突然の出会い(2)

「……眷属って、本当ですか?」
 しばらくぼっとしていた良平が、ヒマリの方を向く。いつもとは違って、からかう様子はまったくなかった。
「あ、ああ……それもそろそろ、説明しておく必要が出てきたわね」
「なんだ、ヒマリちゃんって、まだみんなに眷属のこと、喋ってなかったのかい?」
「いや、ここまで長い付き合いになるとかまったく思わなかったし、そもそもあたしがそんなの、自分から口にするわけないでしょ」
 達郎の一言に、ヒマリはブツブツそう答える。
 ……本当は、この事態が終わるまでずっと話さないつもりでいたのに。
 まったく、うちの祖父さんはいつも一言多い。

「そもそも祖父さんって、今のあたしたち、どうなってるのかも知らないんじゃない」
 もう呆れたような口調で、ヒマリはそう突っ込む。そういや良平たちと達郎の関係に気がかかっていたせいで、そっちの説明をずっと忘れていた。
「まあ、ヒマリのことだからね。危険なことにはなっていないと思ったし、これから説明してくれるんだろう?」
「本当に、この祖父さんは……」
 確かに危険にはなっていないが、その判断はあまりにもノンキすぎる。吸血鬼ならではの現実感覚のズレがここで出てきたかと、ヒマリはため息をついた。
「で、その『眷属』っていうのは何なのかしら」
「わたしもその、気になります。眷属って、確かに聞いたことはあるんですが、どういう意味なのか、しっくり来なくて……」
「そりゃそうだろうね。こんな言葉、現実で使われる機会なんてまったくないから」
 そんなことを口にしながら、ヒマリは心の中で言葉を選ぶ。
 ……こんなことを自分から口にするのは、雪音に続いて二回目だった。

「ぶっちゃけ、そこまで大したことじゃないけどね。古い頃から伝わってきた吸血鬼の伝統が、未だに続いてるってだけの話だし」
「……そこで吸血鬼という言葉が出てくる時点で、すでにヤバそうな気がするっスけど」
「まあ、仮にも吸血鬼だし、今より昔はいろいろあったって想像がつくでしょ? あの時は自分の身のためにも、守ってくれる眷属が大切だったのよ」
「あーつまり……」
 良平の話に、ヒマリは頷く。まあ、そういうことだった。
「だから、昔から吸血鬼は、誰か一人の人間を選んで、その人間の血を吸って『眷属』にしたの。そうすりゃその『眷属』は、自分が死ぬまでは決して死ななくなるから」
「……じゃ、もし自分が死ぬ時はその『眷属』なんちゃらも一緒になるわけ?」
「まあ、そうね。代わりに『眷属』は主のことを守るため、特別な力を使えるようになるの。だから眷属は主を守るため一生懸命になるわけね」
 刹那の方を振り返りながら、ヒマリはそう答える。自分から話していて何だが、すごく現実味のない話だった。
「……そう」
「考えてたより遥かにスケール狂ってる話っスね、それ」
 ヒマリが話を終えると、みんな「すごいことを聞いた」という顔をしていた。刹那はもちろん、良平も呆れたような表情でヒマリをじっと見ている。
 事実、このような反応は当たり前だった。こんなふざけたこと、自分も他人から言われると笑う。
「まあね、なんであたしが『眷属』のことを古臭いって思ってるのか、これでわかったでしょ?」
「ま……今の時代からすると、かなりアレな制度ですねぇ」
「そういうこと」
 良平にそう答えながら、ヒマリはまたため息をつく。
 この「眷属」について親に初めて聞かされた時、ヒマリが見せた反応も正しく同じだった。
「今は現代社会なんだからさ、眷属とか、そういう時代遅れなものはどうでもいいでしょ。あたし、以前からずっとそう言ってきたはずなのに」
「だから僕もいつも言ってるんだろう。やはり眷属は作るべきだ、と」
「あのさぁ……」
 普段はそこそこいい関係であるヒマリと達郎だが、この話題になるとどっちも足を引かない。
「えっと、ヒマリさんがその『眷属』を作らなきゃいけない理由って、あるんでしょうか?」
 さっきからヒマリの話をじっと聞いていた紗絵が、少し迷うような顔でそう聞いてくる。
「ああ、それだね。少なくとも、『それが吸血鬼の伝統なんだから』ってやつでは決してないよ」
「あれ、違うんですか?」
「そう、はっきり言って、ただの伝統だったら守る必要もないし、無理に引き継ぐ意味もない。時代はいつも変わりゆくものだ。今の時代に相応しくない伝統なら、時には捨てるのも大事だろう」
「でも、さっきは『眷属』は作るべきだと――」
「答えは簡単さ。『眷属』でもなんでも作っておかないと、吸血鬼は精神的に生きていけないから、だよ」
「……っ」
 その話に、ヒマリは息を呑む。
 それこそいつも、ヒマリがこの祖父にずっと聞かされてきた話だった。
「吸血鬼だとしても、本質はただの人間のようなものだ。別に眷属でもパートナーでもなんでもいいが、一緒に歩いてくれる『誰か』がいないと――ほとんどの『人』、人間と限りなく近い生き物は、生きていけなくなる」
「……あ」
「わかったかい? 綺麗なお嬢ちゃん。僕がヒマリに眷属を作れというのは、この先も続く長い道のりに耐えられるようにするため、でもあるんだ」
 ヒマリはもう、達郎から必死に視線を逸らしていた。

