「ふいー最近はだんだん日差しが強くなってるなぁ」
明後日の昼頃、「組織」の廊下で出会った慎治は、すごく疲れた顔をしていた。
もう8月も本番だ。今頃、外に出かければひどいくらい汗が出てくる。さっきまで外で遊んでばかりいた慎治が暑がるのも当たり前だろう。
「こういう日に、外を一周走ってこい! とか言われたらマジで死ぬわ。やってられないよ」
「……最近はずっと室内訓練だったはずだが」
「お前はそもそも外に出ることが滅多にないんだろ? その可能性が1%でもある俺としたら……」
まあ、慎治の気持ちは自分もよくわかる。
自分だって、かつて「現場担当」だった頃にはよく外で訓練したし、こういうふうに暑い時にはものすごく大変だったから。
「それはそれとして、お前もめっちゃ変わったな」
「そうか?」
慎治からこんな口調で話しかけられるのは珍しい。
まあ、慎治とは「別の姿」になってから長い間知り合ってるから、そう言われるのもおかしくはないが。
「そりゃそうだ。初めて出会った頃と今と比べると、同じやつなのか聞き責めたいくらいだしな」
「そこまでか」
「そこまでならまだよかったんだろうけどな、お前、本当に男じゃなかったとか、そういうの言い出したし」
「……」
「俺な、最近よく考えるんだよ。今までのお前との付き合い方といい、橘さ……といい、自分の知らないところで黒歴史絶賛生産中だったなぁ……と」
私はその、みっともない慎治の話に答えない。
どちらにせよ、普通の人なら決して思いつかない可能性なんだから。
「んで、お前は最近仕事もないから、あいつと、その、なんだ……イチャイチャしてたと」
「なんで言い方がそこまで嫌らしいんだ」
「どこがそうなんだよ! 普通じゃねーか!」
慎治はそう声を高めるが、誰からどう見ても八つ当たりの反応である。まあ、このやりとりにももう慣れたけど。
「ともかくそうなんだろ? お前、橘さん……ともかく、いいこといっぱいやったんだろ?!」
「いいことがどうかはともかくとして、まあ、昨日もいっしょに時間を過ごしたのは事実だ」
「こいつ……堂々とのろけやがって……」
どこがどうのろけなのかはともかくとして、慎治はものすごい勢いでこっちを睨む。
「よく考えるとおかしんだよな……俺らの中でいちばん大人しかったお前が、ここまでえっちなことしか考えてない獣だったとは」
「何変なこと言ってるんだ。その言い方は誤解を呼ぶだろ」
「何が誤解だ! お前、昨日も一昨日もずっと橘……さんといっしょにいたんだろ! ふざけんな!」
「だから、なんでそれが獣ってことになるんだ」
こういう時の慎治は、よくわかんない。
一昨日はともかくとして、昨日は別に、その、えっちなものはあんまりやらなかったのに。
それは、昨日の午後のこと。
「いや~久々に柾木がうちに来てくれて、俺、とても嬉しいんだよね」
「そ、そこまでなの?」
私は久しぶりん、「元の姿」で秀樹の家に来ていた。この姿ではあまりここに来なかったからか、秀樹の家がいつもより大きく見える。
「そうそう、せっかくだから、俺だって自分の部屋で柾木といちゃいちゃしたいんだよ」
「は、恥ずかしくもないの? 周りに聞こえるかもしれないのに」
「ん? 聞こえちゃ悪かった?」
そう聞き返しながら、秀樹は首をかしげる。そこまで純粋な口調で言われると、こっちからはどう答えたらいいのかわからなかった。
「べ、別に」
「じゃ、問題ないもんね」
「なんか、また騙されてるような気が……」
というふうにいつものやり取りをしてから、私たちは秀樹の家に入る。
そうすると、まるで待っていたような顔で、家の奥からゆかりさんが姿を現した。
「あら、高坂さん……と、秀樹じゃない」
「な、なんだよ。何か不満でも?」
「あんた、ちょっと姉さんには優しくした方がいいと思うけど」
「そ、それもそうだな。いつもこんな調子だったから……」
私の話を聞いて考えてくれたのか、秀樹の顔が少し赤くなった。
まあ、秀樹がゆかりさんにつんつんしているのは、信頼の証っていうか、照れくさいことを隠そうとするものだから、これくらいで大丈夫だろう。
……そもそも、私も他の人のことはあんまり言えないし。
「ふふっ、ありがとう、高坂さん。そうだ、わたしも柾木ちゃんって呼んじゃっていいかしら」
「は、はい。ぜひっ」
「そういや、柾木ちゃんもお姉さんがいるんだよね? たしか美咲さんって名前だったかしら……いつか会ってみたいよね」
「むぅ、姉貴が美咲さんと会うと変に悪影響与えそうなんだよな……のんびりすぎるところとか」
「あら、そうなの?」
「別にうちのお姉ちゃんだって、ゆかりさんくらいにのんびりしてると思うけど」
私がそう言うと、ゆかりさんは柔らかな笑顔になった。どうやら、私のその話が嬉しかったらしい。
「ふふっ、秀樹からそういう話を聞くと嬉しいよね。最近はそこまで素直じゃなかったから――」
「お、俺は今から柾木といちゃいちゃするからな! 姉貴は邪魔しないでくれ!」
「あらあら」
その話を残して、秀樹は私の手を掴み、ズバズバと階段を上がっていった。なんか照れているようで、顔が少し赤くなっている。
ゆかりさんのことは気になるけど、まあ、この調子なら安心かな。秀樹のこと、私より知り尽くしてるんだろうし。
それにしても、は、恥ずかしい。秀樹ったら、何言ってるんだろ。
私、また下に降りてくることになったら、ゆかりさんの顔、ちゃんと見れるかな……。
