02.遠い日の記憶(2)

 それから、ちょっと時間が過ぎたある日。
 その瞬間は、急にやってきた。
「ねえ。柾木ちゃん」
 ある晴れた日の朝。まだ寝ていた私は、知らない人の声で目を覚ました。
 いつも私を起こしてくれてた、お姉ちゃんとちょっとだけ似た話し方。
 でも、何か違う。
 そんなことを思いながら、目をさましてみると――
 そこには、自分が考えもしなかった光景があった。

「あ。柾木ちゃん、起きた?」
 私は「その人」を見た後、しばらく言葉を失った。
 それは、私の部屋はもちろん、我が家では絶対に見ることができない者だった。
いや、見ること自体がありえなかった。
 ――私、いったいどうすればいいだろう。
 目の前の人は、私の心に気づいたようで、とても戸惑っていた。
「……やっぱり、こうなっちゃったね」
「その人」はそう言いながら、苦笑いをしてみせた。
 でも、そんな問題じゃない。
 私は本当に、何も聞いてない。
 なぜ、お父さんはこれを話してくれなかったんだろう?
 ――我が家に、知らない男が来るのを。

「あなた、誰?」
 私はすぐ、そんなことを口にした。
「説明が遅くなって、ごめん」
 その男はそう言ってから、私のことをじっと見た。
「信じられないかもしれないけど、あの――」
 そこで一瞬戸惑って、それから。
「お姉ちゃんなの。その、美咲お姉ちゃん」

「ありえない」
 衝撃の一言に、私はただそれしか言えなかった。
 それは絶対にありえない。
 お姉ちゃんは、名前通り女の子なんだ。
 でも、今、私の前にいる男の人は違う。
 髪がちょっと長いのはお姉ちゃんと似ているけど、この人は、初めて見た男だ。
 そもそも、お姉ちゃんの髪はここまでボサボサとしてないし、こんなふうにひげがあるわけでもない。お姉ちゃんは女の子なんだから。体もここまでぎっしりとしていないし、声だって、これより何倍も高い。
 やはり私は、こんな人なんて、知らない。
 きっとこの人は、私を騙そうとしているんだ。

「うん。そうだろうね」
 私がそんなことを言っていたのに、男はただそう頷くだけだった。
 それでちょっとだけお姉ちゃんのことを思い出したんだけど、次の瞬間、私は頭を振った。
 この人は、お姉ちゃんじゃない。
 たしか、よく見たらお姉ちゃんと似ている気もするけど、この人は偽者だ。
「でも本当なの。今のわたしは確かに男なんだけど――」
「そんなこと、ありえないんじゃない」
 だから、何度もわけがわからないことだらけ言っている男に、私は冷たい態度を取った。
「女の子が男の人になるなんて、そんなこと、誰が信じるの? そんなので私を騙すだなんて、百年は遅い」
「でも、本当にそうなの。どうしたら信じてもらえるかな。わたしだって、まだ信じがたいんだけど……」
「ねえ。私のこと、からかって面白いの?」
 私はそろそろ腹が立って、うっかりそんなことを言ってしまった。
「あなたがいくら騙そうとしても、私はお姉ちゃんのこと、一目で分かるから。もうこんなのやめてよ。時間の無駄じゃない」
 私はそう言って、あの男を後にした。
 あの男がどんな顔をしているのかはわからなかったし、それを見る気もなかった。
 ――お姉ちゃんは、きっと苦しかったと思う。
 私はその時、お姉ちゃんにとてもひどいことをしてしまったのだ。


 その後、お姉ちゃんは、「知らない男の人」のふりをして、私の世話を見てくれた。
 初めてはツンツンしていた私も、だんだん「あの男」に心を開くようになった。どこか、あの男から「お姉ちゃん」を感じてしまったからだった。さすがに、自分の感覚だけは否定できない。
 お姉ちゃんは、きっと大変だったと思う。
 お姉ちゃんはどのくらい、その時の私の言葉を心の中で繰り返していたのだろう。
 私は「あの男」に心を開くにつれて、たんだんあの男、いや、お姉ちゃんの話が本当だということを信じるようになった。
 その時、お姉ちゃんはいつものように微笑みながら、「やっぱり柾木ちゃんなら、いつかは信じてくれると思ってたの」と話してくれた。
 私はお姉ちゃんに頭が上げられなくて、ボロ泣きながらお姉ちゃんに抱きついた気がする。
 お姉ちゃんはその後にもだいたい男の姿で家に帰ってきたんだけど、時々は元の姿である、お姉ちゃんの姿で私を抱きしめてくれた。
 私はいつもお姉ちゃんに申し訳なくて、「ごめん」と言いながらお姉ちゃんを抱きしめることしかできなかった。
 でも、お姉ちゃんはそんな私の髪を優しくなでながら、大丈夫、と言ってくれた。
 柾木ちゃんは普通の女の子でいてね。
 お姉ちゃんのその話は、未だに、忘れていない。
 私はそんなことを思いながらも、「あること」には気がついてなかった。
 ――お姉ちゃんは、いったい男の姿で何をしているんだろうか。
 ――お姉ちゃんは、なぜ男の姿でなくてはいけなかったんだろうか。
 私は、もっと早くそれに気づくべきだった。
 それを痛感したのは、もっと先のことである――