「えっと、達郎さんってすごくヒマリさんのことを考えてますね」
 しばらくじっとしていた紗絵が、そんなことを口にする。
「そりゃそうだよ。一人しかいない大切な孫だからね。ヒマリちゃんにはウザかれてるけど」
「いや、本当にウザいから当たり前じゃん」
「ヒマリちゃんはいつもこうだからな。せっかく向日葵という素敵な名前も持ってるのに」
「ちょ、ちょっと、その名前、恥ずかしいから呼ぶなって何度も言ってるでしょ?!」
 いきなり本名を聞かされて、ヒマリは思わず動揺する。こう見えても、達郎がヒマリの本名を口にするのは、親に比べると珍しいことだった。
「しかしね、ヒマリちゃん。せっかく親がつけてくれた名前なのに、こんな扱いをされたらちょっとひどくないかな?」
「いや、どうでもいいから。あたしが嫌だって言ってるし」
「えっ、そういやヒマリさん、ご両親とはどうなってるんでしょうか?」
 まるで今更気づいたというような顔で、紗絵がそんなことを聞いてくる。
 それを聞いたヒマリは、一瞬、体の動きが止まった。
 ――あんたがそんなことを言ってくるのかい。そんなの、お互い様でしょ。
 思わずそんなことを考えてしまったが、まあ、こんな話題になると、そこが気になってもおかしくはない。
 そう、結局、いつかは来るべき試練だったわけだ。
「ああ、そういやそうだね。ヒマリはもう十年も親と会ってないよ。確か、この古井に来てからはずっとそうだったよね?」
「……えっ?」
「あ、ああ、そうね……」
 ヒマリの眼差しが、自然に遠いところへと向く。
 ……あんまり口にはしたくなかったことが、また一つバレてしまった。
「あ、あの、どういう……?」
「まあ、僕のことを見たらみんな、見当がつくんじゃないかな?」
 それを聞いた紗絵とみんなは、ようやく何かに気づいたような表情になる。
 こんなことがバレたのも、また雪音のことを除くと初めてだった。
「まあ、そういうこと。ぶっちゃけ、うちの両親ってめちゃくちゃ若いのよ。それこそ今のあたしレベルで」
「えっ、そんな……」
「だからこちらとしては、あんまり顔を合わせたくないわけ。たってお互い変な気分じゃない。親と娘が同年代みたいな見た目だったらさ」
「ふ、複雑ですね。ヒマリさんちって」
 未だに驚いている紗絵を横目に、近くにいた良平がフォローを入れる。
 ……まあ、話に困るよね、こういう状況は。
 ヒマリもそれを自覚していたからこそ、あんまりこういうのは口にしたくなかった。
「別に会っていないだけで、時々は電話もするしライングもやってるからね。会わなくたっていいんじゃない。連絡はちゃんと取ってるわけだし」
「ヒマリの母さんって、最近娘が連絡をしてくれないといじけてたけどね」
「ぐ、ぐぬぬ……」
 達郎にそう言われたヒマリは、そっと視線を遠くに逸らす。
 ……確かに連絡は取っているが、そこまで頻繁に取っているわけではなかった。もちろん、向こうはまんざらでもないようだったが。
「と、とにかく、祖父さんとはちゃんと会ってるからいいでしょ」
「でもヒマリちゃん、最近は僕のこと、あんまり歓迎してないしね」
「いや、それはあんたが変態まっしぐらなせいだから」
 どうして自分の周りはこんなのばっかなんだろう。
 ヒマリは今、本気で頭を抱えたくなってしまった。

