マチロジ/ぐーたら警察、結城真尋をリバーシで負かせろ!の巻 その3

「それじゃ、これからレクチャーの始まりね」
 校舎の4階にある、何の変哲もないただの教室。
 真尋のいる交番を出てからここまで戻ってきて、適当な教室の適当なところで足を下ろしたヒマリは、自分についてきた紗絵と雪音の方を見ながらそう話した。
「ヒマリさんが教えてくださるんですね。わたし、とても楽しみです!」
「はいはい」
「ヒマリちゃん、どうしても負けたくないって思ってるから、きっと手取り足取りで厳しく教えてくれると思うの」
「それって、あたしの方が必死に見えすぎるんじゃない?」
 まったく雪音と来たら。
 そうため息をつきながらも、ヒマリは自分のゲーム端末を机の上に取り出した。

「ま、リバーシは実際の盤上でやることもできるはずだけど、あたしたちはこうやって、デジタルなやり方で勝負することになると思う」
「あれ? どうしてですか?」
「いや、さすがにあんたもリバーシのやり方くらいはちょっとでも知ってるんでしょ」
 これだからお嬢様は、と思いつつ、ヒマリは説明を続ける。
「リバーシはね、こうやって相手のコマを挟んで自分のものにする遊びなの。当たり前だけど、これが最後までいくと盤上いっぱいにコマがズラリと並ぶわけ」
「……あっ、そういうことですね」
「そう。単にめんどくさいのよ。こっちが」
 実はヒマリも、どうやってこのめんどくさい遊びをリアルでやっているのかはよくわからない。関心もあんまりないし、これからもずっと知らないままだろう。
「ま、やり方自体ならこれで説明が足りてしまうんだけど、あたしたちは勝つためにここにいるからね。そんなことをだらだら述べていたってしょうがない」
「でも、わたしが知っている通りだと、リバーシも結局は運の勝負だと思うんですが……」
「それも間違ってはいない。仕方ないところでもある。でも、リバーシにだってテクニックってものがちゃんとあるんだ」
「そ、そうですか?」
「そう、たとえば」
 そう言って、ヒマリは自分のゲーム機の画面を紗絵に見せる。そこにはリバーシのときに使われる盤上が写っていた。
「ここの隅っこを奪われると負けやすい、ってことはあなたも知ってるよね?」
「はい、そこはひっくり返すことができないから、なんですよね?」
「あなたとしては上出来じゃない。そういうこと」
 さすがにこの世間知らずのお嬢様も、リバーシのルールくらいは心得ているようだった。まあ、これからヒマリが教えるのはそこじゃないが。
「だから、あたしたちの戦略は『できる限り、相手にあそこを奪われないこと』なのよ。そのためには、隅っこのすぐ外にあるマスに、うかつにコマを置かないことが大事」
「あっ、そうですね!」
 ようやくヒマリの言いたいことがわかったのか、紗絵はうんうんと大きく頷いた。どうやら、その事実には初めて気づいたらしい。
「そう、これさえできてたら初心者は卒業したと考えていいと思うわ。まあ、あなたがさっき言ったとおり、運も絡んでくるんだけど……」
「そうね、以前ヒマリちゃん、隅っこを全部取ったのに負けたこともあったし」
「そ、それは言うな! 未だに思い出すと悔しくなるんだから」
「あれ、そういう場合もあるんですか?」
「……まあね」
 そう口にしながら、ヒマリはそっと視線を逸らす。まあ、ぶっちゃけアレも真尋との勝負の中の出来事だったわけだが。
「と、とにかく、ああいうこともないわけじゃないけど、さっきのことを心がけるだけでも勝率はぱーっと上がるんだから。さ、練習してみて」
「はいっ」
 何の疑いもない顔で、紗絵はヒマリのゲーム機を手に取る。
 なぜか照れくさくなってしまって、ヒマリはそのまま廊下へと逃げてしまった。

