「な、なんですか。いきなり呼び出して」
美由美と出かけてから少し時間がたったある日。
私は珍しく、以前の番号を利用して美智琉をあの喫茶店まで呼び出していた。
もちろん、理由もなく呼び出したわけじゃない。こっちはちゃんと、美智琉に用件があったんだ。
「さあ、受け取ってくれ」
「な、なんです?!」
私が懐の中で「それ」を出すと、美智琉はわけがわからないって顔をした。まあ、そうだろうな。説明もあんまりしてなかったし。
「別に、大したことじゃないが……美由美の兄弟たちのことを考えて、家で少し焼いてみた」
「え、な、何を?」
「お菓子だ」
「……はあ?」
そう目を丸くして言い返しながらも、美智琉は私の手から、あの袋を受け取った。なんだかんだ言って、人の話はちゃんと聞く性格らしい。
「えーと、つまり、これは高坂さんが焼いたお菓子だと……」
「パンも焼いてるけどな。一応こっちは、真心を込めてちゃんと焼いたつもりだ」
「だ、だから、ちょっと理解が……」
「どうしてできない」
私は思わず、ため息をついてしまう。
つまり、この美智琉というお嬢ちゃんは、私が「お菓子を焼ける」ということが、とうてい信じられないらしい。
まあ、こんな印象の男子が「お菓子を焼いてきた」なんか言ってきたら、否定したくなるのはわかるけど……ちょっと悔しいな。
「だ、騙してるわけじゃないですね?」
「だから、どうしてだ」
「でも、こんなのありえないし……」
「頼むから、人の人生をまるごと否定しないでくれ」
……私、ここまで否定されるようなこと、してたのかな。
なぜかものすごく、自分に対しての懐疑心が湧いてきたんだけど。
「ま、まあ、一つくらい、ここで口にしてもいいんですよね?」
「はいはい、どうぞ」
こっちが頷くと、美智琉は袋の中からクッキーの一つを取り出して、ゆっくりと口にする。そういや、美智琉に自分の焼いたお菓子を食べてもらうのは今度が初めてだった。
「はむはむ、ふむ……」
「どうだ?」
「……悔しい」
そんなことをつぶやいて、美智琉はこっちから視線を逸らす。まあ、美智琉の性格から考えると、それで答えは出たものと同じだろう。
「な、なんで高坂さんはお菓子作りがうまいんですか」
「こっちこそ、なんでお前にそんなことを責められなきゃいけないんだ」
思いっきり頬を膨らめせている美智琉と、ため息をつく私。
これ、遠くから見るといったいどういう風景になってるんだろう。
「甘い……サクサクだし、ともかく美味い……」
「よかったんじゃないか。こっちも一安心だ」
「超悔しい……」
「だから、なんでだ」
そんなことをぶつぶつ言いながらも、美智琉はクッキーから手を離さない。気がつけば、もう三個目のクッキーを口にしていた。
……まるで餌付けだな。
見ているこっちが複雑な気持ちになっていた時、美智琉がこっちを見ながら話しかけてきた。
「卑怯ですね、高坂さんって。姉さんのために、こっちをお菓子で口止めに来るとは……」
「誰がそんなこと言った」
「こ、こんなことされたって、姉さんとのことは認めないんですからね!」
「はいはい、勝手にどうぞ」
美智琉って、見れば見るほど自分とよく似てるな。負けず嫌いなところとか、素直になれないところとか。
時折、変にこっちの方が照れくさかったりする。
……自分って、他人から見るとこんな感じだったりはしないよね。たぶん。
「それはそれとして」
もういくつになるのかわからないくらい、たくさんのクッキーを口にした美智琉が、こっちをジト目でじっと見ていた。
「なんだ」
「あなた、それはいくらなんでも……その……すごすぎません?」
「だから、なんだ?」
「あ、あの特大ジャンボパフェのことですっ!!」
そんなことを叫びながら、美智琉は私の食べていたそのジャンボパフェを指差しする。
……あ、そういや、私も口が寂しくなったから、ついでに注文したっけ。
まあ、ここの「特大」ジャンボパフェはとてもおいしいから、せっかくの機会だし、どのみち注文するつもりではあったけど。
「このパフェのどこがおかしいんだ。お前も以前、食べてたんだろ」