「でも、その『眷属』っていうものを本当に作らないといけないくらい、吸血鬼って大変なんですね」
 さっきからずっと何かを考え込んでいたようだった紗絵が、そんなことを口にしてくる。
「ああ、君が思ってるよりも、長い人生というのは本当に苦しいものだよ。なにせ、みんなと時間がズレることになるからね」
「……それって、やはり仲間がいないから、なのでしょうか?」
「そうそう、お嬢ちゃんは本当に物わかりがいいねぇ。感心しちゃうなぁ」
 紗絵の話に、達郎は静かにそう頷く。
「どうしても眷属がダメだというなら、パートナーを作る、という手もあるよ。つまり、誰でもいいから『一緒に生きてくれる』存在が必要ってことだね。僕にも妻がいるし、眷属もいるけど、それでも寂しいと思うことはあるんだ」
「……考えてたよりもディープな理由ですね、それって」
 珍しくも真面目な表情で、良平がそう頷く。さっきから静かに達郎の話を聞いてばかりな羽月も、いつもとは違って非常に真剣な顔だった。
「で、ヒマリさんはどうせパートナーが無理だから眷属に……いててっ!!」
「あのさ、言ってもいいことと言っちゃいけないことがあるって、学校で学ばなかった?」
 さりげなく良平の後ろまで近づいたヒマリは、そのセリフと共に頭をグーで殴る。いきなり殴られた良平は、涙目で後ろを振り返りながら抗議した。
「ちょ、ちょっとヒマリさん! これはかなり来るんですけど!」
「知らんがな」
「やはりヒマリちゃんは変わらないなぁ。いつも物理で解決しようとするところはそのままだよ」
「何、祖父さんも一発殴られたいわけ?」
「……祖父にも武力行使ができるヒマリさんって、マジパネっすねぇ」
 良平がそう口にすると、刹那と紗絵もうんうんと頷く。なぜか自分だけ悪者扱いされている気がして、ヒマリは少しムカついてきた。
「でも、ヒマリちゃんさえ良ければ眷属になってあげるって、わたしは何度も言ったのにね」
 その時、今度はまったく気にしなかったところから爆弾が投げられてくる。
「ちょ、ちょっと、雪音?!」
「えっ、マジっすか?!」
 雪音の話に、ヒマリを含めたみんなが顔を向ける。当事者である雪音は、いつものようなニコニコした顔でみんなを見渡していた。
「ええ、何度もそう言ったわ。確か、十年前からはずっと言ってたかな?」
「い、いやいやいや、ヒマリさんと雪音さんって、どういう関係っスか?!」
「いや、普通だから。普通の友だちであるだけだから!」
「もうやだ。私、そろそろここから抜けてもいいかしら」
「刹那、あんただけ逃げようともしてんの?!」
 いや、だから、こんなことを喋るつもりじゃなかったのに。
 ここまで来ると、ヒマリは本気で頭を抱えたくなってしまった。

「えっと、すみません。なぜかこんなことになってしまったっスねぇ……」
 そのセリフと共に、健太郎になった良平が姿を現す。
 以前からずっと服を着替えていないからか、体がよく出る白いTシャツに適当な半ズボンだという、「女性」としては大いにだらしない姿だった。
「おお、この女性は? これはこれは、失礼しました。僕は日笠達郎といいまして――くっ!」
 そんな健太郎を見てなぜかペラペラになった達郎を、隣のヒマリが肘で制圧する。いきなり背中を刺された達郎は、机に沈没したまま呻いた。
「こ、これはひどい一撃だなぁ……」
「あのさ、祖父さん。頼むから、孫の前でナンパするのはやめてくれる?」
 あまりにも急な出来事に、良平を含めた全員は目を丸くする。
 そういや、確かにさっき、ヒマリは達郎のことを「女たらし祖父さん」と呼んでいた。
「なぜなんだ、ヒマリちゃん。ここまで素晴らしい女性がいるのに、口説き文句の一つもできないのはあんまりだろう」
「いや、そんなのどうでもいいし。お祖母様にこんなこと知られたら、いったいどうするつもり?!」
「頼むよ、ヒマリちゃん。静子(しずこ)もきっと、この気持ちを理解してくれるはずなんだ……」
「あ~あ、本当にこの祖父さん、清々しいほどクズだよね」
 周りが今までぼうっとしている間にも、ヒマリはそんなことを口にしながら頭を振る。まるで、このようなやり取りや出来事が何度もあったような態度だった。
「あ、あの、入ってもいいっスか? オレ、このままじゃちょっと……」
「はいはい、入ってきなさいよ。うちの祖父さんはあたしがなんとかするから」
「……ど、どうやって?」
「ま、なんとか?」
「そこで疑問形になると、こっちがすごく困るんですけど」
 そんなことを口にしながらも、良平は達郎とかなり離れたところにそっと居座る。
 どうも、さっき男である達郎に口説かれたのがトラウマになっているようだった。

