62.美由美とのデート

「そ、それにしても、さっきはびっくりしました」
 しばらく時間が経ってから、とあるオシャレなカフェの中で。
 アイスチョコレートドリンクを口にした美由美が、そんなことを話してきた。
「あ、ひ……橘たちのことだな」
「呼び方は別に今までで大丈夫です。橘さんと柾木くん、付き合ってるのは周りから聞きました」
「そ、そ、そうか」
 い、いつの間にそんな噂が回っていたんだろう。
 自分のことながら、これだけはさっぱりわからない。
「橘さん、とてもいい人ですよね」
「美由美はそこまで、た……秀樹と話してないんだろ」
「はい、でも、明るくて、人の気持ちが察せて、とてもいい感じでした」
「そうか」
 それに私は、どう答えたらいいのか迷う。
 秀樹が褒められるのは素直に嬉しいけど、今は美由美との時間なんだから、あんまりそういうの、外に出すのがはばかられた。
 美由美って、私のこと、どう思ってるんだろう。
 もう付き合っている人もいるというのに、私がそんなこと思っちゃうのはいけないのかな。
 でも、私は美由美と恋人とか、そういう関係になりたいよりは、その、友だちみたいな関係に――
「柾木くんの周りには、いい人ばかりですよね」
「うん?」
 そんなことを思っていたら、急に美由美が、私にそう話しかけてくる。
「橘さんも、綾観さんも、あと美咲さんも、みんな柾木くんのこと、大切に思ってる」
「……美由美だって、そうだろ」
「はい。でも、どうしてもみなさんには負けてしまいます」
「そんなことない」
 なんか、こんなことを話していると照れくさい。
 私の周りには、本当に自分のことを考えてくれる人が多いんだ。
 でも、たぶん、その愛情に優劣なんかはない。
 みんな、私にとっては大切な人たちだ。
「わたし、こうやって柾木くんの側にいて、いいのかな」
 なのに、美由美はまた、こうやって暗い顔をする。
「柾木くんって、素敵な男の人だから、やっぱりわたしの手には余ってしまうのかも」
 ……そこまで聞くと、こっちはどう答えたらいいのか、わからなくなる。
 今の美由美にとって、私は。
 どうしようもなく、遠い存在なんだ。

 当たり前ではあるが、美由美は私の「元の姿」なんか、まったく知らない。
 それは当然だ。そんなこと、信じてもらえるわけがないんだから。
 まあ、それでも慎治たちの前ではめげずに話していたわけだけど……さすがに美由美の前で、そんなことを口にするのはできなかった。
 女の子に「軽蔑の眼差し」で見られると、立ち直れなくなってしまう。
 自分は、周りから思われているよりもすごく、「女の子」の視線に、弱い。
 たぶん周りからは、なんで「女の子同士」なのにそうなっちゃうのか、と不思議がられるんだろうけど……。
 むしろ「女の子」を相手にしているからこそ、弱くなってしまう瞬間はいくつもあった。

 でも、たった一度だけ、それっぽいことを美由美の前で口にしたことはある。
 あれは確かに、一年くらい前だったかな。
『美由美』
『はい、柾木くん。なんでしょう』
 私はあの日、ついその気になって、なんでもないような口調で、そう話しかけてみたんだ。
『もし、俺が、その……女の子だったとしたら、どうする?』
『はい?』
 あの時の美由美の顔を、私は未だに忘れられない。
 美由美はキョトンとした顔で、まるで「何突飛なこと言ってるんだろ」って表情で、私のことをじっと見ていた。
 ありえない話でも、耳にしたような顔で。
 こっちのことを、ぼうっと見つめていたんだ。
『ご、ごめん。変なこと口走って、本当に悪かった』
『いえ、大丈夫です』
 私がすぐ謝ると、美由美も戸惑った顔で、すぐ手を横に振った。
『そ、その、想像がつかなくて、どう返事したらいいのかわからなくなったから、つい……こっちこそ、ごめんなさい』
 わかっていた。
 そういう反応になるのは、想定済みだったというのに。
『まあ、そう……だろうな。忘れてくれ』
 美由美の前ではなんでもないフリをしたものの。
 その日の私は、ずっと仕事が手につかなかった。

