85.こんな、私が

 それから何日が過ぎて、私の周りにもいつもの日常が戻ってきたように思えた。
 ……つまり、一応はいつものような日々が続いているけれど、私にはどうも、それが実感できない。
 ぼんやりしているっていうか、どうすればいいのかわからない。なんとかやるべきことはこなしているものの、どうしてもいつものように、シャキッとした態度にならなかった。
 自分から考えてみてもおかしい。
 ――今の自分、完全に抜けてる。

 こういう日には、やはり秀樹のことが恋しくなってしまう。
 きっと、私が全てを打ち明けたら――秀樹は、私のことを優しく抱きしめてくれるんだろう。
 それを思い浮かべたら、私は――
「……あっ」
 ダメだ、まだどうしても怖くなってしまう。
 その優しい手に触れたいというのに、どうしてもそれを断ってしまう。
 ……大好きなのに。
 もう秀樹がいなくなったら、私、どうしたらいいのかわからなくなってしまうのに。

 元々、あんまり素直じゃない人間だ。自分の心を誰かに打ち明けるなんて、どうしてもできそうにない。
 自分から考えてみても変だ。誰かの話を聞いてあげることなら、得意だと言えなくもないのに。
 こうやって心の中でなら、いくらでも素直に喋ることができるくせに。
 皮肉なことに、実際に思っていることを口にしようと思ったら、怖くて怖くて仕方がないんだ。
 誰も覗くことのできない自分の心の中でならば、ここまで素直になれるだなんて。あまりにも滑稽すぎて、乾いた笑いしか出てこない。

 でも、やはり「こんな」自分について、到底自信が持てない。
 きっと世の中の男は、「純粋」な女を求めてると思うんだ。自分みたいな人間なんて、初めは好奇心などで少し興味を持つかもしれないけど、時間が経つとその好奇心は「飽き」に、飽きてからは「気持ち悪い」に変わってしまう。
 ――あんなやつとは近づきたくもない、なんて言われてもおかしくはないはずだ。
 当たり前だ。私はあらゆる意味で、歪んでいるから。私だって「別の姿」で男のことはずっとやり続けてきたから、それは誰よりもよくわかっている。
 男としての経験があって、かつ、それを悔しむところか、ある意味誇りとも思っている女のことだ。それを責めるつもりはまったくない。人によっては「女」ですら認められなかったとしても、ある意味、それは仕方のないことだと思う。
 こんな「女」の姿でもなかったら、誰も私みたいな変人には見向きすらしないんだろう。
 自分がかわいいかどうかはともかくとして、こんな姿でもしてなかったら、自分なんて近づきたくもない人間に決まっている。

 もちろん、女に好かれるだなんて論外だ。
 たぶんこの世の中に、こんな体型であることをむしろ喜んでいて、黒ロリやツインテは好きだけどメイクなんてあまり好きじゃなくて、「ああいう経験」をしているのも関わらず、「別の姿」で仕事したいって人間に同意する女性はほぼいない。
 人によっては、私のあらゆるところが「男に媚びている」ようにしか見えないんだろう。私は、そういうの女にとっては「理解すらできない」、わかってもらえない不気味な存在なんだから。
 ――どうして「元の姿」じゃダメなの?
 その正しい疑問に、私はまだ、誰かを説得できるほど立派な答えを持っていなかった。

 つまり、自分という存在はどこにも居場所がなくて。
 もし、自分がこんな歪んだ人間だというのが社会にバレたら、きっと私はそこで終わるんだろう、ということが簡単に想像できるくらいだった。