「……ま、こっちは今、こんなことになってるのよ。祖父さん」
 とにかくこんなふうに、ヒマリは今までの(波乱に満ちた)出来事をざっと達郎に話した。
「いや、これはこれは……」
 最後までヒマリの話を聞いた達郎は、ここに来て初めて驚いた顔をする。こんなおちゃらけた祖父も、時にはこんな表情を見せる時があるのだ。
「じゃ、この目の前の素敵な女性も、あの葉柴くんだったということなのか」
「まあ、そうなるわね。短い夢だったわけ」
「……いや、これはすごく面白いかもしれない」
「は、はあ?」
 もう本気でわけがわからないという顔で、ヒマリは呆れてみせる。
 まさかこの祖父って、男も行ける……というか、そこまでこじれた性癖(誤用らしいが)だったのか?!
「いやいや、誤解しないでくれ。別に新しいことに目覚めたとか、そういうわけじゃないんだよ」
「じゃ、なんだよ、まったく」
「これはね、吸血鬼的な視点では、かなり面白い話、ということだよ、ヒマリちゃん」
「いや、それって良平と何の関係もないじゃん」
「まあまあ、少し聞いてくれ」
 二人のやり取りを、となりの刹那や良平が呆れた顔でじっと聞いている。もうこの二人にも、ヒマリの祖父の残念さがわかってきたようだった。
「ひょっとしたら、今、君たちが巻き込まれた出来事は、吸血鬼にとって非常に面白いケースになるかもしれない」
「……どういうこと?」
「だってさ、ヒマリちゃん。もし君がこの健太郎という青年の中に入って血を吸ったら、どうなると思うんだ?」
「へ?」
 その話に、ヒマリは首を傾げる。
 あまりにも突飛な発想で、どう答えたらいいのかわからなかった。
「いや、そんなの思いつかないし、やる意味もないでしょ」
「それは違うよ。たとえば君が『月島健太郎』として死んだとしたら、そのまま『人間』として死ぬことになるんだろう?」
「……あ」
 そこで達郎の意図に気づいたヒマリは、ハッとした表情になる。
 確かに、人間と入れ替わった吸血鬼なんて、今まで聞いたことすらない。
「つまりに、今のケースは非常に面白いって話だよ。ある意味、例外中の例外なんだからね」
「本当に、自分事じゃないと思って……」

「あ、ちなみにヒマリさんって、今いったい何歳っスかね……?」
「それはだな、僕の覚え通りならば平成元年生まれ――」
「もうそこまでにしとけ~~!!」
 結局ヒマリは、みんなの前で祖父に向けてキックを飛ばしてしまった。
 まったく、この祖父ったら。
 黙っていると、そこそこいい人だと言えなくもないのに――

「それはそれと、この状況は面白いなぁ」
 夕焼けの屋上。遠くの風景に視線を落としながら。
 今は健太郎であるヒマリに向けて、達郎はそう話しかけた。
「……どこがだよ」
「まさかね、ヒマリちゃんとこんなふうに向き合える日が来るとはね」
「いや、だからどこがだよ。この変態祖父」
 自分から考えても低すぎる声で、ヒマリはそう反論する。なぜかヒマリは、今、この瞬間が悔しくて仕方がなかった。
「はっきり言って、今の時代なら長生きしても驚くことはもうないと思ってたんだが……とんでもない思い違いだったな。まだまだ世の中は面白いねぇ」
「自分一人で納得してるし、まったく」
 いつもそうだった。
 ヒマリは、こんなふうに達郎のペースに巻き込まれてしまう。

