72.今夜は月が綺麗だから

「おお、柾木んちに来るの、久々!」
「……そこまで嬉しいのか、まったく」
 ようやく心身とも余裕ができて、私は久しぶりに、秀樹を連れて家に戻ってきた。
 やはり家の中は落ちつくな。当たり前だけど。
 最近はずっと会社……「組織」にいてばかりだったから、久々に味わう家の空気がなぜか愛しく思える。
「でも、ここに来ると柾木のだらけた顔が見られるから、それが嬉しくて」
「いや、だらけないからな」
「本当に? 約束できる?」
「……たぶん」
 ダメだ。いつものように、どんどん秀樹のペースに巻き込まれている。
 せっかく家に戻ったわけだし、今日は気をつけておかないと。
 ……休むために家に戻ったというのに、なんでこうなってるんだろう、私。

「それはともかく、せっかくうちに来たもんだし、何かやりたいものでもあるか?」
 なんか照れくさそうになったこともあって、私はできる限り自然に、話題を変えた。
 それを聞いた秀樹はしばらくうーんと考えてから、やがてこっちを見て口を開く。
「じゃ、柾木に甘い物、作ってもらおうかな」
「どんなものが欲しいんだ?」
「んとね、カップケーキとドーナッツと、あとエクレアとフロヨと……」
「……どこかでよく聞いたお菓子たちだな、それって」
 まるで一昔前に流行っていた、スマホのOSのバージョン名のような名前を口にする秀樹を見ながら、私はどこかモヤモヤした気持ちになった。
「あ、そだ、あのキット勝つ奴も~」
「……ブランド品は直接買ったほうが早いと思うが」
「じゃ、残りのやつは頼めるかな?」
 まあ、他のやつならたぶんできると思うけど。
 なんか負けたような気分になりつつ、私は静かに頷いた。

「ふむ、やっぱり美味い!」
 こっちがキッチンに籠もりきってからどれくらい経ったんだろう。
 言われたお菓子とさまざまなパンやらを持って行ったら、秀樹は大いに喜んだ。すでに趣味で作っておいたものも割とあったから、なんとか夕飯の前には間に合わせることができてほっとする。
「俺、甘いのはそこまで好きじゃないはずだけど……柾木のは美味いな。毎日食べたい」
「大げさだ」
「でも、美味いんだもん」
「そ、その話はありがたくいただくが……」
 恥ずかしい。
 上出来であるはずなのに、そんな話を聞くと思わず照れてしまう。こんな姿だというのに。
「柾木って、パン屋とか、デザート屋とかやっても上手くいくんじゃないか? こんなに美味いし」
「か、買いかぶりすぎだと思うが」
「でも、美味いよ?」
「……ありがとう」
 実は、子供の頃の夢の一つが、そういうパン屋さんだった。
 やっぱり甘い物とか大好きだから、ああいうのができたら幸せなんだろう、と思っていた。
 でも、たぶんその夢はもう叶えない。
 きっと私はこのまま「組織」の幹部に居続けるんだろうから。

 まあ、確かに「絶対」にそうなるとは言い切れない。
 そもそも、「組織」の「現場担当」は、基本的に引退すると警察の者になるのがほとんどだ。ついでに、お姉ちゃんのように一般人になるケースもある。
 でも、私はもう「作戦部長」という肩書をもらってしまったから。
 このままノコノコと引退することは、たぶん叶わないんだ。

