう聞いてしまう。やはり今、自分の様子はあまりよくないみたいだ。秀樹にはモロにバレている。
「そそ、やっぱ昨日、なんかあったんだろ?」
「いや、別に……」
 ここに来て、私はどうしたらいいのかと迷う。
 秀樹のことだし、やはり素直に打ち明けたら喜ばれるんだろう。でも、やはり秀樹にはあまり心配をかけたくない、と願う自分もいる。
 大好きな人であるからこそ、自分のせいで悲しむ顔は見たくない。
 ……こんなの、秀樹に言われたらまたムッとした顔になりそうだけど。

 ――これから自分はどうしたいのか。
 まずは、これを明らかにしなくてはいけない。
 やはり、私は「自分でいること」を諦めたくない。そんなことになったら、おそらく自分はもう生きていられないと思うからだ。どれだけ「別の姿」でもいいって思っているとしても、「世界から求められる」自分でばかりいるのは耐えられない。
 やはり黒ロリだって今までのように続けたいし、できるならずっと、「元の姿」ではツインテでいたいなんて思ってしまう。化粧も嫌だ。自分がいちばん好きな姿でいたい。
 そして、この「組織」で「別の姿」として働きたい。ここで一つずつ、自分のできることをやっていきたい。「元の姿」の自分のことも大切だけど、やはりこの「組織」では、慎治を始めとした人間関係にせよ、すでに慣れてしまった体力のバランスにせよ、この姿で仕事をしていたいと思う。
 でも、そのチグハグな生き方を貫くためには、とんでもない困難を乗り越えなきゃいけない。
「自分がありたい形で生きていきたい」というのは、つまり「自分が普通じゃないことをバラす」ことに繋がるんだから。
 ……自分が変な人間であることを、周りに知られてしまうかもしれない。
 それは、自分が何よりも恐れていたものだった。
 その事実が明かされることになったら、まず誰も私のことを、以前と同じ眼差しでは見ないだろう。

 もちろん、これが怖くないって言ったら嘘になる。
 こういうふざけた希望を真面目に聞いてくれる人が、果たしてこの世の中に何人くらいいるのか。
 私が今求めているのは、人によってはただの戯言だ。
 自分は化粧なんかしたくないし、ありのままの自分がいちばん好きなんだ、と本気で思っている人間が存在するって、果たしてどれくらい信じてもらえるんだろう?
 きっとしーちゃんだって、私がこんな人間だったとわかると軽蔑するんだろう。そもそも、学園で親しくしてもらってるだけの仲なんだから、私のこと、あまり教えてなかったし。
 ……誰かと親しくなるのが、いつも怖かった。
 自分はこんな人間だって、こんな「普通じゃない」やつだって、知られたくなかった。
 きっと、嫌な顔をするから。
 私みたいなやつと親しくなったって、いいものなんか何ひとつないから。

 やはり自分って、誰かにわかってもらえない存在になってしまったな、と思ってしまう。
 そもそも普通の人間なら、「別の姿」――男の姿で女装とかしてしまった、「女の子」である自分の経験を聞くと、絶対に引く。話そうと思い浮かべることすら勇気がいるくらいだ。
 もちろん、その「別の姿」で何度も雫と関係を持ったこととか、大きなおっぱいが好きだとか……そういうところは、もはや言うまでもないだろう。そもそも自分の「元の姿」と「別の姿」は、あまりにもギャップがありすぎる。以前にも思ったけど、本当に全く別のピースが混ざったパズルそのものだ。あの時、慎治が言っていたことは何ひとつ間違っていない。
 ここに自分の男嫌いだった過去とか、その事情とかが重なると、自分の成り立ちを理解してくれる人は、きっとびっくりするほど減ってしまうはずだ。
 ……たとえそういうところが私にとっては日常の些細な悩みのようなものだとしても、誰かに気軽く口にすれば、きっとみんな自分から距離をおくことになるんだろう。私の周りには秀樹がいたから助かったけれど、みんながみんな、秀樹みたいな優しさを持ってるわけじゃない。
 根本的に、自分の境遇は共感されづらいんだ。
 まるで夢物語のように、実感なんてまったく沸かなくて。どれだけ実際に私が経験していたものだとしても、誰にもわかってもらえない。
 ……不気味な存在。
 誰にだって、自分には「考えもできない」環境はフィクションそのものだ。化粧も好きじゃない、ツインテばかりのつるぺたな黒ロリ女な自分なら尚更そう。
 こんな人間、誰にも実在するって思われないんだろう。
 ――ここに自分はしっかりと生きているというのに、誰も私のことを、「ありえる」と思ってくれない。
 間違いなく現実の存在であるはずなのに、そんなはずない、と否定される。私にはあまりにも簡単に、そういう反応が想像できた。
 確かに今は秀樹がいるけれど――それも永遠かどうかは、言い切れないんだ。
 私にはもう、そういう言葉が容易く信じられない。たとえそれがこの世の中で、いちばん大切だと思っている人のものだとしても。

 ……いつか、秀樹たちも私から離れてしまうんだろうか。
 それを考えると、どうしても怖くなってしまう。
 こんな変な人間と、いつまで付き合ってくれるんだろうか。今ならまだ大丈夫だけど、いつかは飽きてしまって、私から去ってゆくんじゃないんだろうか。
 ずっといっしょにいてくれるだなんて、贅沢なんじゃないんだろうか。
 やはり私は、ひとりぼっちになってしまうんだろうか。
 ここまで自分勝手でおかしな女の子にずっと興味を持ってくれる人間は、やはりこの世のどこにもいないんじゃないだろうか。

 そして、何より怖いのは、「昔の自分」に嫌われること。
 いや、嫌われるくらいならまだいい。きっと、子供の頃の私は深く絶望する。
 もう、どこにも味方がいないという事実に。
 ――他でもない未来の自分が、「今」の自分を裏切ったことに。
 自分をあそこまでからかったやつらと同じ存在になっていることに、何よりも苦しむんだ。
 体どころか、今の私は、きっと「心まで」あの時のやつらと同じように見えるはずだから。
 ここまで絶望な出来事なんて、あるわけないだろう。
 でも、こうなってしまっても、やっぱり私は紛れもない「高坂柾木」そのものである。
 ……自分に、絶望する。
 味方なんていなかった、誰にも頼れず、強がることしかできなかった自分のことを思い出して、一人苦しむ。結局こうなってしまった自分のことを思い浮かべて、辛くなってしまう。
 ――そして、ここまで苦しんでいるのにもかかわらず、「こうなってしまった」ことを後悔していない自分に、幻滅する。
 もちろんあの時、私にはお姉ちゃんがいたけれど。
 あの絶望を心から味わったのは、私ただ一人だったんだ。

 立っていることすら怖い。誰かに頼りたいって、そう思ってしまう。
 でも、弱気を出すのはもっと怖い。
 だって、そんなことをやってしまったら、その人は、きっと。
 ――私から遠ざかってしまいそうだから。

「悩んでるな、今の柾木って」
 そんな私の気持ちを察したのか、秀樹はこっちをじっと覗き込んでいた。
「まだ俺には話せない事情?」
「……ごめん」
 私はただ、それしか口にできない。
 今はいちばん好きで頼っている人のはずなのに、だからこそ、余計なことは話せなくなってしまう。
 心配、かけたくないから。
 ……これを知ったら、やっぱり秀樹は悔しむかな。

 でも、やっぱり今だけは口にしたくない。
 自分の事情のせいで秀樹が苦しむことだけは、あんまり見たくないから。