「まあ、こんなことを僕が口にしても、説得力はあまりないだろうね」
「……自覚はあったのか」
 珍しく真面目な口調で話す達郎を見て、ヒマリは(健太郎の顔で)不思議だという顔をする。この祖父、こんなに真剣な姿を見せることはそうそうなかった。
「そりゃね。ヒマリちゃんから見た僕の印象って、女たらしのバカジジィってもんだろ?」
「びっくりするほど正解、だな」
「さすがヒマリちゃん、遠慮がないなぁ。だが、その通りだ」
 ここに来て、達郎の表情はえらく自嘲的なものになった。
 ここまで重そうな空気の達郎なんか、ヒマリにとっても滅多に見られないものである。
「こうして女たらしでもやらなければ耐えられないほど、僕はあまりにも弱い人間……いや、亜人なんだよ」
 そう言ってから、達郎は首をがくっと落とす。
 遠くに見える夕暮れが、ひどく重たくて仕方がなかった。

「まあ、そこはお祖母さまが聖人って話になるんだよね。ちゃんと感謝しておき……おけよ」
 しばらくしてから、ヒマリは達郎に向けてそう話しかける。この人間の姿では、急に口調が戻ってしまうのが問題であった。
「ああ、いつも静子には感謝しきれないよ。こんな僕のパートナーになってくれて、ああいう無様な姿を受け入れてくれるんだからな」
 そんな達郎の話を聞きながら、ヒマリは最近、滅多に顔を合わせていない祖母の顔を思い出した。きっとあの人がいなかったら、このバカジジィはまともに生きてはいられなかったのだろう。
「吸血鬼の生き様は、五十年前と比べると驚くほど変わっている。そして、これからも激しく変わり続けるのだろう」
「まあ……だろうね」
 ヒマリは静かにそう頷く。
 この日笠達郎というバカジジィは、いつもふざけてばかりではあるが、その長く生きてきた経験だけは本物だ。
「先など、僕なんかにはとても読めない。まるで荒波に漂う船のようだ」
「……」
 しばらく、二人は何の会話も交わさなかった。
 夕暮れはゆっくりと消えていき、もうすぐ暗い夜がやってくる。

「ヒマリ、人間として死ぬことが羨ましくはないのか」
「……」
 ヒマリは何も答えない。
 自我が確立され始めた子供の頃から、ヒマリはずっと似たようなものを考え続けていたからだ。
「それなら、この長い人生を考えずに済む。少なくとも、200年を超える寿命のことを悩むよりはマシだろうね」
「そう、かもね」
 遠くの雲を眺めながら、ヒマリはそう頷く。
 普通の「人間」にしては夢物語だろうが、ヒマリにとっては人生そのものであった。
「でもな、ヒマリちゃん」
「どうした?」
 いつもと少し違う達郎の態度に、ヒマリは少し驚く。
 ……この人が真面目になる時なんて、何ヶ月に一度くらいしかないと思っていた。
「今みたいに『普通の人間』になったとしても、やっぱりそれは違うだろ?」
「まあ……それはそうだね」
 世の中、簡単に解決できるものなど、多くはない。
 今、ヒマリの持つ悩みも、きっとそういうものだった。

 次の日、朝。
「はぁ……たまには早起きも悪くはないわね……」
 ジュースの缶を手にしたヒマリは、屋上で外を見下ろしながらそうつぶやく。なぜか早く目が覚めたヒマリは、ここでぼんやりと時間を過ごすつもりだった。
「いや、ここにいたんだね、ヒマリ」
「……祖父さんじゃない、そろそろ戻らないの?」
 ヒマリは思わず、拗ねた声でそう聞き返す。
 ……まさか、自分の祖父が今から起きてくるとは思わなかった。
「自分の祖父にひどすぎるんじゃないか、ヒマリちゃん」
「あんた、昨夜には何やらかしたか、ちゃんと覚えてる?」