「な、なんでそこで顔を背けてるんだ、お前は!」
そんなことを思い込んでいたら、急に慎治の声が飛び込んできた。
……あの時のことを思い出していたら、思わず視線を逸らしていたらしい。
こんな「別の姿」で顔を赤くするのも気持ち悪いんだろうし、これからは少し控えないと……。
「ごめん、お前の前だったな」
「こいつ、ガチで現実から離れてた……やはり昨日もいちゃついてやがったのか……」
なんか、こういう状況になると恥ずかしい。
もちろん、慎治には絶対にバレないように気をつけるけど。
「でもな、よく考えると謎だよな」
さっきのことでこっちがぼんやりしていると、急に慎治がそう言い出した。
「何がだ?」
「い、いや、そういやなんで橘さん、うちの前に倒れてたんだ……って」
「ああ」
――そう言えばそうだった。
私は未だに、どうして「反軍」が秀樹をわざわざ「別の姿」にして、うちの「組織」の前に置いておいたのか、わからない。
そもそも、どうして秀樹だったんだろう。
あの意味がわからない行動に、果たしてどういう意図があったんだろうか。
あっちの行動はいつも訳がわからないが、はっきりとした「目的」はあるわけだし、自分たちにとって無駄な行動は取らないはずだ。
……あんまり常識が通じないところだから、こんなこと、考えるだけ無駄だとは思うけど。
「ま、俺としてはお前のこともアレに比べられるくらい謎だけどな」
そんなことを口にしながら、慎治は私の目をじっと見つめた。
「あの時のこと、未だに信じられてないのか」
「いや、お前の『元の姿』は見てるし、今はもう信じるけど……」
そこで慎治はこっちからそっと視線を逸らした。やはり、言いづらい話だったんだろう。
「でも、やっぱり同じやつって思えないんだよ。口調からして違うじゃないか」
「まあ、それは……そうだろうな」
「お前っていつもああいう硬い喋り方するのに、『元の姿』ではなんか普通に可愛らしい口調だったし。俺、今でもあれはしっくりこないんだよな。イメージが違すぎる」
否定はできない。
きっと秀樹なら、「大丈夫」と言ってくれるはずだ。でも、秀樹のような人間が世の中にごろごろいるわけがない。
その意味で、確かに私は恵まれている。けれど、現実へと目を向けると、やはり自分は「変人」でしかないんだ。
……自分って、ひどくボロボロで、どうしようもなくちぐはぐな人間だから。
そもそも、目の前にいる慎治だって、私が黒ロリ好きだとか、そういうのを知られたらまた卒倒するんだろうし。
――本当に、自分の変人っぷりには呆れてしまう。
自分がこんな人間だということは、すでにわかっていたつもりなのに。
そんなことに、私が想いを寄せていた時――
――時間は、何の前振りもなく動き出した。
『ぴーぴー』
いきなり、どこかでよく聞いた音が響いてきた。
初めては急すぎてよくわからなかった音も、何度か聞かれると、その意味がわかってくる。
「お、おい、これって……」
間違いない。
最近はあまり聞く機会がなかったから、ほぼ忘れていたわけだけど――
「またあいつら……やってきたんだな」
慎治の声は、もうあんまり聞こえない。途切れなく流れるあの「音」が、その声を遮っているからだ。
『ぴーぴーぴぴー』
あっちこっちで、大きな音が木霊する。それは間違いなく、「反軍」の攻撃を意味する音だった。
きっと、今頃現場、「いつも『化け物』が出現する」ところではみんなが臨戦態勢に入っているんだろう。私が今まで仕事としてやってきた「作戦」も、ようやく日の目を見ることになるはずだ。
周りが騒がしくなった中、「このような状況」にはお馴染みの声が、あの音やあらゆる雑音を飛び越えてはっきりと聞こえてきた。今の音を覆す勢いの、太くて大きな声である。
『現場担当の者、この声が聞こえるか! これを聞いたらすぐ、現場に集合せよ!』
「まあ、こうなるよな……」
慎治はぶつぶつしながらも、体を起こす。
これもまた、今まで何度も見てきた風景。
「あいつら、いつも来るのが突飛なんだよ。今度は五月が最後だったから三ヶ月ぶりってことになるけど、以前にはほぼ毎日やってきたこともあったからなぁ……」
「こうなった以上、仕方ないだろ。俺も様子を見に行く」
「へいへい。けどこうなった以上、当分は休みなんてないんだろうな……いつものことながら、こういう時にはどういう顔をすりゃいいのかわかんねぇ。一応、緊急事態ってのは間違いないけどな」
「まあ、それはいつものことだろ?」
「わかってますって。はいはい」
そう愚痴をこぼしながらも、慎治は現場に向かって歩いてゆく。走ることはしない。
どうせそこまでやらなくても、現場に残っていたみんなで凌げるとわかっているからだ。慎治があとで合流しても、大した問題は起こらない。偉い人たちには少し怒られるかもしれないが、とりあえず、最悪の事態になることはない。
まあ、「現場担当」になって間もない新入りならここまで余裕ぶったりはしないんだろうが、ここのOBである慎治は、すでにそういう、「とりあえず残っている人で十分」って事情をよく知っているんだ。
遠くから見ると、緊迫した状況なのかどうか判断に苦しむかもしれない、よくわからない場面。
でも、私たちにとってはどれだけ不条理だとは言え、これもまた現実の一つ。
そうして、今まで続いてきた「いつもと違う日々」は終わりを告げて――
――私にとっての、本当の「現実」が、幕を開けた。