 こんな自分が素直になれたとして、果たしてどれくらい受け入れられるんだろう。
 今のような「別の姿」で、「元の姿」のような仕草や口調でいても、ただキモいだけだ。
 これはきっと、単なる思い込みじゃない。誰もが仕方なく、むしろは進んでそう感じてしまう。照れた男の顔や女言葉とか、同じ男にはきっと嫌がられるだけだろう。その中身が本当に女の子だったとしても、そんなこと、「器」が男であればどうでもいいことだ。そもそも「高坂柾木」という人間が、もう「女」と言い切れる中身であるのかはともかくとして。
 仮に私が、「別の姿」が求められる場所で「元の姿」を出したとして、いったいどれくらいの人が受け入れてくれるんだろうか?
 自分の素がポロリと出てきてしまった時だって、もちろん結果は同じだ。
 自分の「別の姿」がどれだけ立派だったとしても、相手がただの仕事仲間だとしても、そうなってしまったら――きっと、誰だってもう、私のことを「いつもと同じ」には見てくれない。
 私がフィクション上の存在だったらともかくとして――今の自分は、間違いなくこの現実に存在するわけだから。

 それがわかっていたから、私はずっと、この「別の姿」ではそれにふさわしい態度を心かげてきた。
 口調や仕草、あらゆるところで「元の姿」を隠し、恥ずかしくない、「普通」の人間になることを求めた。
 当たり前だ。「別の姿」には、それに似合う振る舞いがある。それに「元の姿」を加えるだなんて、なんの意味もない。見苦しいだけだ。
 今でも私はそれを後悔していない。これを取りやめるつもりもまったくない。そもそも、「別の姿」でああいう振る舞いをするのは、もう嫌ではなかった。誰かに強いられてこういった「別の姿」らしい態度をとっているわけではない。
 ……気持ち悪いって眼差しなんて、絶対にされたくなかったから。
 そんな姿を晒すだなんて、迷惑でしかないって信じていたから。
 そういうところもあるということは、たしかにまったく否定できなかったけれど。
 むしろ、心が弱くなった時には、自分から考えてみてもおかしいくらい、それを徹底していたけれど。

 普段の姿(別の姿)とプライベートの姿(元の姿)が、あまりにもかけ離れている存在。それこそ、同一人物なのかどうかすら疑われるくらいに。
 真面目なフリをして、実は誰よりも歪んでいる、私という人間。
 もう「元の姿」と「別の姿」を行き来すぎて、ある意味「化け物」だと言えなくもない、自分の体。
 こんな人間と触れ合うことにも、付き合うことにも、やはり覚悟が要る。
 いつか、相手にその覚悟が無くなってしまったら――
 ……私は、自分がどうなるか、想像することすら怖くなった。

 はっきり言うと、やはり、嫌われるのは怖い。
 自分みたいな変な人間、いつまで好かれるかまったくわからないし、その時が本当に来てしまったらどうしたらいいのかすら迷ってしまう。
 ……こんなこと、秀樹や雫、美由美たちに聞かれたら、きっと怒られるんだろうな。
 それでも、自分が素直になったせいで、その重さに耐えられなくなった「大切な人」たちが、いつか私から離れていってしまうとしたら――
 私は、やはり生きていられない。
 自分の事情を変に口にして、みんなに負担をかけた結果、辛い別れを迎えるくらいなら――私は、ずっと「自分だからこその」辛さを、このまま一人で抱えて生きたほうがマシだと思った。

 自分のことが嫌いなわけじゃない。自分のことが、好きになれないわけじゃない。
 ただ、「自分が自分であること」に絶望しているだけ。
 自分が他の人と違う存在だということに、深く落ち込んでいるだけ。
 誰にも共感されない「変な人」になってしまったことが、ただただ辛いだけなんだ。
 こんな自分に頷いてくれる人なんか、きっと誰一人いないっていうのが、怖くて怖くてたまらない、ただそれだけの話。
 もしいたとしても、いつか自分から離れてしまったら。
 きっと今の私は、立ち直れなくなってしまう。

 このままでいいのかな。やっぱり、そんなわけないよね。
 そういうことはとっくにわかってるくせに、どうすればいいのか、自分でもよくわからない。
 ……こんなにうじうじしている姿って、きっと周りから見ると鬱陶しいんだろうな。
 それは自分がいちばんよく知っているつもりだけど、それでもこうして迷ってしまうのが辛い。
「……誰だ?」
 そんな時、急に「端末」が電話のことを知らせてくる。
 相手は……どういう偶然か、他でもない秀樹だった。

