81.向き合った現実

 そして、あっという間に時間は過ぎ。
「そろそろか……」
 私はあの日「反軍」の方から指定された、近くの喫茶店に向かっていた。
 おかしいほど晴れ晴れな天気が、今の私の心とは見事に異なっていて、どこかいらいらする。

 もちろん、この件についてはすでに上層部に報告を済ませている。
「あいつら、いったいどういうつもりなんだ」
 私の報告を初めて耳にしたお父さんは、最初にそのようなことを口にした。私にもよくわからないくらいだから、ある意味自然な反応である。
 あまり広がっていないと思ったら、どうやら今朝にはそこそこ伝わったらしく、私をじっと見ている「組織」の人間を何人が見つけた。
 ……やはり、気になる。
 どうして、「反軍」は私に目をつけたんだろうか?
 もちろん、世界に目を向けるとこういう「組織」と「反軍」のやりとりは初めてじゃない。むしろ幾多もなく、様々なところで行われているものだ。だから、私が選ばれたのはともかくとして、「組織」と「反軍」が話し合う事自体は珍しくない。
 だが、ここで問題となるのは、どうして他の人ではなく、ただの作戦部長でしかない私なのか、というところだ。
 お父さんクラスの幹部ならともかくとして、ある意味見事な下っ端である私と話したって、あんまり成果は期待できない。「反軍」は本気でこの世の中を大きく変えてしまおうと思っている集まりだ。なのに、私と話し合うという非生産的な行為をして、いったい何の意味があるんだろう?
 ……わからない。わからないから、焦ってしまう。
 それでも行かねば。
 行って、どういうつもりなのか、確かめなくては――

 そんなことを思っていたら、急に端末が現れて、誰かが電話をかけてきたことを知らせる。
 ――秀樹からだ。
 こんな状況なのに、電話に出てもいいのかな。
 そう迷ったのは事実だが、気がつけば私は、いつもの手を振るジェスチャーでその電話に出ていた。やはり今の自分って、どこか心細いのかもしれない。
 そうしたらすぐ、秀樹の心配そうな声が耳に直接聞こえてきた。「元の姿」の低い声が、今はなぜか心地よく感じる。
「端末」が出てきてからはイヤフォンみたいな装置がなくてもすぐ声が自分に届くから、いろいろと楽である。もちろん耳に直接聞こえてくるとはいえ、周りには何も聞こえないから安心だ。
『どうしたんだ』
『えっと、柾木、「反軍」と会いに行くんだって?』
 いったい誰からその話を聞いたんあろう。私はわざと、何も話さなかったはずなのに。
 だが私はすぐ、落ちついて返事しようと決めた。他でもない秀樹に、あんまり心配はかけたくない。
 ……そもそも、今朝にはなんとなく「組織」の中の色んな人に伝わっていたようだし。
『別に心配しなくてもいい。ただの仕事なんだから』
『むぅ……』
 電話の向こうの秀樹は、なかなか納得してくれそうにない。
 でも、やがて秀樹は、いつものような明るい声で私に話しかけてきた。
『じゃ、今は柾木のこと、信じるよ』
 いつもと変わらない、優しい口調。
 その声に、私はどれくらい助かってきたんだろう。
『でも、苦しかったらいつでもちゃんと言うこと。わかった?』
『わかったって』
 やはり、秀樹は心配性だ。こっちが大丈夫だって言ってるのに、こうして私のこと、気遣ってくれる。
 でも、少しだけ嬉しい。
 絶対に弱いところ、秀樹には見せないと思うけど、それでも、心の中が暖かくなる。
 電話を切ってからも、その温もりは私の中にずっと残っていた。
「端末」での電話だったわけだから、周りには何も聞こえなかったはずだが、私はなぜか顔が赤くなることを感じて、すぐなんでもないフリをする。

 そんなことを思っていたら、私はついに「反軍」から指定されたカフェにやってきていた。
「ここか……」
 ようやく来てしまったか、という思いに足が重くなる。だが、これも今は、私じゃないとできないことだ。
 私は緊張をどうにか抑え込んでから、そのカフェに足を踏み入れた。
「……っ」
 瞬間、踏み出した足が少し震えた。
 今、自分がひどく緊張しているのが、あまりにもよくわかってしまう。
 しっかりしなきゃ。
 これでも私は、立派な社会人としての振る舞いを求められているわけだから。

