「こ、これが兄さんなんだ」
映像が終わってから、蒼乃は口を開けたままそんなことをぽつりとつぶやいていた。なんか、異常に恥ずかしい気がする。いつもステージの上であんなことをやってきたつもりなのに、家内、それも俺の姿をした妹に観られるというのはあまりにもおかしな気分だった。
「ど、どうだ。おかしいか?」
「ううん、全然。むしろ兄さんにはあんな姿もあるんだ、ってびっくりしたところ」
「まあ、そうだろう」
それは決しておかしな反応ではない。兄妹である蒼乃の方がもっと詳しいとは思うが、俺はあまり目立たがる性格でもないし、どっちかというと反対に近い。そんな兄貴が、アマチュアのステージではあるといえ、ああいうところで激しいベースを弾いているのを見るとそりゃ驚きもするのだろう。
「あ、そ、その、誤解しないでほしいけど、意外だった、というわけじゃない。今、ここにいるわたしは兄さんの姿だから、その、見ていてすごく変な気持ちだった」
「ああ、それはそうだろうな。先だって演奏の途中に自分の腕とかじっと見てたし」
たしか、それはなんとも言えない気持ちだったのだろう。蒼乃も俺の姿で暮らしてほぼ一ヶ月になる。そんな時に俺の演奏を初めて観て、蒼乃は何を思ったのだろうか。あそこで演奏していた兄貴の姿は、今の自分の姿でもある、というのを認識した気分は。
「その、もっと早く言えなくてすまない。いつかは話すべきだと思っていたが、中々その機会がなかった。蒼乃だって俺がバンドを組んでいるというのは知っていても、詳しく何をやっているのかはわからなかったのだろう」
「うん、でもよかった。今、ちゃんとわかったから」
「ああ、蒼乃もああいうのをこれからやることになるんだぞ」
「そうだよね……あ、あはは、そういえばそうだったんだ。今まで忘れてたの」
「忘れちゃ困るだろ。仮にも5月からは部活に入ると言うのにな」
俺には、蒼乃の気持ちがよくわかる。蒼乃は俺よりも『目立つ』のが苦手だ。部活なんかもやったことがないはずだし、そもそも誰かの前で演奏などをやった経験すらない。
だが、これからは『俺』、高橋青樹として部活に挑まなければならないわけだ。どんだけ目立たないベースだとしても、経験者である俺の腕を真似るにはそれなりに時間が掛かるのだろう。
「蒼乃、大変じゃないか? 今からでも――」
「ううん、わたしも決めたから。だからやろうと思ってるよ」
「だが蒼乃、お前はああいうのには」
「向かないよね。わかってる。でも、兄さんと一緒に何かできる、というのはわたしにとって大事なことだから」
「そうなのか?」
「うん、たとえ立場の入れ替わった状況だったとしても、わたしはこれでいいの。何より、兄さんの気持ちが知りたくなった」
「気持ちって……」
「わたしには兄さんがどうしてバンドをやろうと思ったのかよくわからないから。少しでもそれに近づきたくて。ダメ、かな?」
「い、いや、全然そうじゃない。なんだ、その、ありがとう。蒼乃」
俺としては、そんなことを言い出すのがやっとだった。蒼乃は本当によくできた子だ。今のような状況で、そんなことを思ってくれたのがただただありがたい。
蒼乃にとって、この決心はどれくらい大きなものだろう。一度もやったことのない経験になるはずなのに、そこまで辿り着くためにどこまで勇気を絞り込んだのだろうか。
「でも、ステージの兄さんはかっこいいね。見間違えるところだった。いつもと雰囲気が変わってたから」
「あ、そうなのか? 俺としてはあんまり変わっていないように見えるが」
「ううん、違うよ。兄さん、イキイキとしていたから。わたしまで見惚れていたし」
「……本当にそう見えたか?」
「うん」
蒼乃の話に、俺は顔を上げることすらできなかった。そういや、蒼乃にこれを見せたのは初めてだったな。いつかはちゃんと見せたいと思っていたが、まさか『こんな時』に見せることになるとは思いもしなかった。
「でもわたしに、兄さんのような演奏ができるかな。兄さん上手いから、ちょっと心配」
「大丈夫だ。俺もちゃんと教えるし、何より蒼乃も音感がしっかりとしているからな」
「うん、そういや兄さんも歌わなければならなかったっけ。大丈夫?」
「あ? あ、ああ、そういうことだったな。あ、は、初めてだがどうにかなるだろう。ステージの経験ならもう十分あるからな」
「わたしも照れちゃうね。自分の歌うことを第三者視点で観てしまうだなんて」
「そ、そうだったな。蒼乃にとっては」
行けば行くほど、俺はこの状況が異常だということに気づく。もちろんそれ自体は元から知っていたつもりだった。だが、まさか兄妹が『こんな風』にバンドを組むことになるのはまったく想定していなかった。
当たり前だが、俺はベースならなんの躊躇いもなくさらさら弾ける。だが、それと『歌う』のはまったく別の問題だ。今までの俺にそんな経験があるわけない。目立つのはベースで十分だった。蒼乃もそうだが、俺だってあまり自分のことを見せびらかす性格ではない。
さらに大きな問題は、歌うのが自分ではなく、『蒼乃』の方だということだった。
ぶっちゃけて、(自分の姿をした)妹の前で妹の姿をしてから歌わなければならないって、どんな罰ゲームなのかと聞きたいところだ。恥ずかしいところじゃないのは間違いない。もちろん、誰も俺ら兄妹の『真実』には気づかないだろう。だが、これはそれ以前の問題だ。
妹と一緒にバンドの活動をしなければならないため、こちらも恥ずかしい姿を見せてはいけない、というプレッシャーすら湧いてくる。もしギターだけ弾けばよかったら、これはどうにかなる。だが、歌は俺にとって新境地だ。兄貴として妹に頼りない姿を全部員に見せなければならないのは、かなり負担がかかるものである。
とは言え、せっかく蒼乃もやりたいと言っているところだし、兄妹の仲の回復のためにも、部活はぜひやっておきたい。ならどんだけ恥ずかしいことだとしても、やらねばならないのだ。それが蒼乃に対したせめての礼儀というものだろう。
「大丈夫だ。俺は覚悟を決めている。蒼乃がそうしてくれたように、な」
「に、兄さん。無理していない?」
「蒼乃こそ。あまり無理するんじゃないぞ」
「こ、この場合にはどうなろう……」
お互い曖昧な気持ちではあるが、どうにか同意はしているようだ。まあ、仕方ないことである。だがこうなった以上、乗り越えるしかない。
……本当に大丈夫なんだろうか。俺たちって。
そんなことをどうしても思ってしまうが、こうして蒼乃と俺は軽音部の活動を始めることにした。これから待つのは決して簡単じゃない出来事ばかりだろうが、それだってどうにかやりつけてみせよう。これも兄妹の仲のためだ。
ダメだ。今から恥ずかしがっては。
蒼乃だって、それを覚悟しているんじゃないか。