「はあ、疲れた……」
 しばらくしてから、ヒマリは何もなかったような(ことにしたい)態度で、またあの教室へ戻ってくる。その右手には、さっきにはまったくなかったお弁当みたいなものが持たれていた。
 い、いや、別にたいしたものじゃないけど。
 そんな言い訳を心の中でしつつ、ヒマリは教室の近くまで足を進める。もう夕暮れだからなんだろうか。窓から入ってくる夕焼けが、やけに眩しく思えた。
 そんなヒマリを見て、教室の外でじっとしていた雪音が嬉しそうに手を振る。
「あっ、ヒマリちゃん! ちょっと遅かったわね」
「あ……そうね」
「あら、それは?」
「えーと、その、なんだ……」
 そう聞かれたヒマリは、そっとお弁当を持った手を後ろに隠す。やはりというか何というか、こういうのがバレるのは照れくさかったからだ。
 は、早く話題を変えなきゃ。
 お弁当のことを雪音に聞かれるのを避けるため、ヒマリはわざと話を逸らした。
「で、あいつは何やってんの?」
「ほら、この通り」
 そう言いながら、雪音は奥の方にそっと視線を落とす。そこにはゲーム機の場面とにらめっこしながら、練習で夢中になっている青年の姿がいた。
 ……あいつになってからもあそこまで熱中できるんだ。ちょっとすごいな。
 ヒマリが戻ってきたことにも気づいていないらしく、その「あいつ」、紗絵はリバーシの練習に取り掛かっていた。
 もともとリバーシというのは、学びやすいが奥も深く、ハマると現実になかなか戻れないゲームである。やはりと言うべきか、勝負には無縁そうなこのお嬢様も、リバーシに熱中して時間を忘れたようだった。
 たぶんヒマリが「あのこと」に没頭していた時、また健太郎の姿になってしまったようだが、それでもあそこまで集中できているのは素直に凄い。教室の中でも廊下のことは見えているはずなのに、今の紗絵はまったくヒマリに気づいていないらしい。
 ……それはそれとして、あの健太郎ってやつ、あそこまで純粋な顔もできるんだな。
 ヒマリは思わず、それに感心する。
 もちろんあの健太郎ってやつが実はどういう存在なのかなんて、ヒマリには知るわけもない。でも、自分だってその「中の人」だったからこそ、あの子供のように無邪気な顔は不思議に思えた。
 まあ、今、重要なものはそっちじゃないけれど。
「へえ、なかなかじゃない。こりゃ意外と期待できるかもね」
 ヒマリの話に、雪音は頷く。でもすぐ何か思いついたらしく、ヒマリの方に振り返りながら笑ってみせた。
「でもね、ヒマリちゃん。もしこの機会で、紗絵ちゃんが勝負事に目覚めるとどうするの?」
「え?」
 それを聞かれて、ヒマリはしばらくキョトンとする。だが、すぐ投げやりな顔になって、雪音から視線をそっと逸らした。
「……まあ、人間的でいいんじゃない?」
「くすくす」
「ぐぬぬ……」
 やはり、自分は雪音には敵わない。
 それに気づく度に、ヒマリはなぜかすごく悔しい気分になるのだった。

「あいつがここでああしてるの、親たちは気づいてるのかな」
 さっきの感情はともかくとして、ヒマリは遠くから紗絵をじっと眺めながら、そんなことを口にした。
「紗絵ちゃんはご両親に連絡していないようだし、たぶん気づいていないんじゃないかしら」
「でもよく考えてみると、あいつ、お嬢様じゃん」
 ……やっぱり、本人はまったく気づいていないけれど、あの親のことだから、密かにアレな精密機械でも忍ばせたのではないのだろうか。
 自分の娘が、どこにいるのかいつでも把握しておくために。
 それじゃ、もしかしたらあたしたち、やられる?!
 そこまで考えたヒマリは、まるで自分たちが友だちなのかどうかを確認するような口調で、雪音に向けてこう話しかけた。
「あのさ、雪音。あたしたち、死ぬときは一緒だよね?」
「あら、ヒマリちゃん。ようやくわたしのことを『眷属』にしてくれる気になったの?」
「え、えっ?!」
 それを聞いたヒマリは、目が丸くなる。さすがにこの場面で、あの言葉が出てくるとは思わなかった。
「そ、そんな時代遅れなことなんかするわけないんじゃない。いきなり何言っての」
「でも、一緒に死ぬならあれくらいしか……」
「も、もうこの話はなし! あたしが悪かった。もうこんなの、口にしないから」
 ヒマリはすごい速さで、ブンブンと頭を横に振る。
 いつの間にかこっちに近づいた紗絵が、その光景を興味津々な顔でじっと見つめていた。
「やっぱりヒマリさんと雪音さん、仲がいいですね」
「……違うってば」
「あらあら」
 雪音が見よがしに頭を振ってみせると、ヒマリはぷいっと視線を逸らす。
 今日のヒマリは、不思議なくらいに雪音に負けっぱなしだった。

「あ、そういやヒマリさん、あれって……?」
「な、何、これのこと?!」
 紗絵の指摘に、ヒマリは思わず驚いてしまう。そういや、自分が「あれ」を持ってきたことをすっかり忘れていた。
「あ、そ、そろそろ晩ごはんの時間じゃない。下の方の調理室でちょいちょいと作ってみただけ」
「えっ、それじゃ……?」
「そう、ご飯と簡単なおかず。たいしたことじゃないけどね」
 そんなことを口にしながら、ヒマリは教室の中に入って、弁当箱をささっと開ける。そしたら、中の白いご飯と、チーズがとろけている卵焼きがまっすぐに目に入ってきた。
「あっ、この卵焼き、なんかとろけてますね」
「そ、あたしもそこまで料理上手じゃないけど、ちょっとだけ工夫してみたわ。いつもただの卵焼きじゃつまんないからね」
「す、すごいです。ヒマリさん!」
「い、いや、これただの卵焼きにチーズ入れただけ……」
 ここまで素直に褒められた経験が中々なかったため、ヒマリはすぐ視線を窓の方に逸らす。
 確かによく考えてみると、自分の手料理なんか、食べてくれる人は雪音くらいだった。あまり誰かと深い関係を持たないようにしたのが、今回はある意味、裏目に出たのかもしれない。