「だから、ヒマリ」
 次に来るセリフなんか、聞かなくてもわかった。
 ただし、そこに乗せられた思いは、いつもと少し違った。
「眷属を作りなさい」
「……」
「君よりは少し長く生きてきた、人生の先輩としての助言だよ」
 知っていた。
 どれほど達郎がふざけた性格であるとしても、この話題になると違う、ということは。
「まあ、別に眷属でもなんでもいい。なんなら、パートナーでも構わない」
「……」
「誰でもいいから、長い人生に付き合ってくれる、味方を作りなさい。それだけはやっておくべきだよ、ヒマリ」
「平気だってば」
「そうでもない。いつかはきっと、ボロが出る」
「……お世話好き」
「まあ、ヒマリのためになるなら、いくらでも世話を焼くけどね。ダメかな?」
「バカ」

「あっ、来てくれたね、ヒマリちゃん!」
 昨日のあの大通りにやってくると、案の定、山辺は先にヒマリたちのことを待っていた。
 ……そこまであたしのことが気になってたんだ。
 そこまでは考えていなかったため、ヒマリは少し驚いてしまう。
「ま、待ってたんだ」
「うんうん、ヒマリちゃんとまた会えるのが、嬉しくて嬉しくて」
「そ、そう……」
「すごく押されてますね、ヒマリさん」
「うっさい」
 いっしょについてきた良平にツッコミを入れながら、ヒマリは冷や汗をかく。それは暑さのせいもあったが、何よりもさっき、達郎と話していたことを思い出してしまったのが原因だった。
 ――いつも強がってるが、ヒマリはやっぱり寂しがり屋なんだろう?
 今でもヒマリは、「眷属」を作るつもりなんか、これっぽっちもない。やはりヒマリは、誰かに迷惑をかけてまで「眷属」なんてことを作るのが苦手だった。
 でも、「これから」の未来にすごく自信があるわけじゃない。
 ……ある意味、未だに女と見たらすぐ口説いてしまうヒマリの祖父は、その証人みたいなものでもあった。
「でもよかったね。これからはまた連絡も取れるし、ね?」
「ま、そ、そうね。あたしもまた会えて嬉しかったし……」
「やっぱりね、これも必然ってやつだと思うの。こうやってヒマリちゃんとまた会えるって、わたし、思ってもみなかったもん」
「そ、それもそうかもね。あたしは必然とか、あんまり信じない方だったけど」
「……ヒマリさん、さっきからずっとどもってますよ」
「うっさい」
 ……今日のあたしの反応って、呆れるほどワンパターンだな。
 良平を軽く睨みながら、ヒマリはどこか負けたような気持ちになってしまう。
「あ、そ、そだ。ヒマリちゃん!」
「……な、何?」
 いきなり声をかけられたヒマリは、歩きをやめて振り返る。
 今度こそちゃんとお別れするつもりだったのに、どうしたんだろう。
「あのさ、ヒマリちゃんのチャンネル、以前見たんだけど」
「あ、ああ……あれね」
 そういや確かに、山辺はさっきそんなことを話していた。
 あまりにも色々なことがあったから、文字通りすっかり忘れていた。
「その、こ、こんな言い方は悪いけどさ」
「……何?」
 しばらくおずおずしていた山辺は、やがて何か覚悟したような表情で、こんなことを言い出す。
「そ、その悪口で行くところは、さすがにどうかと思うの!」
「え、えっ?!」
 それを聞いたヒマリは、反応に困ってしまう。
 上手いとか下手とかそういうところじゃなく、まさかそっちを指摘されるとは思わなかった。
「えっと、ヒマリさんってひょっとして、Youtubeでもリアルのようなスタイルで行ってます?」
「……そうなんだけど、それがどうしたの?」
「それ、ちょっとヤバくないっスか?」
「どこが?」
「いや、どうやって収益化が通ったのか、ちょっとわかんないレベルですけど、それ」
「あんた、ずいぶんと口が利けるようになったわね?」
 そんなことを言いながらも、ヒマリは思わず、視線をそっと逸らす。
 ……実を言うと、ヒマリも割と似たことを思っていたところだった。

 これからどうなるのかなんて、きっと誰も知らない。
 ヒマリは昔からずっと、そんなことを考えていた。最近紗絵と出会って、それはほぼ確信に近いものになりつつある。
 もちろん、それが怖くないとは言えない。むしろ怖くて、どうしようもなくなることも多かった。
 でも、やっぱりわからないのは仕方ないから。
 きっとなんとかはなるんだろう、ヒマリはそう信じる。

 ……まあ、「どうやってなんとかなるのか」なんて、ヒマリはまったく知らないけど。