『どうしたんだ』
 なんでもないフリを心がけつつ、私は電話に出た。
『あ、柾木!』
 私の声が聞こえると、秀樹は「端末」越しでもすぐわかる明るい声ですぐ答えてきた。やはりというべきか、今度も「別の姿」の声である。
 ……どうしてその声が聞けただけで、ここまで満たされた気持ちになれるんだろう。
 とはいえ、以前にもそうだったけど、秀樹は私のことなら何でも察してしまいそうで、少し怖い。でも、それが伝わらないようにするため避けるのは、もっと嫌だ。
 やはり、私は秀樹と一緒にいたい。
 今はまだ、どうしたらいいのかわからない状態なんだけど――
『最近はやけによく連絡を入れてくる気がするが、俺は元気だって何度も――』
『嘘つき。絶対に何かはあったんだろ』
 やはり秀樹だ。私のことなら、何でも見通しである。
 そんな秀樹に私は間違いなく「嘘」をついているわけだから、これこそまさに図星、ってものだろう。
『……大丈夫だって、言ったんだろ』
 でも、こうやって私は、秀樹の「言い当てた」ことをなんとか否定する。
 自分だって、秀樹には嘘なんかつきたくない。
 今すぐ、この心の中を打ち明けることができるなら、どれだけ楽になれるんだろう。
 ……自分の大馬鹿。
 今の私は、「端末」の向こう側にいる大好きな人のことを失いたくないから、こうやって好きでもない嘘をつき続けているだけの、ただの臆病者だ。

『でも、気になる』
 今日の秀樹はどこかしつこいって言うか、諦めが悪い。
 やっぱり私のこと、気にかけてくれてるのかな。以前にもあんまりいい様子には見えなかったんだろうし、秀樹ならそんな気持ちになるのもおかしくはない。
 ……困ったな、本当に。
 私としては、やはり自分のせいで、秀樹が辛そうな顔をするのは見たくないんだ。
 でも、このままずっとあの日のことを隠し続けて、秀樹とよそよそしくなるのも嫌である。
 どうしたらいいんだろう。
 こんなことを思うだけでも、秀樹に何か隠し事をするようで、あんまり気持ちはよくないんだけど……。
『やっぱ、俺には話せないことなの?』
 でも、ここまで心のこもった声を聞くと、どうしても心が揺らいでしまう。
 私はこんな人間だから、やはり素直になるのは怖いけれど。
 ――それでも、あの日の出来事「だけ」ならば、まだ話せる勇気が持てると思うんだ。
 別に嘘をつくわけじゃない。最近私にあったことを、そのまま秀樹に伝えたらいいんだ。飯塚のことや会議のことを、事実だけ話しておけばいい。
 それから何があったかなんて、別に話す必要はないんだ。
 ……変なことを口にしたって、秀樹が余計な心配をするだけだから。

『……ということになったんだ』
 だから、私はようやく心を決めて、秀樹に今までの出来事を話した。
 ありのまま、何も隠さず。
 ……でも、自分が悩んでいたことは、何ひとつ口にせずに。
『そ、そんなことあったんだ。大変だったなぁ……』
『別に、そこまででもない』
 そんなことを口にしながら、私は思わず、秀樹から視線を逸らした。今ここにいるわけでもないのに、自分も知らぬ間にそういう仕草を取ってしまった。
 やはり、今の私って、秀樹に負い目を感じているのかな。
 こういうのはあんまり話さない方がいいとは思うけど、やはり秀樹に嘘なんか、つきたくない。でも、変に今の心情を口にしたら、余計に心配しそうで嫌だ。
 好きだからこそ、辛そうな顔はあまり見たくない。
 ……その原因が自分にあるなら、なおさらそうだ。
『でも、その飯塚って人、ひどくない? 柾木のこと、何も知らないくせに』
『ま、まあ、それはあったと思うが』
『きっと柾木って、あの時辛かったんだろうね。その後は会議でボコボコにされたし……。別にあれ、柾木のせいじゃないと思うけどな』
『そ、それは助かる』
『俺と柾木の仲なんだろ? 心配するのは当たり前だよ』
 そう話してから、秀樹はしばらく、じっと黙っている。
 その異様な沈黙に、今度はこっちの方が変に緊張してしまった。

