54.運命の日

 そうして、ついにやってきた約束の日。
 私は窓の向こうに広がっている、曇り空をじっと眺めていた。
 どうしても仕事が、頭に入らない。
 社会人としては失格だけど、雫の婚約者としては、たぶん正常な反応だろうと思う。
 だって、今日は「約束の日」だ。
 雫と、昨日「端末」で、約束を交わした日なんだ。

 ピクッ。
 雫からのメッセージに、体が反応する。
 今日の私は、雫に関するものなら、なんでもつい反応しちゃうみたいだ。

 ――あのね、柾木、覚えてる?
 雫の送ったメッセージを、一句一句逃さず、ちゃんと目を通す。忘れないように、頭の中に刻んでおく。
 ――わたしがいつも好きだった、あの歩道橋のこと。
 覚えている。もちろん、忘れてなんかない。
 ――そこまで、来てくれない?
 悩むことなんて、何一つなかった。 
 そのまま、私は「約束の場所」へ向かう。
 ……雫が待っている、あの場所へ。

 走りながら思い出すのは、やっぱり雫といっしょに過ごしてきた日々。
 悲しいことも、嬉しいことも、恥ずかしいことだっていっぱいあったけれど、でも、忘れられない大切な日々。
 あの日々が、今の私を作った。
 ――あの日々が、私たちをかけがえのない関係に作り上げたんだ。

 ――それは、いつの時の記憶だったんだろう。
「……男が嫌いって?」
 あれはたぶん、私と雫が、まだよそよそしかった頃。
「え、えっとその、あんなやつらのこと、好きじゃないんだ」
「……」
「お、おかしいのか? い、今の俺が、こんなこというのは……おかしいよな、あはは」
 わかってはいたけど、自分から聞いてみてもまったく説得力のない話だった。この姿で、口調で、「男のことが嫌いなんだ」なんて言っても、誰にも信じてもらえない。
 ……だからだったんだろうか。
 私のたどたどしい話を聞いてきた雫は、しばらくじっとしてから、あまり興味なさそうな口調ながら、こっちに向かってそう聞いてきた。
「じゃ、なんであなたは、こんなわたしといっしょにいるの?」
「う、うん?」
「なんで、そこまで男のこと嫌いなのに、わたしには男に慣れるように、その、こうしてくれるの? むしろずっと嫌ってた方が、あなたとしては嬉しくない?」
 一瞬、どう答えたらいいのか、わからなかった。
 自分から考えても矛盾された行動なのに、赤の他人である雫に納得してもらえるわけがない。
 私だって、雫の親から話を引き受けた時から、そんなことは何度も思っていた。
 だが、やはり、私は自分の気持ちを雫に伝えたい。
 たどたどしくて、不器用で、自分から考えてみても矛盾たっぷりだけど、これが今の、私の素直な気持ちなんだ。
 ……チグハグだというのは、自分でもよくわかってるつもりだけど。
「その、たしかに自分は嫌だけどさ、綾観さんまで嫌になる必要はないって、そう思ってるからだよ」
「……」
「もちろん、綾観さんはこれからもずっと、男のことを怖がったり、苦手になるのかもしれない。でも、そんな判断はまだ、あとに下してもいいと思うんだ。あんなことがあっただけで男は苦手って決めつける綾観さんのことを思い浮かべると、なぜか悲しくなって」
「……」
「あ、綾観さんに少しでも力になったらいいな、って思ってた。笑ってる顔とか、一度でもいいから見てみたいな、そんなこと思ったよ」
「……」
 気づいてみたら、私は自分の気持ちを、だらだらと雫に述べていただけだった。わかってはいたけど、自分の感情を言葉にすることは、やっぱり下手だ。
 雫、怒ったかな。
『あなたなんかが偉そうに』とか、そんなこと、思ってるのかな。
「だ、ダメかな? やっぱり、こんなおかしな理屈じゃ……」
「……ううん」
 わずかだけど、雫はゆっくりと、首を横に振る。
 それっきりで反応は途切れたけど、私はあの時、雫がそんな意志を見せてくれたことにほっとしていた。
 なぜか、自分が受け入れられたような気がして。
 あの時の雫の本心なんか、私にはまったく読めなかったんだけど。