「はあ……」
 ともかく私はあそこに足を踏み入れてから、周りをざっと眺める。中は普通のカフェで、あんまり他と変わったところはなかった。
 いや、たった一つだけ、変わったところがある。奥の方に、明らかに誰かを待っていると思われる人がいたんだ。
 そこには――
「……」
 私がいちばん苦手とするタイプの、自分より年上だと思われる女性が座っていた。
 スーツをびっしりと来ていて、綺麗にオシャレしている、ごくごく普通の女性。
 ……どうしよう、まだ何も話を交わしてないというのに、今すぐにでも逃げたくなってきた。自分と逆であるその存在は、あまりにも相克すぎて困ってしまう。
「あら、もう来たのね」
 あちらも私に気がついたのか、こっちを見ては目を輝かせる。どうやら、向こうは私の姿なんか把握済みだったようだ。
 その「反軍」の女の人は、私をじっと見てから、やがてこう話しかけてくる。
「さあ、どうぞ座ってくださいな。高坂柾木くん」
「……」
 どうしよう。すごくムカつく。
 私は「組織」しかまともな会社を知らないからこう思ってしまうだけかもしれないけど、どう考えてもこれ、ひどく舐められているような気がする。
「その呼び方は、こういう場でどうなんだ」
「ああ、そこが不満だったのね」
 相手はそう口にしてから、うんうんと一人で頷く。そして、こっちをじっと見てから、やがてこんなことを言ってきた。
「じゃ、どうぞ座って。高坂さん」
「……そうさせてもらう」
 やはり、これもどこか違う気がする。
 これは私が敏感に反応しているだけなんだろうか? それとも、公的な場ではやはり失礼に当てはまる呼び方なんだろうか?
 こういう時には、自分の経験のなさがただただ悔しい。
 ……そもそも、普通の学園生なら、こういうので絶対に悩まないと思うけど。

「そういや、自己紹介がまだだったわね」
 私が向こうに座ると、女性はこっちを見てそう話しかけた。
「私の名前は飯塚加奈(いいづか・かな)。『反軍』ではこういう、対外的なところをやっているわ。あなたは確か――」
「作戦部長だ。こうやって外に出る機会はそもそもない」
 出来る限り緊張しているという素振りを見せないように努力しづつ、私はそう答える。
「そうそう、そうだっけ。私も聞いたことがあるわ。どういう役目なのかはしっくりこないんだけど」
「別にこっちの事情だから、そっちとは関係ないだろ」
「そうかしら? ひょっとしたら、少しは関係があるかもしれないわよ?」
 ――いったいどこがなんだ。
 そうツッコミたい気持ちは山々だったが、今はぐっと我慢する。
 今日はそんなくだらない感情を披露するためここに来たわけじゃない。
「それよりも用件を早く話してくれ。いったいこちらを呼び出したのは何の理由だ?」
 だから、私は早く気になることを口にした。
 ここに来た時間を、無駄にはしたくなかったから。