「あ、ごめんなさい。こんなことしないって美智琉と約束したのに、また破ってしまいました」
 そうして以前のことに想いを寄せていた私は、美由美の声で、ようやく現実に戻る。
「それは気にしてない。美由美だって、大変だとは思うからな」
「はい。だから、これからは柾木くんと、もっと楽しいことができるようにがんばりますね」
「いや、頑張り過ぎるまでもないんだけど」
 やはり、このままじゃ美由美に負担をかけてしまう。こうやって出かけようと誘ったのはこっちだし、できる限り、そういうの私の方から提案していきたい。
 何がいいんだろう。
 美由美といっしょにやれて、楽しいものは――

 そういや、私は思い出した。
 この近くに、以前、行ったことのある大きな公園があるのだった。
 あそこなら、たぶんスポーツならなんでもできるんだろう。
「あの、美由美」
「はい?」
 だから、私は戸惑いながらも、そう話しかける。
「美由美さえよかったら、その、近くの公園にでも行かないか?」
「公園、ですか?」
「ああ、あそこならいろいろスポーツとかもできるから、もし、美由美もよかったら……」
 あそこまで考えて、私はハッとした。
 そういや、私、美由美の得意なスポーツとか、あんまり知らない。
 い、一応何年に及ぶ付き合いなのに、これで大丈夫かな。
「わたし、あまり体を動かすことがないから、迷惑かもしれませんけど……」
「大丈夫だ。なんなら俺がフォローする」
「えっと、自分がやったことあるものなら、テニスとか、縄跳びとか、それくらいですが……」
 どうやら、美由美は迷っているようだ。
 やはり、ここは私が後押しした方が早いかな。
「……それじゃ、テニスとかはどうかな?」
「テニスですか?」
 私の話を聞くと、美由美は少し迷うような顔をした。たぶん、体を動かした経験があまりないんだろう。美由美だって、だいたい「組織」の中で時間を過ごしているから。
「ああ、美由美もできるって話だし、せっかくだからいっしょにやってみたい」
「で。でも、わたし下手だから、柾木くんのこと、退屈にしてしまうかも」
「大丈夫だって。ただの遊びだろ?」
 私の話に、美由美はしばらく悩む。やはり美由美のことだから、私に迷惑になるかもしれないと思っているようだった。
 私はただ、美由美の答えをじっくり待つ。

「それにしても意外だな。美由美って、テニスできたのか」
 カフェから出てきて、近くにある公園へ向かいながら、私はそんなことを口にした。
 別に美由美がテニスをやったらおかしいって話じゃない。でも、自分の中で美由美は、あまり体を動かさないってイメージがあった。
「や、やはり意外ですよね。それって」
「別に悪いって話じゃない。むしろ親しみを感じるっていうか……」
 私だって、かなり運動好きだから。
 もちろん、テニスとかも子どもの頃からよくやっている。
「美智琉が教えてくれたんです。みんなでこれをやればタダで楽しめるって」
「そ、そうか」
「ラケットとか、テニスコートとか、近くの公園で借りたら確かにタダになりますから。わたしにもやりやすかったんです」
 たしかに、美由美の家族ならそういうのが喜ばれそうだな。
 美智琉もああいう、体を動かすこと、好きそうだし。
「で、でも、あんまり上手くはないですから……」
「大丈夫だ。俺も楽しめられたら、それでいいから」
「よ、よかった」
 実はこの時、私はあんまり、美由美に負けるイメージが浮かばなかった。
 自分も学校に入る前からずっとスポーツをやり続けていたため、そもそもそこまでテニスで負けた経験がないし、今度もそうだろう、とぼんやりと思っていたからだ。
 だから、美由美の前では少しだけバレない手加減をしよう、みたいなことをぼんやりと思っていた。
 ……美由美と直接、やり合う前までは。