「いやその、あたしが言いたいのはそんなもんじゃなくて――」
そう声を高めながら、美智琉は私のジャンボパフェをじっと睨む。
「そ、その、他の人の視線とか、その、気になりません?」
「別に俺が食べてるのに、他人の視線とか気にする理由がないだろ」
「そ、それでも、以前にも考えてたけど、高坂さんってけっこう甘党……」
「今になって気づいたのか」
「開き直ってるし!」
美智琉の声を片耳で流しながら、私はまたスプーンを手にした。
……あ、今考えると、以前美智琉と食べてたのは「普通」のジャンボパフェだったんだ。
美智琉もずいぶん甘い物が好きなんだな。つまり、以前には特大の方を注文したわけじゃなかったから、グレてるんだ。
「わかった、今日は美智琉にも特大のやつを奢るから」
「べ、別に、お菓子食べたから、お腹いっぱいですし……」
「じゃ、何が不満なんだ」
「別に不満とかないです。ただ、その、あのですね」
「あ?」
「男があそこまでお菓子好きとか、自分でここまで立派なもの作るとか、びっくりしまして」
「お前、世界に名の知れたパティシエの中、どれくらいが男であるのか、知ってるのか?」
「あ、あたしも知ってますよ。こんな感想、古いんですよね。でもその、相手が高坂さんになると……」
やっぱり驚いてしまう、ってことか。
まあ、よく考えてみると、そもそもあのお菓子を作った私だって、実は女の子であるわけだし。
……美智琉にこんなこと言うと、絶対に「正気ですか?」って顔をされるんだろうけど。
「っていうか、お前、さっきのお菓子――」
私が、自分の目に入った空っぽの袋を指差すと、美智琉の顔が急に赤くなった。どうやら、本人も自覚があったらしい。
「ええ、全部平らげてしまいました。ほ、本意ではないですけどね」
「まあ、作った側としては嬉しいな」
「むう~……」
美智琉はものすごく、悔しそうな顔をしてくれた。
なぜかその顔を見ていると嬉しくなって、次にもなんか作ってこようか、と思ってしまう。
今度は思い切って、マカロンでも作ってみようか。
……美智琉がこれを知ったら、ずいぶんすごい顔をしてくれるんだろうけど、それはわざと気にしない。
「そ、それはともかく、用事ってこれが全部ですか?」
目の前で頬を膨らませている美智琉を見ながら、私は少し考えた後、口を開いた。
……あまり意味がないかもしれないけど、誰かに話してみたかったんだ。
このままだと、私はずっと、前に進めなくなってしまうから。
「ああ、元々はそのつもりだったんだが……少し、話に付き合ってくれないか?」
「ま、まあ、あたしもせっかくここまで来たわけですし、話くらいならいくらでも聞きますよ」
やはり美智琉って、いい子だな。
たぶん、これから私が話すこと、姉である美由美の話だって、気づいているんだと思う。
「いや、以前、美由美と再び出かけたんだが――」
私はゆっくりと、今思っていることを言い出した。
美由美は自分のことが好きになれないらしい、ってこと。
自分がここまで大切にされてもいい存在なのか、悩んでいるということ。
だから近づくことも、自分をさらけ出すことも怖がる、っていうこと。
もちろん、姉妹とはいえ美由美との会話を他人にバラすのは慎重になったことがいいと思うけど……。このような行動には、理由があった。
「まあ、姉さんならそう思い込んでそうですね……って、まだ話が残ってたんですか?」
「ああ、今度は俺の話だ」
「え?」
ここに来て、美智琉は目を丸くした。ここで私の話が出てくるとは、考えてもなかったらしい。
美由美の話から始めるのは少し悩んだが、こんなことを前もって話しておかないとひどく突飛な話になる恐れがあったから、思い切ってこう話してみた。
いちおう、美智琉も「美由美の話」にはあまり驚かなかったし。きっとそれは、美智琉にとって想定済みだったんだろう。
……こんなやり方でしか自分の求める方へと話題を運べないのが、少し悔しい。
「こ、高坂さんと今の話に何の関係が……」
「むしろ大アリだ。俺だって、似たようなことは思ってたわけだからな」
「ええ?!」
あれ、これ、ここまで驚くべきところなのかな?