「あれ? 柾木、まだ考えこんでるの?」
 そんなことをじっと思っていたら、また秀樹に気づかれてしまった。秀樹はジンジャーブレッドを口にしたまま、こっちをじっと見つめている。
 せっかくいっしょにいるというのに、私ったら、変なこと考え過ぎ。
「別に、なんでもない」
「ほんとに?」
「……ほんとに」
 そう答えながら、私は知らないうちに視線を逸らしていた。
 だ、ダメじゃない。これじゃさっきのこと、「なんでもなくない」って認めたのと同じだ。わかりやすすぎる。
「ふーん、まあ、それはともかくとして」
「なんだそりゃ」
「もし、柾木が『組織』のことで、ああいうパン屋さんとかできなかったら、俺がやってもいいかな?」
「……あ?!」
 こ、今度はいきなり何の話なんだろう?
 いつも予想外のことばかりしてくれる秀樹だけど、さすがにこれは、ちょっと考えられなかった。
「ど、どういう意味なんだ、それは……」
「もしね、いつか柾木と俺が結婚することになると、俺が柾木のレシピの通りにパン屋とかやりたいなーって話」
「いや、だから――」
 私がそう戸惑っていると、秀樹は優しい眼差しで、こう言いながら微笑んでみせた。
「だってこんなに美味いもの、もっとたくさんの人に広めたいじゃん」
「……っ」
 別に秀樹と結婚……とかはともかくとして、その気持ちが、とても私の心の中で響く。
 誰かにこんなこと言われるって、考えたこともなかった。
 嬉しい。きっと、これだけじゃ自分の心は伝わらないけど。
「そ、そんなこと今から考えてどうする」
「柾木、目をそらしてからそんなこと言ってもバレバレだよ?」
「べ、別に自分はなんでも……」
 やはり、秀樹には敵わないな。
 先のことなんて今考えても意味はないと思うけど、その心遣いは素直に嬉しい。
 ……こんなこと、口にはできないけど。
 恥ずかしいから、やっぱり私はまた視線を逸らしてしまう。

 そうやって夕飯の時間が終わってから、私たちは自分の部屋にやってきた。
「あー食った食った。もういいよね?」
「何がだ?」
「こうやって甘えることが、だよ」
 そう言ってから、秀樹はいきなりこっちに抱きついてくる。甘えてくること自体は予想したけど、ここまで急だとは思わなかった。
「ちょ、ちょっと、恥ずかし――」
「いいよ。二人きりだし」
「それはそうだが、これは急すぎるんだろ」
「え、嫌だった?」
「まったくそうじゃないけど、その……」
 つまり、照れくさい。こそばゆい。
 まあ、秀樹といっしょにいるといつもそうだけど……嬉しいけど、恥ずかしいのは恥ずかしいんだ。
「じゃ、このまま甘えていいよね?」
「……勝手にしろ」
「やった~」
 私から許可を取ったのがそこまで嬉しいのか、秀樹はもうこっちの胸元にスリスリしてきた。あまりにも子供っぽくって、他の人に見られたら死んでしまいそう。
 ……っていうか、秀樹は私にここまで甘えて、恥ずかしくはないんだろうか。
「さあさあ、いっぱい可愛がっていいよ。どうぞ」
「……お前、そこまでストレートに甘えてくるとその、恥ずかしくないのか?」
 もう自分の膝の上でごろんと転がってしまった秀樹を見下ろしながら、私はため息をつく。
 ――あんたは犬かなんなの?
 とツッコミたいところだったが、さすがにこの姿じゃ滑稽だから、そこまではできなかった。
「へ?」
 だが、当事者である秀樹は「どういうこと?」って顔でこっちを見上げている。
「ううん? まったく。むしろ素直に甘えられるから気持ちいいけど」
「今は『別の姿』なのに?」
「別にいいじゃん。甘えたいんだし」
「……そうか」
 やはり、自分にはよくわからない。私はあそこまで、素直にはなれないから。
 ……ひょっとして、自分の方が間違ってたんだろうか。
 あまりにも無邪気な秀樹のことを見ながら、私は思わずそう悩んでしまった。