「え、えっと、どうでしょうか」
 公園のテニスコートについて、しばらくしてから。
 美由美はあそこで借りられるテニスウェアに着替えて、再びこっちにやってきた。やはりあの服のままだったら、いろいろ不便だったらしい。
 で、その美由美の姿だが。
「……かわいい」
 私の目には、そのさっぱりした格好がとてもかわいく思えた。
 他の人とか、そういうのはあまりわからないけど、あまり活動的な服を着ない美由美としては、かなりギャップがあって、いい服だと思う。
 ……私はこのまま、いつものようにシャツとズボンという格好でやることになるけど。
「そ、そうですか。よかった……」
「自信、なかったのか」
「あんまりしない格好ですから、似合わないとか、そう思われたら、と思って……」
 やはり、女の子はそういうのに悩んでしまう生き物なのかな。
 自分も今日の服、ダサいってずっと思ってたから、他人事には思えない。
「自身持ってもいいと思う。そもそも、俺の方はこんなものだし」
「えっ、柾木くんの格好も、その、似合ってて素敵だと思うんですけど」
「そ、そうか?」
 は、恥ずかしい。顔が赤くなってしまいそう。
 これって、初々しいっていう雰囲気なのかな。
 なぜかものすごく恥ずかしいやり取りをしている気がして、……こそばゆかった。
 秀樹との掛け合いとはまた違う感じの、どうしようもない痒さ。
 い、いったん始めよう。
 このままじゃ、私の方がどうにかなってしまいそうだ。
「そ、それじゃ、始めよう」
 だから、私はわざと知らないフリをして、ラケットを手にする。
 これから、自分がどんなことを思うかなんて、まったく考えずに――

 初めは、ごくごく普通だった。
「わ、わわっ!」
「これでゲームセット……か」
 ある意味、私にとってはまったく予想通りの結果だった。美由美も家族といっしょにやっていたことだけあってかなり上手かったか、やはり、こっちの方がもっと上手い。
 ……自分でこんなこと思っちゃうのって、ある意味すごく嫌がらせなんだけど。でも、自分としては、そこそこテニスは得意なつもりだった。別にプロレベルではないが。
 でも、久々に体をここまで動かしたら、少し疲れたな。
 この「別の姿」で運動するのはそこまで珍しくないけど、テニスの経験はあまりなかったため、姿勢とか、慣れないところが多く感じる。視線だって、元の方よりずいぶん高くなってるし。
 ……はっきり言って、この姿では慎治たちとサッカーやバスケくらいしかまともにやってないからな。さすがにレスリングもどきは別として。
 自分がぼんやりと、汗をタオルで拭きながらそんなことを考えていた時だった。
「じー……」
「ん?」
 視線を感じるところに振り向いて、私は少し、驚く。
 いつもと違う、どこか悔しそうな顔で、美由美がこっちの方をじっと見ていた。
「な、何かあったか、美由美?」
「い、いえ! じ、自分も知らぬ間に、柾木くんのこと、見てたらしいですっ」
 とは言うものの、美由美は相変わらず、こっちから視線を逸らさない。その態度は、明白に今までの美由美と違うものだった。
 っていうか、この眼差しには、見覚えがある。
 これって、昔、子どものころ、私が誰かにスポーツで負けた時と、よく似ていた。
 ものすごく、悔しかった時の眼差し。
 次は、絶対に勝ってやるっていう視線。

 でも、外でもないあの美由美から、ああいう視線を感じるとは、思いもしなかった。
「……えっと、美由美」
「はい?」
 未だにラケットをぎゅっと掴んだままこっちを見ている美由美に、私は話しかける。
「もう一度、やらないか?」
「ぜ、ぜひお願いします!」
 いつもと違って、返事が早い。
 やはり、こんな美由美は初めてだ。
「じゃ、今度は俺から行くからな」
 再びコートの中に入ってきた私は、美由美に向けて軽くサーブを打つ。
 ……この時まで、私は美由美のことを、完全に舐めていた。

「えいっ!」
「そ、そう来たか!」
 少し時間が経ってから。
 私は気がつけば、美由美と言葉通りの真剣勝負を繰り広げていた。
 ……いや、これテニスなんだけど。剣道じゃないけど。
 でも、それくらいしか、今の状況を説明できない。
 なにせ、今は美由美も私も、限りなく真剣なんだからだ。