「あらあら、せっかち屋さんね」
 飯塚と名乗った女は、非常に余裕のある態度でクスクスと笑った。暇そうに指先を弄る仕草などを見ても、今の私よりは遥かに落ちついているようである。
「まあ、ゆっくりと話しましょう。あなたも『組織』の人間だから、うちら『反軍』との関係はよく知ってるわよね?」
「ああ」
 こちらが頷くと、飯塚は話を続けた。
「私たちは、このまま旧時代に踏みとどまろうとしている『組織』の方とは違って、この世を大きく変えてしまおうと思っている。今までの世界じゃいられない。今までとは何もかも違う、新しい世界を作り上げるのが我々の目指すもの」
「……」
 それは、知っている。
 もちろん現場担当の頃、「組織」から教えられたのもあるが、自分から色んな所を調べて勉強していたことの方が大きい。お父さんからの命令で「組織」に「別の姿」で働くことになったものの、やっぱり私は、何も知らずに言われたまま動くだけじゃ嫌だった。
 だから、一人でどうにか調べることにした。どうして今、この世の中はこうなっているのか。私はこれからどういうスタンスを取ればいいのか。みたいなものを。
 暇さえあれば、ネットであらゆることを検索して、自分はどう思っているのか、どうしたいのかを考えた。ネットにある資料だけじゃ物足りなかったから、黒ロリばかり注いでいたお金を少し貯めて、様々な本を手に入れた。古くて分厚い本ばかりだったから置くところも大変だったし、そもそも私にはかなり難しかったけれど、それでも、家に戻れる日には頑張ってそれを何度も読んだ。
 もちろん、それは「組織」の下っ端幹部になった今でも変わらない。むしろこういう立場になってしまったから、もっともっと勉強したいと思った。未だに知識は足りないところだらけだが、それでも「言われたまま行動するだけ」とまでは言われないレベルになった、と思っている。
 ……おかげで私の部屋は、かわいいぬいぐるみに混ざった分厚い本でいっぱい埋まっているわけだけど。
「ひょっとして、俺をそっちに引きずり込むつもりなのか」
「あら、本当にあなたは気が早いのね」
 私がそう聞くと、飯塚はまたクスクスと笑う。やはりなんか悔しくなって、私は感情が顔に出ないよう、心を改めた。

「まあ、あなたみたいな有能な人がいてくれると心強いわ。私たち『反軍』は、国家とか性別・環境などにかかわらず、『今とはまったく別の世界にしたい』と思っている人間で出来ているところだからね」
 すでに語ったとおり、「組織」と「反軍」にはっきりとした実体があるわけではない。便宜上そういう名前がつけられただけで、実は各国の「組織」や「反軍」に賛同する集団や影響力の高い人で出来上がっている集まりに過ぎないんだ。
 たとえば、「反軍」の方は私もよくわかってないんだが、日本で「組織」というのは、主に政府や警察組織のことを示しており、私がいちおう警察の者であるのもそういう理由である。もちろん、他の国も似たようなものだ。つまり、それぞれの国家は「組織」や「反軍」、どちらに賛同していて、日本は「組織」の方を支持している。
 とは言え、国家という枠に収められない「組織」や「反軍」の集まりもあるので、これが絶対とは言えないが。
 ……だからこそ、「組織」と「反軍」は対立しているのにもかかわらず、正面衝突だけは避けるようにしている。どれくらい被害が大きくなるか、まったく読めないから。
 だからと言って、今のような生物兵器じみた「化け物」を遠隔で送ってくるという、危険極まりない戦争ごっこをやる必要はないと思うが。
「そこまで様々な人間が集まるなら、最終的な目標もバラけているんだろうし、いつか崩れてしまうのではないか?」
「あら、こっちのことを心配してくれるわけ?」
「……ただ気になっていただけだ」
 私の反応を見た飯塚は、ふふっと笑ってみせてからそう答えた。
「そりゃそうよ。共通されているのは、今の社会秩序をひっくり返したいというところだけ。でも、今はそれでいいとみんな思ってるわ。まずは変えなきゃ、何もできないからね」
「そこまで様々な事情があるのか。そっちもなかなか大変だな」
「あなたの方とは違って、やはり非既得権者の方が多い傾向にあるからね。まあ、あなたみたいに『敵』に同情してくれる『組織』の『幹部』って、なかなかいないから新鮮だわ」
 たしかに、それはそうだ。
 自分が言うのもなんだけど、「組織」の幹部なら、お父さんを含めてみんな、こんなことは絶対に口にしないんだろう。
 私がそんなことをぼんやり思っていたら、急に飯塚がこんなことを聞いてきた。
「ところで、これはあくまで気になるからなんだけど、その『作戦部長』って、具体的には何をやるの?」
 飯塚の問いに、私は悩む。これを話してしまってもいいんだろうか、と思ったからだ。
「……そっちから送られてくる面倒な『化け物』を始末するため、どうやったら効率が高くなるのか、被害は最小限で済むか、を悩む役職だ」
「たしかに、それならそもそもデータも最新のものばかりだし、あなたくらい若くても務めるかもね」
 こちらは皮肉で答えたつもりなのに、そっちにはあまり響かなかったらしい。っていうか、なんか自分にも皮肉が戻ってきた気がするけれど、これって気のせいなんだろうか?
「でも驚いた。『組織』って古いイメージがあったけど、あなたのような若い人が務められるくらい、常識破りの現場なのね。それも私たちのおかげなのかしら」
「……さすがに『おかげ』はないと思うが」
「すべては変わりゆくことだからね。あんたたち『組織』は何もかもがこのままでいてほしいと思っているようだけど。たぶん、私たち『反軍』がいなかったとしても、そのままではいられないわよ」
 それは、たしかにそうだった。
 偉い人たちの考えはきっと違うと思うけど、何もかもがこのままじゃいられない。
 ……それが「反軍」の過激な行動を支持する理由には、決してならないが。
「そちらは私たちを目の敵だと思っているらしいけど、それでも、私たちは今までのようにあの『化け物』を送り続けるわ。あなたには申し訳ないけどね」
「そうしなければならないくらい、そちらの望みは切羽詰まったものか?」
「ええ。別に戦争とかを起こすつもりはまったくないけれど――こうでもしなければ、あなたたち『組織』は私たちに真剣になれない」
 そう語る飯塚の顔は、気のせいか、どこか寂しく思えた。
「どれだけバカげた行為だとしても、その『化け物』が人類に危険を及ぼす危険があるとしても――私たちはそれをやめないわ。いつだって、すでに出来上がっている『常識』の方が遥かに頑固なんだから」
 私にはまだ、どっちの方がよりみんなのためになるのか、よくわからない。
 でも、飯塚の話を聞きながら、私はどうしても、「それしか方法はないのか」と思わずにはいられなかった。
 これは甘い考えなんだろうか。
 私はまだ若いから、そう思ってしまうだけなんだろうか。

