57.私たちのこれから

 雫と過ごしたあの最後の夜から、いくつか時が過ぎた。
 暑さはだんだん強くなってきて、もう夏も真ん中だということを思い知らせる。

 あの日からしばらく経ってから、私はお父さんと廊下で出くわした。
「……」
「……」
 しばらく、私とお父さんは何も話さない。
 もちろん、お父さんもこの時点では、私と雫のことをすでに知っていた。
「お前、綾観家との婚約を取りやめたようだな」
「はい」
 私はただ、そう頷く。すでに覚悟はできていたことだった。
「あの娘、雫も同意したらしいが」
「はい、そうなりました」
 もう、嘘をつく意味はどこにもない。
 だから私は、お父さんにありのままの真実を伝えられた。
「……そうか」
 お父さんはしばらく、何も話さない。まるで何か、話すべきことを探っているようだった。
 しばらく、そんなふうに時間が過ぎてゆく。
 私もそろそろ、話を断ち切ろうと思っていた時だった。
「よかったな」
 ずっと黙り込んでいたお父さんは、ただそれだけを残して私から去ってゆく。その語らぬ背中は、いつものお父さんのままだった。
 これで、よかったのかな。
 私はしばらく、どうしたらいいのかわからなくて、その場で立ち尽くしていた。

 そんなことを思いながら、私が執務室に入ってきた時だった。
「……な、なんだ?」
 目の前の風景を見て、私はどう反応すればいいのか、しばらく迷う。
 だって、まだ残されていたダンボールの中に、あの日のようにバニーガールな雫が入っていたんだから。
 ……たくさんの、かわいいうさぎたちと共に。
「おはよう、柾木。遅かったじゃない」
「い、いや、その問題じゃ……」
「あ、この子たち? 今日は少し彩りがほしくてね。みんなも連れてきちゃった」
「いや、だから」
 こ、こんな時にはどういう反応を返したらいいんだろう。
 私は頭が固いから、よくわからない。
「大丈夫。みんなちゃんと、わたしんちで面倒見るよ」
「そっちじゃなくて、なんだ、これは……?」
「だって、拾ってほしいんだもん」
 あの日のような目のやり方に困る服で、あの日よりもおだやかな顔をしながら、雫は私のことをじっと見上げた。
「これからだってずっといっしょだよ。まあ、婚約は取りやめたけどね」
「……雫」
「でも、やめたのは婚約と体の関係だけだから、戸惑うことなんか、何一つもないよ。ね?」
 私、どうすればいいんだろう。
 そういや、「あの日」の以来、雫と顔を向かって話したのは今度が初めてだった。
 変わってないんだ、雫。
 ……私のこと、相変わらず大切に思ってくれてるんだ。
「あれ? どうしたの、柾木。やっぱり拾ってくれないの?」
「いや、これは愛が重いっていうか、なんていうか……」
 でも、やっぱり雫の押しの強さはまったく変わってない。
 それは確かにうれしいけど、なんていうか、ちょっとこそばゆいっていうか……そんな気がして、雫のことをうまく見つめられなかった。
 私だって、あの日からずっと変わらないな……。
 たぶん、これからもこれはずっと変わらないんだろう。

 それから、私は今までの雫とのことを、お姉ちゃんに話すことになった。
 別にお姉ちゃんがせがんだわけじゃない。自分がそうしたいと決めただけだ。
「あら、そうだったの」
 私が今までの出来事を話すと、お姉ちゃんはそんなことを口にしながら、こっちをじっと見た。
「私ね、まだ寂しいのかもしれない。雫とはずっと、あんな形でいたんだから」
「うん。そうだろうね」
「でも、やはり今の決定、後悔はしてない。だって、これは自分で決めたことだから」
 私がそんなことをしている間、お姉ちゃんは何も言わず、ただこっちの話を聞いてくれた。
 いつもながら、その優しさが今はただありがたい。
 そんなことを考えていたら、いつのまにか、お姉ちゃんが私の頭をやさしく撫でていた。
「お、お姉ちゃん?」
「頑張ったね、柾木ちゃんは」
「う、うん?」
 お姉ちゃんはただ、こっちに微笑みかけながら頭を撫でてくれる。まるで私の心の中を見越しているような顔だった。
 ……やっぱり、お姉ちゃんには敵わない。
 まぶしい日差しの中で、私はそうやってお姉ちゃんに撫でられていた。