 確かに、再びサーブを入れた時には、私もあるくらい冷静だった気がする。
 すぐ前に勝ったばかりだし、今度もだいたいそうだろう、と思い込んでいたからだ。
 ――だが、現実は違った。
 ゲームに挑む美由美の眼差しが、姿勢が、さっきとは明らかに違う。
 今の状況は経験的にも体格的にもこっちの方が有利だというのに、美由美の顔には、まったく怯える様子がない。
 そこまで運動神経、優れているわけでもないというのに。
 ……美由美、今度はガチでやる気だ。

 そして、その予感は現実になった。
「えいっ!」
 あまりにも簡単に、私は美由美にポイントを奪われる。少しだけ、現実が信じられなかった。
「い、今の……美由美が打ったのか?」
「はい、ようやく一ポイントいただきました」
 こ、この気持ちをどうすればいいんだろう。
 美由美はすごく喜んでいるからいいことなんだろうけど、なぜか、今度はこっちが悔しくなってきた。
 今まで、美由美が相手でこんな感情を抱いたことなんか、一度もなかったというのに。
 そもそも、いつも私にとっての美由美は、大切にすべき、守るべき人ってイメージだったのに。

 これって、いったいどういう感情なんだろう?
「えっと、柾木くん?」
「あ、なんだ?」
「今度はわたしの方から、サーブ打ちますね」
 しかし、こっちの戸惑っている気持ちとは逆に、美由美はものすごくイキイキしていた。
 それこそ、今まで一度も見たことがないような感じで。
 今の美由美は、間違いなく自分が勝ったことを喜んでいる。
 ……こんな美由美は、間違いなく初めてだ。
「ああ。今度は負けないからな」
 ならば、こっちも本気を出さなくては。
 私だって、このまま負けていられるほど、我慢強くはないから。

 それからは、口にするのも恥ずかしいけど、本当の戦場だった。
「わ、わわっ!」
「じゃ、こっちから!」
「ひ、卑怯です、柾木くん!」
「反則じゃないから別にいいだろ!」
 ……ダメだ。自分でやっておきながら、ものすごく大人げない。
 たぶん、普段の私のことを知っている人がここにいたらびっくりするんだろうな。
 そもそも、二人とも真剣すぎて、もうラケットを振ったりボールを打ったりする音くらいしか聞こえてこない。
 こんなことをお互いに喋っているってことは、まだ余裕がある、って意味だ。
 いや、それはそれとして、
「手抜きしないでください! こっちは真剣なんです!」
「こっちこそ!」
 さっきからずっと、どうしようもなくモヤモヤしていることがある。
「絶対に、今度はわたしが勝ちますから!」
 ……み、美由美って。
 ここまで負けず嫌いだっけ?
「そうさせてたまるか!」
 いつの間にか、私は、私たちは必死でコートの中を走っていた。
 ここまで暑いのに、相手は美由美だというのに。
 私は、いつもと違って、ムキになっている美由美を相手に、ゲームに集中する。

 そんなふうに、私たちのラリーは続いた。
 こっちも本気でやっているつもりなのに、どうしてか美由美にポイントを奪われることも多く、なかなか思い通りではいかない。
 こ、今度こそ――
「は、入った! またわたしの得点です!」
「どうしてこうなった~……」
 美由美にまたポイントを奪わて、私は一人で悔しがる。
 最近はあまり誰かとスポーツとかやるきっかけがなかったから、こういう感情は、本当に久しぶりだ。
 でも、その相手がほかでもない美由美になるとは。
 どういうことなんだろう、これって。
 いや、美由美もイキイキしているし、これでいい……のか?
 ちょっとこそばゆいっていうか、素直になりすぎた気はするけど……。

