「はぁ……」
思わず、ため息が口からこぼれ落ちる。
こういうのが、心も体もボロボロになった、という状態なんだろうか。何もかもが虚しくて、気力も何も湧いてこない。
こういう気持ちは、初めてだ。
今、私は完全に参っているんだ。なぜか今は、それがはっきりとわかる……というか、すんなりと納得できそうだった。
そんな虚しい心で、いつもの日課であるメールチェックを行っていたら――
「……あ」
飯塚から、また連絡が届いていた。
もう顔すら合わせたくないというのが本音だが、こうやって向こうから連絡してきた以上、確認しないわけにはいかない。
『あれから無事に戻ったのかしら? あの時、そっちの顔がやけに暗かったから心配だったわ』
メッセージは、まずそういう文句から始まっていた。
『ところで、あなたが戻ってから、そこでどういう話を聞かれたのかは知らないけれど――』
『きっと、あなたのことを考えてくれるのは、我ら「反軍」だけなのよ』
どの面してそういうことを話してるんだろう。
あなたたちだって、さっき、私のことをまるごと否定したくせに。
『その辺、よく考えてからまた返事してくれると嬉しいわ。いい答えを待っているわね』
そこで、メッセージは終わった。
……やはり、読まなかったらよかったのかもしれない。
ただでさえ暗い気持ちが、ますますひどくなってしまった。
自分から考えても、高坂柾木という人間はひどく歪んでいる。
今までもずっと気づいていたが、必死で気づいてないフリをしていただけだ。
そんなの、認めたら何もかもが崩れてしまうから。
自分が矛盾だらけで、ひどい人間だというのがわかってしまうから。
だから、このまま世界が変わらないことを願う「組織」はもちろんとして、世界を大きく変えようとする「反軍」からも、その存在を否定されているんだ。
今、つまりこの現実を変えようとする「反軍」にさえ否定されているわけだから――今の自分に、居場所なんかはたぶんない。
飯塚のあの話は挑発でもなんでもなく、たぶん自分の考えをそのまま述べただけだ。
きっと、他の人が事情を知ったら、私ではなく、飯塚の味方をするんだろう。
そもそも、普通は「ああいう目にあったのに」、男の姿でも大丈夫だとか、そういうの、絶対に信じてもらえない。
女の子のおっきな胸が大好きだとか、化粧はしたくないとか、そんなの、話しても冷ややかされるだけだ。
そんな女の子なんか、いるわけないから。
この歳になって黒ロリをこっそり着るのが好きだとか、いつもツインテだとか、そういうのはおかしなことに決まってるから。
わかってもらえるわけが、ないんだ。
普通の人間だと受け入れられるって、思っちゃいけないんだ。
こういうのを抜きにしても、私はもう、普通の女の子じゃない。
そもそも、普通の女の子が男の喜びなんか、知っているわけがないだろう。
……もし、これだけで済んだのなら、私はまだギリギリ、普通の女の子だと言い張れるかもしれないけれど。
――女の子がそういうの、我慢できるわけないんでしょ?
初めて「別の姿」になったばかりの私だったら、きっと迷わずそれに頷いたんだろう。あの頃の私は、男なんか低能だと信じていたんだから。
だが、今の自分はどうだ。
今の自分は、男だってそこまでひどいやつらばかりじゃないってことに気づいてしまった。だから、男を嫌うことも、軽蔑することもできなくなった。
だって、自分もあの、「大嫌い」な男と似ているって気づいてしまったから。
むしろ自分って男っぽいところだらけで、ある意味「別の姿」の方が様になってるって、わかってしまったから。
いや、そもそも今の私は、果たして「女の子」だと言い張れるものなんだろうか。
「別の姿」と「元の姿」を繰り返すうちに、自分の体もずいぶん変わってしまった。ある意味、今の自分は「女の子」以前に、「人間」とも違うのかもしれない。
あそこまでたくさん「別の姿」になっているというのに、私は未だに、このカラクリがどうなっているのかをよくわかっていない。まあ、よく考えてみると、今は誰だって使いこなせている「端末」の仕組みもきちんと説明できる人はそうそういないんだろうから、おかしくないかもしれないけれど。
でも、私の「別の姿」は、やっぱり「本当の男性」とは違うんだ。