 ちなみに、あちらから話しかけてきたため、慎治にも雫とのことを口にすることになった。
「あ、そういや柾木、お前、綾観さんとは――」
「大丈夫。ちゃんとけじめをつけたから」
「……あ?!」
 私の言葉がそこまで意外だったのか、慎治は目を丸くする。
 ……昔から考えていたけど、慎治って感情が豊かすぎ。
「ま、マジか?」
「ああ、大マジだ」
「そ、そんな……」
 ……想像したことすらなかったのか。今の慎治は、見事に固まっていた。
「や、やったな。よくやったよ、柾木」
「……ああ」
「本当に漢だよ、お前……」
「なんでそうなる」
 本当に、なんでそうなるんだろう。
 これはただの、女の子同士が関係を少し改めた、それだけの話であるはずなのに。

 ちなみに、雫の兄である賢一さんとは、最近再び話を交わした。もちろん、話題は雫との婚約を取りやめたことである。
「そうか、君たちの間で、そういうやり取りがあったとは……」
 まるで一本取られたような口調で、賢一さんはそんなことを語った。
「ええ、雫の方も納得してくれました」
「よかったな。そう、本当によかった」
 そんなことを口にしながら、賢一さんは私の方をじっと見た。たぶん、このように「妹の婚約者」として話を交わすのも、今度が最後になるんだろう。
「とはいえ、こちらとしては少し、寂しい気持ちだな」
「はい?」
 予想外の答えに私がぼうっとしていると、賢一さんは話を続ける。
「こちらとしては、君のような子が雫の婚約者になってくれて、非常に心強かった。少なくとも、僕は君のことを心から頼っていたよ」
「あ、ありがとうございます」
「君と雫は、こちらから見てもすごく似合っていた。君なら雫を本当に嫁にあげてもいい。僕はそんなことを、何度も思ったんだ」
「……ありがとう、ございます」
 それは、本当に嬉しかった。
 私たち、そこまで認められていたんだ。
「まあ、君の『元の姿』は、どうやらそっちじゃないようだが……。それはともかく、最後にもう一度、握手の一つでも交わさないか」
「……はい」
「これからも、どうか雫のことを、よろしく頼む」
 私は、賢一さんが差し出す手を力強く握った。
 きっと、この人と「男同士」として向き合うのも、今度が最後になるだろう。
 賢一さんも、私の手を強く握り返す。
 未だに「男」のことがわかり切ってない私だけど、今だけは、なんとなく男同士の「通じている」って気持ちが、しっかりと伝わってくる気がした。

「でも、上手く行ったようでよかったな」
 そういやあの日の以来、秀樹と久しぶりに面と向かって話すことができた。
 そこまで久しぶりなわけでもないのに、なぜかとても懐かしく思えてしまう。
「柾木のことだから、あんまり心配はしなかったけどね。でも、ひと安心したよ」
「ああ」
 そんなことを言った秀樹は、急に真面目な顔をする。
 なぜだろう。とても重い荷物を承ったような、そんな表情だった。
「どうした?」
「ううん、荷が重いな、なんてこと考えてた」
「何がだ」
 私がそう聞くと、秀樹は少し戸惑ってから、やがて口を開く。
「だって、これから俺は、綾観さんに恥ずかしくないように振る舞わなきゃいけないからな」
「……どうしてだ」
「具体的には、柾木のこと、精一杯愛しないといけない」
「いや、だから」
「もちろん俺は言われなくたってそうするからね。柾木のこと、大好きだもん。でも、やっぱり綾観さんのこと考えると、いちゃいちゃにも力が入るなーって思っただけ」
「秀樹……」
 なんか、すごく恥ずかしい。
 自分って、どれだけ二人に愛されてきたんだろう。
「柾木のこと、これからも大切にするよ。綾観さんに負けないくらい」
 人がそんなことを思っていたというのに、秀樹はそんなことを口にしながら、私に寄り添う。
「そうしないと、綾観さんに頭上げられないしね。もちろん、大好きだから苦しいことなんか何一つないけどさ」
「……まったく」
 私も、秀樹のことをそっと抱きしめた。
 自分のことを考えてくれている人が、ここまで多いっていうのは照れくさくもあるけど、やっぱり嬉しい。

 そして、今日はどんな日かと言うと――
「あ、柾木! こっちこっちっ」
 もう七月も終わりつつある、ある土曜日の午後。私は雫と会うために、約束した公園までやってきた。
 いつもの「組織」の近くにあるところではなく、自転車道まである立派なところ。
 あんまりこういうところに来る機会はないから、なぜか今がちょっと照れくさい。
 いや、実はつい最近、夜に自転車で散歩に来たことがあるけれど……。その話は、今はちょっと置いておこう。
 ――今は、雫との時間なんだから。
「ご、ごめん。待った?」
「ううん。わたしだって今、来たばっかだし」
 私が謝ると、雫はそう言いながら手を振ってみせる。その横には、今まで付き合いながらもあまり見たことのない、雫の自転車がおかれている。
 ……今日は、雫といっしょにこの公園を自転車で回ろうと約束したんだ。
 それも、今までとは違う「元の姿」で。