「はあ、はあ……」
「はあ、はあ……」
 そこまで燃え上がってから、私たちはしばらく、呼吸を整える。
 ずっと打ち合ってばかりだったから、どうやら疲れてしまったようだった。
 そもそも、休憩もほぼ入れず、夏の昼にずっと外でこうしてたわけだから、疲れないわけがない。
「そ、それで、今のスコアは――」
「……スコア?」
 美由美の切羽詰まった声を聞いてから、私はそういや、スコアってものもあったってことを思い出す。
 馬鹿だった。そもそもテニスだからスコアに気をつけるのは当たり前だったというのに、思いっきり忘れていた。
 ど、どうしよう。
 これ、言い出すと美由美がすごい顔をしそうなんだけど。
「ごめん、忘れていた」
「えっ?!」
 やっぱりと言うべきか、美由美の顔はすごかった。
 私、ここまでめちゃくちゃになった美由美の顔、初めて見たような気がする。
「最初は一応数えていたものの、途中からすっかり忘れていたようだな。ごめん。どうやら勝負は次越しになりそうだ」
「そ、そんな、わたし、全力だったのに……」
「本当にごめん。俺が悪かった」
 っていうか、この状況、我ながらよくわからない。
 私、今初めて美由美に責められてるのかな?
 べ、別に悪い気持ちじゃないけど、この気持ちは何ていうのだろう……。
「つ、次こそ、その、負けませんから!」
「わ、わかった。もう一度、絶対に勝負しよう。だが」
 ここで、私は一度溜めを入れる。今の美由美は、誰からどう見ても熱が入りすぎた。
「もうお互いだいぶ疲れてるから、今度は近いところで少し休まないか?」

「こ、こんなに近いところで、ここまで美味しいデザートカフェがあったんですね」
 私の贔屓の喫茶店に入ると、美由美はメニューを見ながら目を大きくする。
 そこまで穴場でもないはずだけど、どうやら美由美には、こんなところに来た経験があまりなかったようだった。
「ああ、好きなものを注文すればいい。ちなみに俺のおすすめはこっちのショートケーキだ」
「たしかに、これは甘くて良さそうです」
 そうやって席に座り、私たちはそれぞれ注文した甘いものを頬張る。ちなみに、さすがにいつものパルフェはちょっと恥ずかしかったため、私はチョコのショートケーキを選んだ。
「きょ、今日は、考えてたよりすごいことになりましたね」
「そ、そうだな」
 こうやって思い返してみても、やっぱりさっきはすごかった。
 私、美由美を相手にここまで真剣になるとはまったく思っなかったし。
 以前の美智琉の話、過剰でもなんでもなかったんだな。
 自分って、どうやら美由美のこと、甘くみていたらしい。

「さっきはごめんなさい。その、思わず熱が入ってしまって」
「い、いや。むしろよかったよ。美由美の新しいところが見られて」
 照れくさそうに視線を逸らす美由美に、私は話しかける。
 たしかに、今日はずいぶん驚いたけど……それは決して、悪い意味じゃない。
 今まで私は、美由美は大人しくて控えめな子だとずっと思い込んでいた。
 でも、まさかここまで生き生きしていて、私のように勝負好きだとは思ってなかった。
 ……不思議。
 美由美とは長く付き合ってきたと思っていたのに、今日のような美由美の姿は、初めてだった。
 私は美由美のこと、そこそこわかっていたつもりだったのに。
 そんなわけないって、今日、ようやく気づいたんだ。