「そう言えば、こっちも聞きたいことがあった」
 そう、私はここに、ただ話を聞くためだけに来たわけじゃない。
 ……秀樹のことだ。
 あっちから私がどう思われているのかは知らないが、何の関係もない秀樹まで巻き込んだのは、ちょっと許せない。
「ああ、そう言えばそうだったわね」
「そっちにとって、いったい俺はどう見られてるんだ? どれだけ興味があれば、一般人である橘まで巻き込まれる?」
「それがそこまで気になってた?」
「当たり前だろうが」
 つい声が高くなることを、私はなんとか抑える。感情が激しくなるのは仕方ないが、私は今、社会人としてふさわしい態度を取らなきゃいけないんだ。
「そう、メールでも話したけど、私たちはあなたに興味を持っているの。でも、あなたって社会的にはあまり知られてない存在だから、どういう人間なのかが非常に謎だった」
「だから、ひ ―橘を『別の姿』にしたと」
「そういうこと。彼と親しかったあなたには悪いけど、私たちは目的のため、手段を選ばないことにしているから」
 ……ちょっと、何かがおかしい。
 っていうか、あの時の秀樹と私って、そもそも親しかったっけ?
「何か誤解しているようだが、俺と橘は――」
「あら、少なくとも好感は持っていたはずでしょ? アレを見てきた人間からは、二人がだいぶ親しかったと言われているけど」
「どこのどいつだ、そんなこと言ったのは」
 頭が痛い。
 いや、今になっては見事に付き合っているし、ある意味間違ってはいないわけだが、それでもこれは――
「まあ、おかげであなたの動揺した様子はよく伝わってきたわ。あなたもやはり、作戦部長だなんだの肩書きの前に、ただの女の子だったのね」
「ちょっと――」
 そういや、さっきからずっと、私は妙に緊張していた。
 確かに「反軍」と話し合うことは緊張するものだが、それでも、やっぱり私は他の人と違うところがあったから。
 一つはもちろん歳のこと、そして、もう一つは――
「そう、今のあなたは、あの『機械』によって姿を変えられた、『別の姿』なんでしょう?」
 そこでその飯塚って女は、私をじっと眺めた。思わず自分の体が、微かに震えたことを感じる。
「可哀想ね。実はかなりかわいい女の子、だったと聞いてるけど」
「……それと今回の話に、いったい何の関係があるんだ?」
 私は、いらいらしていた。
 この飯塚という女が何を言いたいのか、まったく伝わってこないからだった。
「あら、ものすごく関係があるわよ。気づかなかった?」
「だから、どこがだ」
 ムカつく。
 出来る限り顔には出さないように気をつけているつもりだが、今の私は、かなり不機嫌だった。