そもそも、あそこから経血が出てくる男を、果たして「普通」だと言えるんだろうか。
自分のことなのにこんな言い方もおかしいけど、自分の体、思っている以上にぐちゃぐちゃになっているのかもしれない。
だから、秀樹にもそういう体を押しつけてしまって、自分はとても後ろめたい気持ちでいっぱいだった。
秀樹はまだ、私と違って「間違いなく」普通だったのに。
私が、秀樹を「普通じゃない」道に引きずり込んでしまった。
……私みたいな変な人間のせいで、秀樹も普通じゃなくなってしまったんだ。
いっそ私も、未だに男のことを嫌ったままだったら良かったかもしれない。
それじゃ、こんな歪んだ自分にいちいち悩む必要もなかった。
こういう悩みはみんな、私は強引に「別の姿」にしたお父さんとか、あの時、私のことをからかったあいつらのせいだと押しつけられたはずなのに。
みんな男が悪い、男は私の敵だ、と子供の頃と同じことを口にできて、今のような歪んた形にもならなかったはずなのに。
そうだったら、少なくとも私のことをおかしいって言う人はいなかったはずなのに。
……私は立派な被害者になって、すべて他人のせいだと、そう言い切れたはずなのに。
でも、そんなこと、今の私にできるわけない。
だって、今の私はそうしたくないと思っているから。
自分もあの、低脳だと嫌っていた男と似たようなところばかりだと気づいて、男はあの頃、自分をからかっていたあいつらばかりじゃないってわかってしまった今。
私には、昔のように男を嫌うことなど、到底できない。
あの頃の自分にはどう言い訳すればいいのかわからないけど、やっぱりもうそれはできないし、やりたくないんだ。
このように中途半端なんだから、男にも、女にも理解してもらえない。いわばおとぎ話のコウモリみたいな、歪みの極まり。それが今の私だ。
誰だって、私の事情を知ったら白い目で見るんだろう。
こんな人間、理解できるわけがないんだから。
社会で求められる人間は、きっと「素の私」じゃない。進んで化粧をし、ツインテなんかは絶対にしない「大人のオシャレさん」だったり、自分の「別の姿」だったりする。
そこに、「元の自分」なんていない。
ありのままの自分なんて、初めてから求められていない。そのまま生きてゆこうなんて、求めてゃいけないんだ。
別に自分だって、いつもありのままで生きたいとか、そういうことを言いたいんじゃない。それはちゃんとわかっている。
……わかっているから、「自分」として苦しくなる。どれだけ「求められる」自分になったとしても、元の姿がこうであるのは変えられない。
きっと、いつかボロが出る。
自分ではない「誰か」としてずっと生きてゆくことは、あまりにも心苦しい。
「元の自分」がこの世界で望まれてないというのは、やはり耐えられない。
こんな私なんか、過去の男嫌いだった自分が見るとどう思うんだろう。
「……っ」
考えるだけで胸が痛くなった。
他の何よりも、それを想像するのがいちばん怖くて、耐えられない。
他の人間から白い目をされるだけでも辛いのに、その眼差しが自分のものだとしたら、私はもう、その場から消えてしまうのかもしれない。
だって、そうなんだろう。
この世の中で、自分に嫌われることより恐ろしいものなど、何ひとつないんだ。
今の私は、つまりツギハギなジグソーパズルのようなもの。
きっと元々は別の絵柄である二つのパズルのピースが、なぜかいっしょになっている。
誰からどう見ても似合わないピース同士がハマっている、ごった混ぜみたいなものだ。
チグハグで、不気味で、矛盾ばかりで――
それでいて、決して「綺麗」には完成されないものなんだから、見栄えだってだいぶよくない。
――めちゃくちゃにされて投げられた紙くずのような、誰にも見向きもされないもの。
今の自分には、そういう例えがよく似合う。
自分からこういうことを口にするのって、もちろん好きなわけがない。でも、どう考えてみてもこちらの方が遥かに現実的だ。
こんなに変な人間のこと、果たしてずっと好きでいてくれる人は存在しているんだろうか?
もちろん、今は雫や美由美や、秀樹が私のことを好きだと言ってくれている。でも、それが果たして、ずっと続くんだろうか?