美智琉にとって私って、いったいどんなイメージだったんだろう。
「ま、まさか、ご自分のことだっていうつもりは――」
「ズバリそれだが」
「で、でも、高坂さんが自分のこと嫌ったり、姉さんと近づくの怖がったりするわけがないですし」
「ずいぶん高く見られてるんだな、俺って」
他でもない美智琉に評価されるのは、かなり嬉しい。
でも、これから話すのは、私自身のありのままの気持ちだったりした。
「そもそも、ここにいる自分は普通じゃない。だから、美由美に気安く近づいてもいいのかどうか、怖くなる時があるんだ」
「……普通じゃない?」
「ああ」
そう、私は普通じゃない。
こんなことを言い出すと自意識過剰のように聞こえるけど、「別の姿」なんてことを持っている人間なんて、「普通」とは言えないんだろう。
「それで?」
「自分と近い関係になると、美由美にも何が起こるかわからない。変に悪影響を与えるのが怖いっていうわけだ。自分でも情けないとは思うが」
「へ?」
ここに来て、美智琉はわけがわからないという、かなり間抜けな顔をしていた。
自分の話、そこまでおかしかったのかな。
「えっと、話が少し変になってる気がしますが」
「そうか?」
「はい、どうして高坂さんは、そう思ってるんです?」
「……あ?」
ここに来て、私は何かがおかしい、と感じた。
なんて言えばいいのかな、自分が想定していた流れと違う。自分が考えていたより反応があっさりしているっていうか、なんていうか……。
「この話、美智琉はおかしいと思うか?」
「おかしいっていうより、自分にはよくわからないんですよね」
未だに不思議な顔をしたままで、美智琉はそう答える。
「そもそもあたし、高坂さんが『普通じゃない』って言ってるところがよくわかりません」
「まあ、わかりづらいんだろうな」
たしかに、それはおかしな話じゃない。
そもそも、今の自分がどうやって、自分が「普通じゃない」と証明できるんだろう?
「別の姿」なんか、家に戻って機械でも使わなきゃ証明しようがない。っていうか、そう軽々しく美智琉に明かせるものでもない。
――何より、たぶん美智琉のことだから、証を見せたってすんなりには信じてくれないんだろう。
「むぅ、この人、自分一人で納得してる……まあ、今、目の前にあるものを考えると、めちゃくちゃ『普通』とは言えないかもしれないですね」
そんなことを口にしながら、美智琉は私の前に置かれた食べかけのパフェに視線を落とす。
「そっちか」
「でも、どのみちわかんないことは同じです」
ここで、美智琉は再び私の目をじっと見つめた。
いつもの美智琉らしくない、大人びたというか、真剣な眼差し。
……今、美智琉は本気で私と話し合うつもりなんだ。
「つまり、高坂さんの話は、自分は普通じゃないから、誰かに接するのが怖い、ですよね?」
「……ああ」
「ほら、やっぱりおかしい」
私の話を聞くと、美智琉は大きく頷く。それは私にとって、かなり想定外の反応だった。
「仮に高坂さんが普通じゃなかったとしても、なんでそれのために、姉さんと近づくのをやめてしまうんですか?」
「いや、その、あるだろ。自分にその資格はあるのか、とか――」
「あのですね、高坂さん」
ここで、美智琉の声のトーンが変わった。
どこか呆れているような、苛ついたような、よくわからない感じである。
「誰かと近づくことに、どうして『資格』が必要なんですか?」
「だが、しかし……」
「そんな言葉はいりません。あなたが普通か普通じゃないかなんてどうでもいい。でも、そんなつまんない理由で、好きな人といっしょにいられないなら、それってものすごくムカつきません?」
ここで、私は気づく。
美智琉って、今、誰よりも私のことを考えてくれている。
自分ならそんなこと受け入れられない。今、美智琉はこっちに向けてそう言ってるんだ。
「そんなことは向こうで決めるものでしょ。自分から決めるだなんて、傲慢そのものです。もっとも、姉さんならまったく気にしないと思うんですけどね」
「美智琉」
「つまりですね、高坂さんにはせめて、そんな変なことを思い込まないでほしいんです。別に戸惑うことくらいなら問題ないと思います。でも、初めから諦めるのは悔しくありませんか?」
……今の美智琉、私なんかより、もっと輝いている。
たぶん美智琉自身は、それに気づいてないと思うけど。
勇気も何も持てなかった自分より、よっぽど立派で、素敵だった。
こんなことをまっすぐ言ってくれる子なんて、世の中にどれくらいいるんだろう。
それも自分と直接関係のない、ある意味、赤の他人に。
「すごいな、美智琉って」
気がつけば、私は素直に美智琉にそう伝えていた。
「え、えっ?!」
今度は、美智琉の方が大きく動揺する。
まさか、こっちから褒められるとは思ってもいなかったという態度だった。
「な、何言ってるんですか。あたしはただ――」
「だが、美智琉としては俺のこと、真面目に考えてそう言ってくれたんだろ?」