 でも、さすがに私にもここまで聞いたら、向こうが何を求めているのか、段々見えてきた。
「ひょっとして、あなたは俺を、そちら、『反軍』にスカウトするつもりなのか?」
 少しだけ勇気を出して、私はようやくそれを口にする。
 かなり悩んでからの発言だったが、飯塚は余裕に満ちた笑顔を見せながら、すぐ頷いてきた。
「そう、私たちはあなたを、『反軍』に引きずりたいと思っている。でも、これはあなたにとっても、決して悪くない提案であるはず」
「……どうしてだ」
 胡散臭い。さっきからこの飯塚って女、あまりにも確信に満ちた口調だ。
 いったい何を思っていれば、ああいう言い方ができるんだろう。こっちにはまったくわけがわからないんだが――
 そんなことを思っていたら、飯塚は突然、本当にわけがわからないことを言い出した。
「もうあなたは嫌々しながら、あの『組織』で働かなくてもいいのよ」
 ……どういうこと?
 ここに来て、私はついにわけがわからなくなる。
 この人、いったい何を言っているわけ?
 ひょっとして私、自分が考えていたよりもずっとバカにされていた?
「あら、訳がわからないって顔をしているわね」
「当たり前だろ!」
 こっちがこうやって怒ってみせても、飯塚はこれっぽっちも動揺しない。あまりにも平然としているから、こっちが悔しくなるくらいだ。
「でも、こっちとしてはあなたの反応の方が意外なのよ。むしろすぐ頷いてくることすら期待したのに」
「それこそ、どうしてなんだ」
 まったく、この人の言いたいことがわからない。
 そんなことを思っていたら、飯塚は相変わらず確信に満ちた口調で、こんなことを言い出した。
「だって、あなたはずっとあの姿で、『組織』から利用されてきたんだから」

「……は?」
 私は思わず、素顔でそういう反応を返していた。
 意味がわからない。
 目の前の女は、いったい何を言っているのか――
「何が言いたいんだ」
「あなたはきっとそんな姿になんかなりたくないのに、あちらから強いられてそうなってたんでしょう?」
 だが、飯塚の話は止まらない。
「だって、自分のことを『女の子』だと思うのなら、そんな姿に喜ぶだなんて、ありえないんだから」
 私がぼうっと自分を見つめているにもかかわらず、飯塚は平然と話を続ける。
「当たり前ね。あんな姿に慣れて、『自分はあの姿のまま、ここで働いていても構わない』なんて、本当の女の子なら決して思わないんだろうし――」
「……」
「あんな姿、なっているだけで吐き気がしてくるんでしょ? 私にはよくわかるわ。女の子としてあんな姿になれるだなんて、はっきり言ってありえない。可哀想に、あなたは『組織』からずっと、利用されっぱなしだったわけね」
 今、私が淡々と話を聞いているのは、この人の話に同意しているから、ではない。どちらかというと、明らかに逆の方だ。
 ……呆れているんだ、私は。
 この人って、本当に私のどこがわかってるつもりなんだろう?
 いったい何をわかっているつもりで、私にこんなことを話しているのか、理解ができない。

「そっちがどういう眼差しで俺のことを見ているのかはわからないが」
 このまま黙っているのも苦しかったため、私はそろそろ口を開くことにした。こうでもしないと、この場を我慢できそうになかった、っていう理由もある。
「こっちのことなら、まったく心配してもらわなくても構わない。そもそも、それは俺の事情なのだから」
「あら、そうかしら?」
「……何が言いたい」
 落ちつけ、私。
 今の自分は社会人だ。感情を丸出しにするのは、社会人として相応しくない。
 何度も何度も、心の中でそう聞かせる。
 そうでもしないと、余計な感情を向こうに伝えてしまいそうな気がしたから。
「こう見えても、私はあなたのことを気遣っているのよ」
 それに、この飯塚って女、まったく諦めそうにない。はっきり言って、この人、非常に図々しかった。
 余計なお世話。
 心の中で、そういう言葉がすんなりと浮かんでくる。
「そもそも今だってそう。ああいう口調でしゃべるの、『別の姿』だからでしょう? きっと辛いと思うけど」
「別にこれは、俺が今の姿に似合う言い方を心がけているだけだ。なんでそこを勝手に心配されなければならない」
 確かに、私は「別の姿」になって間もない頃、このような口調をしゃべるのを嫌がった。でも、今はそうじゃない。少なくとも、やっぱりこの姿ならこの口調でいたい、と心から思っている。
 ……嫌いじゃなくなったから。男のことが。
 でも、やっぱり遠くから見るとこういう気持ちは、わかってもらえないのかな。