そりゃ今だけなら、みんな私のこと、受け入れてくれるかもしれない。でも、付き合いが長くなるほど、好きだったところはだんだん薄れていき、嫌になるところだけ目立つものだ。
別に、私はそれを咎めるつもりはない。人間、みんなそういうものだから。それが現実っていうことは、自分もすでに気づいている。
だから、怖いんだ。
今、この温もりを失ってしまうのが、とても怖い。
自分だって、わかっている。
別に結婚を約束したわけでもないし、今からこういうことを心配するのは早すぎるってことくらいは。
でも、やっぱり私は普通の人と違うから。
……そうなってしまったから、どうしても考えずにはいられない。
ここまで可愛げもなくて、「純粋」な女の子でもなくて、きっといつかは飽きられてしまう人間だから、ずっと愛されるという想像が、どうしてもできない。
きっと、秀樹はそんなこと、気にしないって言ってくれるはずなのに。
むしろ私だって、気にしない方が喜ばれるはずなのに。
お母さんが私たち姉妹をおいたまま家を出てしまった経験からか、私はどうしても、永遠とか、都合のいい未来とか、そういうのがしっくりこなくなってしまった。
……考えれば考えるほど、自分は誰かから理解されたり、共感されたりするのは向いていない人間になってしまったことに気づく。
あまりにもチグハグな自分という存在が、そういうのを勝手に拒んでいた。
この世の中で、誰が「やはり自分は、化粧なんてしなくない」と思う女のことを理解してくれるんだろうか。
これからもずっと黒ロリを着てみたいという希望は、誰が真面目に聞いてくれるんだろうか。
こんなおかしな自分でいいって、「普通」になるのはやはり嫌だって、誰がわかってくれるんだろうか。
いや、そもそも誰が、私が「普通」だと認めてくれるんだろうか。
自分が変人だということははっきりと自覚しているというのに、現実というのもきっちり見えているというのに、それでも「このまま」でいたいと願う自分を、果たして誰が受け入れてくれるんだろうか。
どれだけ世の中が進んできて、色んなものが認められるようになった今でも、やはり自分みたいな存在は、どうしても受け入れられそうにないんだ。
秀樹とみんなといるのは楽しいけど、やはり私は現実にいたい。でも、自分という存在は、あまりにも「現実」に向いていない。
女なのに、男の感覚を知っている存在。衝動につられて、何度も「女の子」を抱いたことのある存在。それに何度も喜んで、優越感すら覚えたことのある存在。
元は男のことが大嫌いだったのに、今は親しみすら感じている存在。やはり「元の姿」で「組織」にいることになったら人間関係がめちゃくちゃになるから、仕事の時には「別の姿」でもいい、なんてことを真剣に思っている存在。
昔の自分を裏切って、「組織」では「別の姿」でいたいすら願ってる、自分という歪んだ存在。
自分のことだというのに、もう何もかもがめちゃくちゃで――もはや自分を「女の子」だと言い張ることすら恥ずかしくなってくるくらいだ。
そもそも、性別を「仕事」レベルで考えはじめた人間のことを、果たしてどれくらい理解してくれるんだろう。
……やはり私は、「組織」から足を洗いたくない。飯塚の件もあるけれど、今の私は自分から望んでここにいる。
きっと、飯塚の話も、「組織」の話も正解ではないだろう。だが、どこかにはきっと、みんなが納得できる妥協点があるはずだ。私は、それが見てみたい。
だが、自分のことを「女の子」だと考えているくせに、仕事だけ「別の姿」とか、誰が納得してくれるのか?
これでは男ところか、女にだって私はわかってもらえないんだろう。自分から考えてみても当たり前だ。
自分みたいな変人なんて、せいぜい白い目をされるのがオチじゃないんだろうか?
もし、子供の頃の男嫌いだった自分が、今の私と出会ったら、どんな顔をするんだろう?
今の私には、昔の子供だった自分と、ちゃんと向き合って話せる自信がない。
その眼差しを想像するだけで、今すぐにでも逃げ出したい気持ちになる。
嫌われたらどうしよう。
私はどうしてもあの「昔の自分」に、胸を張って話せそうにはないんだ。
……今の自分は、「別の姿」になったことを、男のことを嫌わなくなったことを後悔していない、だなんて。
もしその時、昔の自分が「じゃ、これからは誰が私のことをわかってくれるの?」なんてことを聞いてきたら、私はどう答えたらいいんだろうか。
自分に裏切られたと思われるのが、怖くて怖くてたまらない。
それを想像するだけで、体が重くなって、今すぐにも自分というものが、音を出して崩れ落ちそうな気がするんだ。
――どうして。
どうして私は、私なんだろう――