「ごめん、ちょっと連絡が入った。少し話してくる」
 その時、急に「組織」から連絡が入ってきて、私はしばらく部屋から出ることにした。
 ……まあ、連絡が急だっただけど、なんか起きたわけじゃないのですぐ戻れるけど。
「ほんと? すぐ戻ってこれる?」
「そもそも、ちょっと庭に出てくるくらいだから大丈夫って言ったんだろ」
「でも~……」
 とか言いながらやさぐれている秀樹を後にして、私は外で「組織」と連絡を取る。終わらせてみると、考えていたことより、少し時間が過ぎていた。
 やっぱり秀樹って、私のこと、待っててくれてるかな。
 そんなことを思いながら部屋のドアを開けると、いきなり中にいた秀樹がこっちに向かって走ってくる。
「柾木~~! 寂しかったよ!」
「い、いや、だから……」
 こっちが戸惑っているというのに、秀樹はそんなことなんてお構いなしって感じで私に抱きついてくる。それまでならまだよかったけど、今度はこっちの胸板に顔を埋めて、くんくんと匂いを嗅ぎ始めた。
 さ、さっきはまたスリスリくらいだったのに、なんでここまで状況がひどくなってるんだろう……?
「な、な、なにやってるんだ」
「だって、会いたかったし」
「そこまで離れてたわけでもないだろ。ちょ、ちょっと――」
「えへへ」
 ダメだ。このままじゃ秀樹が立派な変態さんになってしまう。
 さすがに自分の彼氏が変態一直線に行ってしまうのは、ちょっと我慢できなかった。
「ちょっとどいてくれ」
「へ? またどこ行くの?」
 秀樹は首を傾げていたが、私はそんなことなんて気にもせず、まっすぐ「機械」のある部屋まで走ってゆく。考えてみると、せっかく家にいたものだし、別に「元の姿」に戻っていても問題はなかったわけだが……。
 まあ、ともかく元に戻った私は、すぐ秀樹のいる部屋へと戻った。
「あ、あんたは私を照れ殺すつもりなの?!」
「え、そこまで走るくらいだった?」
 こっちがそう叫びながらドアを開けると、秀樹はそうすっとぼけた。く、悔しい。これも全部秀樹のせいだというのに。
「だって、野郎がこんなことで照れてたら恥ずかしいんじゃない。いや、さっき匂いとか嗅がれたのもそうだったけど……」
「でも俺、柾木なら別にいいよ?」
「へ?」
 秀樹の話に、私は思わず目が丸くなってしまった。だが、秀樹の方はいつものような平然な態度である。
「だって、元の方もかわいいしね。ほれっ」
「わ、わわっ?」
 そこまで言ってから、秀樹は思いっきりこっちに抱きつく。今は「別の姿」だとはいえ秀樹の方がやや大きいから、なぜかものすごく、照れくさい気持ちになってしまった。
「は、恥ずかしいからやめてって言ったんじゃない」
「そんなことは知りません」
「だ、だから~」
 結局私は部屋のドアが開きっぱなしになったまま、秀樹にそうやっていじられるしかなかった。いったん、その間お姉ちゃんが廊下を通り過ぎて行ったけど、「みんな、ほどほどにね」と言いながら微笑むだけだった。
 お、お姉ちゃん、ひどい。
 いや、別に私も嫌じゃないけど。その、恋人同士だし。