「あの、柾木くん」
 そんなことを思っていたら、急に美由美が、こう言い出した。
「どうした?」
「突飛なこと、話してもいいんでしょうか」
 なぜだろう、美由美の顔は妙に固まっていた。
 いつもとは少し、様子が違う。
「構わないが」
 私の返事を聞くと、美由美は少し迷ってから、話を続けた。
「わたし、幸せになりたいんです」
 それは、たぶんありふれた言葉。
 でも、どうしてか美由美が口にすると、ひどく聞き慣れない言葉に思えた。
「変ですよね。柾木くんと出かけているというのに、こんなこと言い出して」
「いや、別にいい。続けてくれ」
 美由美はものすごく申し訳なさそうな顔をしていたが、私はむしろ、少しだけ嬉しかった。
 ここでは、美由美の心の奥にある、素直な気持ちを聞いてみたい。
 お出かけしようと誘った時から、私はずっと、そんなことを思ってたんだから。
「わたしって、すごく恵まれてるって思います。やさしい兄弟たちがいて、柾木くんがいて、頼れる職場があって」
「そうか」
「も、もちろん、さっきもものすごく楽しかったです。嬉しい時間を、ありがとうございました」
「こ、こちらこそ、ありがとう」
 急な話題転換に私が照れていると、美由美の顔が、再び暗くなった。
「でも、ときどき、とても辛い時があるんです。自分自身のことに気づくと、どうしようもなく、惨めな気持ちになります」
 どうしてなんだろう。
 美由美が話しているその気持ちには、見覚えがあった。
「わたし、いつも自分のことを隠してばかり。美智琉の言ってるとおり、猫かぶってる。だから、いつまで経っても友だちができないんです。今もこうやって、自分のこと、貶してますし」
「……」
「どうして自分は、自分なんだろう」
 美由美は、ここで俯く。
 私の顔を見ることすら、辛いようだった。
「時々、そんなことを考えてしまって、それでまた苦しくなって」
「……」
「自分はずっとこのままかな。なんてこと、思っちゃって」
 話せない。
 自分だって、そんなことを思う時があるって、言えない。
 美由美は、ここまで自分のことを素直に打ち明けてくれたのに。
 私は自分の心すらも、うまく晒すことができなかった。
「や、やはり、せっかくのお出かけだというのに、こんな話、暗すぎるんですよね。あはは」
「違う」
「はい?」
 だから、私はどうにか、声を作り出す。
「それはきっと、美由美だけの持つ感情じゃないんだ」
 少しだけ、私も、勇気を出す。
「俺も、時折、そんなことを思うことが、ある」
「ま、柾木くんも、ですか?」
 ここで、美由美は驚く。
 今までずっとそんなこと、考えもしてなかったって口調だった。
「ああ。情けないと思うか?」
「い、いえ! とんでもない! ただ、私にとっての柾木くんは、いつも立派なんですから」
 そんなこと思うわけない、って話をしたかったらしい。
 たしかに、美由美の目に、私はそう写っていてもおかしくはない……かな。
「ですけど、それを聞いただけで、心がずいぶん軽くなりました」
 そこで、美由美は微笑んだ。
 今度は心から落ちついたような、本心からの笑顔である。
「わたし、こんなこと口にすると、みんな離れてゆくんじゃないかな。なんてこと思って」
 今の美由美は、嘘をつかない。
 私は心から、そう信じることができた。
「柾木くんが受け止めてくれて、本当に、嬉しかったんです」
 ひょっとして、私たちは。
 ずっと長い知り合いてあてつもりなのに、今日、初めて「通じ合った」のではないんだろうか。

「今日は、本当にありがとうございました」
 帰り道。
 いっしょに「組織」に帰る途中、美由美は急にそんなことを言ってきた。
「べ、別に、俺の方がありがたいっていうか……」
「いえ、今日はいろいろと、柾木くんと深く仲良くなった気がします」
「……そうか」
 美由美がこう言い出すくらいなら、きっとそうだったんだろう。
 私だけ、そう感じたわけじゃないんだ。
「わたし、ずっと柾木くんのこと、わかってたつもりでいたのに、それが少し恥ずかしいです」
「俺も、同じだ」
「えっ?」
「自分だって、ずっとそんなことを思ってたんだ」
 照れくさくなってしまったせいで、私は美由美から視線を逸らす。
 こ、こんな顔はあまり見せたくないのに。
 なぜ今日に限って、美由美はこっちの顔をじっと眺めてるんだろう。

「ふふっ」
「え?」
 その時、美由美がいたずらっぽく微笑んだ。
 いつもの美由美と違って、怯えてない、純粋な楽しさだけがこもった顔。
 今の美由美は、まさにそんな顔をしている。
「柾木くん、子どもっぽい」
「あ? ……ああ」
 今の私って、やっぱりそう見えるかな。
 自分から思ってみても、なんか幼稚で子供っぽいって、そう感じる。
「そんな柾木くんも、今のわたしには、とても新鮮に感じます」
「そ、そうなんだ」
「これはわたしだけの秘密、ってことにしておきますね。他の方には見せなかった顔だったらいいな、なんて」
 ……だ、ダメだ。
 今のはにかむ美由美の顔、すごくかわいい。
 は、話せないけど。
 なぜか、これは自分だけの秘密、ってことにしておきたいんだけど。

 私たち、少しだけでもいいから。
 昨日より近づいていたらいいな、なんて――