「わ、わ、わわっ……」
でも、ここまでいい反応を見せてくれるとは思わなかったな。
自分もずいぶん素直じゃないほうだけど、美智琉もそれに負けず劣らず、って感じだった。
まあ、こんなことを考えてもあんまり意味はないけど……。
「今日は、こっちの話に真剣に付き合ってくれてあいがとう。とても嬉しかった」
「だ、だから、褒め殺しとか、そういうのは無駄だって――」
「今まで俺は、美智琉のことを甘く思っていたらしいな。今度のことでとても勉強になった」
「う、ううぅ……」
美智琉の顔は、おかしいほどに赤くなっている。俯いてはいるけど、こっちからすればバレバレだ。
……優しいな、美智琉は。
きっと本人は否定するんだろうけど――それでも、いつもと違ってこんなことが口にできるくらい、美智琉はとてもいい子だ。
「それじゃ、時間も長くなってしまったし、こっちも忙しいから今日はこれくらいで……」
「え、えっと、その」
私がそこを去ろうとしたら、美智琉が戸惑った顔で、こっちを呼び止めた。
「なんだ?」
「あ、あのですね、これはあたしの勝手な思いですけど」
少し黙っていた美智琉は、やがて決心がついたような顔で、話を続ける。
「あ、あたしは! 高坂さんが姉さんと近づくのも嫌ですけど!」
そこで一度話を切って、こっちをものすごい顔で睨みながら――美智琉はこう言い放つ。
「あなたが、その、そんなつまんない理由で姉さんから遠ざかっても、絶対に許さないんですからね!」
そこまで言ってから、美智琉はすぐ私に背を向けて、スタスタとここから消えてゆく。
……すごくチグハグな話だった。
ある意味、とても美智琉らしい反応だとは思うけど。
「あ、柾木じゃない」
美智琉と話を終わらせて、「組織」へ戻っていたら、偶然、雫と出くわした。
いつもなら普通に嬉しいけど、今日はさっき交わした会話のせいか、どんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
……そもそも、雫って私と美智琉が交わした会話なんか、知るわけないけれど。
「なになに、なんか約束でもあった?」
「ああ、ちょっと美智琉――美由美の妹とな」
「へー高梨さん、妹さんいるんだ」
そういや、雫は美由美のこと、あんまり知らなかったっけ。
あのお出かけ……デート? ともかくあの時、雫は珍しく美由美と顔を合わせたわけだけど、実はあの二人、そこまで面識のある間ではない。
だから、雫は美由美の家族の事情も知らないし、「私が気にかけている女の子」が、知識のすべてなんだ。
まあ、それは美由美の方も同じだけど……せいぜい雫と婚約していたことを知っているくらいだし。
「それで、柾木はあの妹さんと話してきた、と」
「いや、別にそこまで凄いことは話し合ってないから……」
なんか照れくさくなって、私はすぐに否定する。
まあ、ちょっとは深い話をしていたと言えなくもないけど、あまり雫に、心配はかけたくなかった。
……美由美と近づくのが怖い。
そんなこと、雫に話してもどうしようもないから。
でも、雫の顔は、私の考えていたものと違った。
「へ~」
「ど、どうした」
なぜかふむふむ、とわかったような素振りを見せる雫を見ながら、私はそう反応してしまう。
「ううん、よかったな、と思って」
「何がだ?」
「柾木にもちゃんと、他の知り合いがいたんだな、ということ」
「……あ?」
それはいったい何の話なんだろう。
別に私、「組織」にだって慎治がいたし、なんだかんだ言ってみんなと馴染んでいた方だと思うけど。
「あ~わたしの説明が足りなかったね、今の話」
ちょっと照れくさそうに微笑みながら、雫が話を加えた。
「だから、いつもはわたしくらいしかいなかったじゃない。『外』の人は」
「ああ、それか」
たしかに、それは間違ってないかもしれない。
私、「別の姿」じゃ雫と、辛うじて美由美くらいしか知り合い、いないから。
そもそも、「元の姿」の方だって外の知り合いはしーちゃんくらいだし、友だちもほぼいない。
だから、そう思われるのも無理ではなかった。
「でも、今度の高梨さんの妹さん? はわたしの知らない人だし、柾木にもそんなつながりができたんだな、と思ったの」
「そうか」
「うん、柾木がわたしだけのものじゃなくなるって思うと寂しいけど、いろんな柾木の顔が見られるから、それはすごく好き」
「そうか……」
雫って、そんなことを考えていたんだ。
はっきり言って、ちょっと、いや、かなり照れくさいけど……私も、雫がそこまで自分のことを思ってくれて、とても嬉しかった。
「ありがとう、雫」
「えへへ、わたし、何もしてないよ?」
「それでも、ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして」
雫は曇り一点のない顔で、そう微笑む。
その顔がとても心地よさそうで、私も顔が少し、緩んでしまった。