「さあ、それじゃ柾木といっぱいいちゃいちゃしようか」
 さっきの出来事で調子に乗った秀樹は、わざわざ自分の家まで行って「元の姿」に戻ってからこっちに再びやってきた。ここまで来るとある意味バカバカしいけど、まあ、嫌な気分ではない。
 それより大変なことは、秀樹が「元の姿」で私に思いっきり甘えてるということだ。恥じらいなんて知らないのか、秀樹には何の遠慮も感じられない。
 別に、嫌な気分じゃないのは事実だけど……。今の秀樹って、「元の姿」の私にとっては大型犬みたいなものだから、どんだけ甘えてるってわかっていても、少々怖いんだ。
「だって、今日は気分がいいからな」
「その通りなら、あんたはいつも気分がいいんじゃない」
「今夜は月が綺麗だから、仕方ないだろ」
「それ、理由になってない。そもそもまだ月なんて昇ってないし」
「あ、そういや今日は空気もおいしい気がする。こりゃ柾木に甘えるしかないね。うんうん」
「まったく、もう……」
 何が何でもこっちに甘えたいって秀樹の態度を見ていると、私だって呆れてしまう。でも、やっぱり嫌いにはなれない。そこまで変な理由をこじつけてまで、私に甘えたいってことなんだから。
 そんなことを思っていたら、秀樹はまた、私に思いっきり抱きついてきた。なぜか、その顔はとてもニヤニヤしている。
「そういやちょっと面白いな。ここまで何もかもが柔らかい女の子なのに、あんなゴツい男にもなれるだなんて」
「わ、私がそうなれて、な、何か悪かった?!」
 秀樹が意地悪なことを喋ったため、私はついつっけんどんな態度をとってしまう。でも、秀樹の顔はいつの間にか真面目になっていた。
「時々ね、信じられないんだよ。柾木ってものすごく女の子してるじゃん」
「ま、そ、そうだけど……」
「でもね、どっちも好きなんだ。元の方だって、別の方だって。ほんとにね」
 そんなことを口にしながら、秀樹は私の体を強く、強く抱きしめる。さすがにそんなことを聞かれと、こっちも思わず動揺してしまいそうだった。
 秀樹って、自分のこと、ありのままで受け入れてくれてるんだ。
 それ自体はたまらなく嬉しいけど、やっぱり少し恥ずかしい。
 自分が誰かと付き合えるだなんて、考えたこともないのに……。その相手が秀樹だとは、本当に予想すらできなかった。
 正直、未だにあんまり信じられない。
 ものすごく、嬉しいけど。

「スヤスヤ」
 次の日。私はいつものように、自分のベッドから目覚める。
 私の横では、まるでそこにいるのが当たり前のように、秀樹が深い眠りについている。もう朝だというのに、いつもながら呑気なやつだ。
 ……昨日の夜、私は秀樹と、またえっちなことをやったのだった。
 それを思い出すと、急に恥ずかしくなってしまって困る。
 こいつ……秀樹とこういう関係になったなんて、昔の自分が聞くと卒倒しそうだ。

 ところで、こっちもそろそろ、「別の姿」で出勤……っていうか、「組織」に行かないといけない。
『ちょっとだけ面白いな。ここまで柔らかい女の子が、あんなごつい男にもなれるだなんて』
 昨夜に秀樹が、あんなこと言ってたっけ。
 自分が柔らかいのかどうなのかはともかくとして、それは本当のことである。
 それを聞いて複雑な気持ちにならなかったと言うと、まるっきり嘘になってしまうんだろう。
 どれだけ覚悟の上だとしても、そのことを照れくさく感じてしまうのは仕方ない。

 でも、やはりそれは「仕方のない」ことだから。
 私は秀樹を起こさないように気をつけながら、部屋を後にした。
 いつもなら「別の姿」になるため部屋に入ることなんてなんでもないはずだけど、今日はなぜか、秀樹にバレるのが怖い。
 だって、昨夜は「あんな」ことがあったんだ。
 あんまり朝から、「別の姿」を秀樹に見せたくない。こっちのワガママではあるけど。

 だから秀樹には何も話さずに、静かに「別の姿」になって、部屋で必要なものを取りに入ったら、急にこんな寝ぼけた声が聞こえてきた。
「あれ、もー行くんだ?」
 なんか、こんな姿で答えるのも変だと思って、静かに頷いて部屋を後にした。今の私たち、やっぱり同性同士だから。
 ……そのはずだったのに。
 後ろのベッドの方から、また、元気な声が聞こえてくる。
「んじゃ、いってらっしゃ~い!」
 今の秀樹は「元の姿」だというのに、その声はどこかかわいくて、おかしく思えた。
 きっと、秀樹は今の私の心を察している。
 だから、こうやってベッドの中からは出ずに、私に挨拶してくれたんだろう。
 ――嬉しいな。
 そこまで考えると、なぜかすごく、ほっこりした気持ちになった。
 やはりこんな彼氏は私に出来過ぎだと思うけど、それでも嬉しいものは嬉しい。
 自分って、ここまで幸せでもいいのかな。
 それが不安になって、思わず心が少しだけ暗くなる。

 でも、今だけはこうやって喜んでおきたい。
 今の私は間違いなく、すごく愛されてるんだから。