「だけど、どう考えてもそうじゃない」
 人がここまで嫌な素振りを見せているというのに、この飯塚って人間は微動もしない。
「たとえば、今のあなたは性的に困るところも多いと思うけれど、それがいい方向に転じたことなんて一度もなかったんでしょ? あんな姿になったとしても、女の子が大きな胸などに反応して興奮するのは辛いだけだし」
「……それは今、この場で話すべきことなのか?」
「その口調や姿だってそう。 やはり女の子なら、職場だって綺麗な姿でいたいんじゃない。あの姿ならそれも無理に決まっている。化粧とかオシャレとか、女の子ならやりたいに決まってるんじゃない? 」
「その決めつけはどうなんだ。そもそも、それは俺の事情――」
「もちろん、これだけじゃないわ。もしあなたが子供の頃、男の子にいじめられたりしてたらああいう姿は最悪ね。あんなやつらと自分が同類だって、考えるだけで吐き気がしてくるんでしょ? 私ならあんなやつ、一生恨んでるんでしょうね。自分と同じ人間だと思うだけで、本当に吐けそう」
「だから――」
「あなたとその姿って、何の関連性もないし、あったほうがおかしい。むしろ恥じゃないかしら。女の子なのに、あんな姿に少しでも親近感を抱くというのは」
「……」
「そういや、あなたの名前もああだったわね。やはり辛くないかしら? 姿すらこうなのに、ああいう名前を名乗らなければならないとか――」

「これにて失礼する」
 こんなバカげた話なんかもう聞いてられなくて、私はそのまま、勢いよく椅子から立ち上がった。
 もちろん、まったく大人しい行為ではない。
 それはわかっているつもりだが、やはり、今はどうしても我慢できなかった。
「あら、もう帰るの?」
「こんな扱いなんかされて、耐えられるわけがないだろうが!」
 今の私は、本気で怒っていた。
 いや、怒らなければ、自分というものが今すぐにでも消えてしまいそうだと感じていた。
「もうそちらとする話なんかない。このまま帰らせてくれ」
「へ~、意外ね。あなた、その歳からするとびっくりするほど落ちついてると聞いたけど」
「何事にも例外はある。今回の件がそうだ」
 もう、あの飯塚という女とは顔も合わせたくない。
 ここまで自分という存在を、思いっきり否定されるとは思いもしなかった。
 ……自分の大切な名前まで、ないがしろにされて。
 ものすごく恥ずかしい名前のような言い方なんかされて、黙ってはいられない。

「誤解しないでほしいけど、私はあなたのために――」
「そりゃ誰でもそう言う。それを余計なお世話、と言うんだ。あなたが悪い人ではないと思うが、もうこちらは我慢できない」
「でも、あなたのような境遇なら、辛い思いをするのが当たり前でしょ?」
「他人のくせにそう言い切るな。それはこちらの勝手だ。……じゃ」
 もうこんなところ、早く出てしまいたい。
 こんな無駄な時間、過ごすんじゃなかった。
 自分が目をつけられた理由って、ここまでちっぽげで、つまらないものだったのか。
 悔しい。
 今までこんなに悔しいと思ったことは、たった一度もなかった。

 最後に、あのカフェから背を向けた瞬間――
「……っ」
 私は思わず、そううめいていた。
 悲惨な気持ち。
 別に悪口を言われたわけじゃない。それはわかっている。
 なのに、どうして。
 今、自分の心はこんなにも苦しんだろう?

 どうにかその、言葉にはできない気持ちを抑え込んで――
 私は報告のため、いつもの見慣れた「組織」への道を急いだ。