「すす、すごいです!」
 ついにヒマリの差し入れを口にした紗絵は、そう口にしながら目を輝かせる。
「こ、これがチーズ入り卵焼きというものなんですね!」
「いや、それはそうだけど、恥ずかしいからやめてくれない?」
「ヒマリちゃんって、こういう褒められ方に弱いんだよね」
「ぐぬぬぬ」
 幸せそうに卵焼きを頬張る紗絵から視線を逸らしつつ、ヒマリは激しく悔しい気持ちになった。
 はっきり言って、これだけは否定できないほど、雪音の言うとおりだった。基本的に、日笠ヒマリという人間は褒められるのに慣れていない。
「あ、そういやこの、卵焼きに入った色とりどりのものは……」
「あれ? あれはふりかけ」
 紗絵に指摘されたヒマリは、平然とした顔でそう答える。よく考えると、お嬢様でもある紗絵には少し新鮮に見えたかもしれない。
「ふりかけ、ですか?」
「まあ、野菜を切り刻んだほうが味は出るけど……めんどいからね。チーズとふりかけ、これだけでも手抜きなのになかなか豪華に見えるんでしょ?」
「たしかに、すごい……」
「ま、まあ、あなたならもっと豪華な卵焼きとかも食べられたのかもしれないけど――」
「そんなことないです。わたし、卵焼きにチーズも入れられるって、今日始めて知りました!」
「あ、そ、そう……」
 あっちの卵焼きって、そこまでプレーンだったのか。
 そんなことを思いながらも、ヒマリは晩ごはんに夢中な紗絵の顔をじっと見つめる。
 ……どうしてだろう。
 中の人は紗絵だというのに、自分と似たような歳の男が美味しいそうに手作り料理を食べてくれているのが、ものすごくこそばゆい。
「あら、ヒマリちゃん、やはり嬉しいのね」
「う、うっさい」
 やはり雪音って、あたしのこと、知り尽くしてるんだな。
 そんなことを思うと、ヒマリは余計に恥ずかしくなって、いたたまれない気持ちになる。

「でも、やはりリバーシって面白いんですよね。ヒマリさんが好きなこともわかります」
 まだまだ練習してみたいという態度で、紗絵がそう目を輝かせてきた。
「まあね、自分が負けてなかったら、というのが条件だけど」
「たしかに、ずっと負けてたら凹むかもしれませんね」
「凹むところか、悔しいんだよ、こっちは」
 ヒマリはそんなことを口にしながら、さっきまで紗絵が使っていた自分のゲーム機を手にする。そこには、今まであらゆる意味で頑張ってきた、ヒマリとゲームのAIとの対戦記録が残っていた。
「このAI、やばい難易度になると死ぬほど理不尽だからね。なんで途中までは完璧だったのに、あっけなく負けなければならないのよ」
「あ、そんなことはあるかもしれませんね。AIって強いんですから」
「まあ、負けるならせめて人間相手がいいよね。どんだけ理不尽な仕打ちをされても、人間同士ならまだ受け入れられるから」
「じゃ、コテンパンの件もそうなのかしら」
「そんなわけあるか! あんなの、屈辱に決まってるんでしょ」
 そう雪音にツッコミを入れながら、ヒマリはあの「コテンパン事件」のことを思い出す。
 ……あの時は本当、自分の目が信じられなかったな。
 やはりどうしても、ヒマリはあの時の屈辱だけはなんとかしたい、と思ってしまう。
「でもヒマリさんって、本当に勝負にこだわってる気がするんですよね。すごいです」
「まあ、負けず嫌いであるのは本当だし、あの時は本当に悔しかったから」
「あさってのわたし、ちゃんと真尋さんに勝てるんでしょうか」
「いや、さっきも言ったでしょ。勝たなかった方が困るって」
「あ、そうだ」
 まったく、これだからお嬢様は。
 どこか抜けているその態度を見ていると、なぜかヒマリは少し、ムッとする時があった。
「それに」
 そんな感情から目を背けるように、ヒマリは、ぽそっとそう口にする。
「……最後に残る記憶が、あいつにコテンパンに負けたヤツになってしまったら、すごく情けないじゃない」
「あれ? また勝負すればいいんじゃないですか」
「まあ、できるなら、ね」
 そう口にして、ヒマリはまた視線を逸らす。
 ……今日のヒマリは、こんなことばかりだった。

 こうして夜は更けていき、練習も進んでいって。
 ――ついに、決戦の朝が幕を上げた。