「なんか、照れくさいね」
 雫も目の置き場でちょっと困っているのか、いつもより慌てている。でも、居心地悪いとか、そういう様子ではなかった。
「変だね。柾木はずっとわたしの隣にいたというのに、姿が変わっただけで、ここまで心持ちが変わっちゃう」
「別にいいよ。おかしいわけじゃないし」
「でも、ちょっと不思議な気分だから」
 そんなことを言いながら、雫は私の方へと寄り添う。
 ゆっくりこっちへと近づいてきた雫は――いつもと違う、ツインテールの髪型をしていた。
「わたしね、今度は柾木に合わせてみたの。えへへ、どうかな?」
「……かわいい」
「ほんと? やった~」
 いつもの「今どき」の雫からは考えられない、ツインテの髪型。
 でも、やっぱり雫と言うべきか、私の目には、とてもかわいく思えた。
 こういうのを、惚れた方が負けっていうのかな。
 まあ、私が雫のこと、かわいいと思っているのはずっと以前からだけど。

 私がそんなことを思っていた時だった。
「でもね、柾木の方もかわいいよ」
「……え?」
 いきなり自分の名前が出てきて、私は驚いてしまう。か、かわいいって、私が?
「で、でも、私は――」
「だって、今日は柾木も髪型、違うんでしょ? ほら、ポニーテールだし」
「そ、そうだけど……」
 そう。今日は私も、少し髪型を変えてみた。
 とはいえ、別に変わったものではなく、少し髪を結んでみたくらいだけど……。
 さすがに、自転車に乗るというのに髪を解くわけにはいかないから、こうやって「いつもと違う結び方」をやってみたわけだ。
 ポニーテールは外などでたまにする髪型だけど、雫の前では、初めて見せた姿であるはずだ。
 ……そもそも、雫って私の「元の姿」を目にするのも今度で二回目であるはずだけど。

「まあまあ、みんなかわいいでいいんじゃない。みんな違くてみんないい」
「そ、それはちょっと違う気もするけど……」
 とか言ったけど、私も「かわいい」って話を聞いて、すごく嬉しかった。
 雫にそう言ってもらえる日が来るだなんて、考えたことすらなかったから。
 こんなふうに、「元の姿」で雫といっしょにいる。
 まるで夢のような、甘くてふわふわとした時間が、ここにあった。

「それじゃ、そろそろ行こうか。せっかくの休日だし、楽しみたいよね」
「う、うん」
 そんなことを言いながら、私たちは自転車をぎゅっと掴む。ここは自転車道もあるんだから、今日のような晴れ渡った日に、軽く散歩するには打ってつけだ。
「わたしね、まだ柾木とどうやって向き合えばいいのか、やっぱり戸惑ってるかもしれない」
 自転車を漕ぎながら、雫がそんなことを口にする。
「でも、わたし、やっぱり柾木といっしょにいたいの。元とか別とか、そんなことはどうでもいい。婚約でもなんでも、こうやってそばにいたい」
 照れくさそうな顔で、雫は私からそっと視線をそらす。いつもの雫とは少し違う態度だけど、その口調は間違いなく心の底から出てきたものだった。
「だからね、柾木」
「うん?」
「これからも、よろしくね。わたしの愛する人」
「う、うん」
「ちょ、ちょっと恥ずかしいこと言っちゃったね。えへへっ」
「そ、そんなわけじゃないよ。私だって、嬉しかったから」
 だから、今、雫の顔、うまく見られない。
 私たちはお互い、顔を赤くしたまま、しっかり並んで自転車を漕ぐ。
 夏はまだまだ、終わりそうになかった。

「じゃ、ここからは自転車で走ろうか」
 自転車道にたどり着いてから、雫はそんなことを言いつつ、私に振り向く。
 いたずらっぽい、ニコッとした笑顔。
 私がいちばん好きな、雫のかわいい顔が、そこにあった。
「うん」
 だから、私は抑えめながら、少し笑ってみせる。
 あまり笑うのは得意じゃないけど――それでも、今は雫といっしょに、笑い合うのが好きだから。

「じゃ、せーの!」
 私たちは、その掛け声とともに前へと駆けてゆく。
 涼しい風を全身で感じながら、私たちの歩くべき明日へと――