『と、とにかく、これ以上はあまり心配しなくてもいいからな』
 このままだともっと甘えてしまいそうで、私は素早く話題を逸らす。
 こんなことだって、あんまりやりたくはないけれど……。秀樹とこうやってずっと話していると、「端末」の向こうだとはいえ、また弱くなりそうな気がした。
『そう? まあ、柾木のこと、俺は信じるけど……』
『大丈夫だって』
『む~~』
 やっぱりというべきか、秀樹はまた拗ねた態度になる。私がここまで素直じゃないんだから、むくれてしまうのも当たり前だ。
 でも、やっぱり今だけは、こうやって甘えていたい。
 だから、少しだけ待ってくれると――
「……ん?」
 変だ。今、この部屋には自分一人しかいないはずなのに、どこかで人の気配がする。
 私、なんか忘れていたものでもあったのかな。
 たとえば、執務室のドアをきちんと締めてなかったとか――
『ごめん、急用ができたから、今日はこれにて失礼する』
『えっ、もう?!』
 秀樹はだいぶ慌てていたけれど、私はそこで電話を切る。
 自分の考えとおりだとしたら、やはりこれ以上、秀樹と電話するのはよくないと思ったからだ。

「思ったとおりだったな」
 ようやくトアの方へと視線を向けた私は、思わずそう頷く。
 ……やっぱりだった。
 いつもならちゃんと締めておいたはずのドアが、今日はほんの少しだけ開いてある。
「あ、あの、柾木くん?」
 どうやらずっと抜けていたせいで、ドアをきちんと締めてなかったようだった。当たり前だが、こうやってドアを開けっぱなしにしておくと、少なくともすぐ外にいる人には中の声が丸聞こえである。どれだけここの防音が完璧だとしてもだ。
「さっきの電話、聞いてたか?」
「あっ、は、はい。全部聞いてしまいました」
 もちろん、これは美由美に何の罪もない。そもそも、ちゃんとドアを締めてなかった自分の方が悪い。
 でも、バレてしまったか。
 あんまり「ひどい」ところはそもそも話さなかったから平気だけど、やはり美由美に弱いところを見せてしまったのは、ちょっと気にかかる。
 秀樹の方もそうだけど、無駄に心配させるのは好きじゃない。
 みんな、最近のことがバレてしまうと、「私がどう思っていたか」はバレなかったとしても、あれこれ気にかけてくれるから。
「あの、それで柾木くん、大丈夫でしょうか?」
「もちろんだ。その、別に美由美が心配することは何もないからな」
「でも、そんなことされたらやはり辛いんですよね」
「まあ、まったくなかったと言ったら嘘になるが……」

「わかりました。今は柾木くんのこと、信じます」
「……ありがとう」
 私はただ、それしか口にできなかった。
 秀樹の時にもそうだったけど、みんなに結果的に嘘をついてしまうのは、やはり好きじゃない。でも、変に心配させるよりはマシだ。
 これは私の問題なんだから、みんなを巻き込む必要はない。きっと一人で、なんとかなる。
 ……そうしたいと思っている。
 やはり自分は素直じゃない人間だから、どうしても深いところを打ち明けるのが怖いんだ。自分をさらけ出すということで、みんなが距離を置くことになったら耐えられない。
 ごめんね、美由美。
 いつかはみんなにちゃんと言葉にするから、今だけはこんな自分を許してほしい。

 ――でも、正直に言って。
 私は今、この深い沼から自分ひとりだけの力で抜け出すことが、まったく想像できなかった。
 このまま深淵まで落ちちゃったらどうしよう。
 私一人では解決できないくらい酷くなったら、どうしたらいいんだろう――