「えへへ、あったかい」
 それはたぶん、雫と打ち解けて間もなかった頃。
「柾木といっしょにいると、ものすごく落ちつくんだよね。不思議」
「そうか」
 私たちは、ベッドの上でもたれかかったまま、そんなことを話していた。
 季節はたぶん冬。外がものすごく寒くて、雫と肌を合わせていると暖かくて気持ちよかったことを覚えている。
「こんなに肌をくっつけてるだけなのに、なんでなんだろ」
「誰かといっしょにいるから、じゃないのか」
「うーん、たしかにそれもそうだけど、柾木じゃないとここまで気持ちよかったのかな」
「そ、そんなこと軽々しく口にしないでくれ。照れるから」
「へー?」
 私が思わずそんなことを言ってしまうと、雫はニヤニヤした顔でこっちを覗き込む。雫って、いつも私の照れた顔を見るとあんな顔するんだよね。自分の顔、そこまで面白かったのかな。
「こういうの、好きなんだよ。誰かと、こうして繋がってるの」
「雫はいつもそうなんだよな」
「うん。誰だってこうしてると落ちつくんだけど、柾木がいっしょなら、もっと安心する」
「……そうか」
 それは、ちょっとだけ嬉しい話だった。
 雫がこっちのこと、すごく信じてくれてる、って意味だから。
「こうしてると実感湧くんだ。柾木が、わたしの男だって」
「そう、なのか」
「でもね、最近はわたしも、よくわかんなくなってきたんだ。本当の男でなかったとしても、わたしが柾木を大切な人だと思うのは変わらないし」
「……ありがとう」
 そんなことを聞くと、どう答えたらいいのか、ちょっと困ってしまう。
 子供の頃から、褒められた時の反応はかなり下手くそだった。
「でも、やっぱりこんな姿じゃなかったら、わたし、柾木と体、重ねたのかな」
「……どうだろう、それは」
「やっぱりわたしにとって柾木は男ってわけだから、大切な人ではあるけど、別の形で出会ってたら、あそこまではできなかったかもね」
「雫って、男の人、好きだもんな」
「うん、笑えてくる話なんだけど」
 そんなことを言っている時の雫の顔は、とても苦そうだった。まるで自分のこと、あざ笑うような表情を浮かべている。
 そんな顔、見たくないのに。
 私は、彼氏彼女って形だとしても、雫といっしょにいるだけでうれしいのに。
 ……たとえこんな形でしか、雫と触れ合えないとしても。
 あなたの前でなら、男でもなんでも、まったく構わないのに。
 もちろん、悲しくないって言ったら、嘘になってしまうんだけど……。
「以前、柾木、言ったよね。自分が本当の男じゃなくても大丈夫か、って」
「ああ」
「でもね、むしろ『本当の男』じゃないから好きになったかもしれないよ、わたし」
「……」
「変だな。自分から言ってても、わけわかんないよ」
 どうやら、雫も、その矛盾に気がついたようだった。切なそうな顔で、こっちから視線を逸している。
「もうめちゃくちゃ。本当の男じゃないから惚れたなんて、柾木にも失礼な話なのに。わがまますぎて、自分が嫌になっちゃうんだよね」
「別に、そこまでおかしな話じゃないと思うが」
 気がつけば、自分はそんなことを口にしていた。
「どれだけ誰かが好きだとしても、体は重ねられないとか、別におかしな話じゃないと思う」
 だって、今の私が、まさにそれなんだから。
 雫のことは好きだ。好きなんだけど、体を求めているわけじゃない。
「人って、そういうものなんだから」
 だから、私は確信を持って、そう話せる。
 雫は決しておかしいわけでも、わがままなわけでもないって。

 ――そんなことを思っていたら、頬に何か、冷たいものが落ちてくる。
「雨、か」
 ようやく、雨が降り始めたようだった。
 ある意味、私たちのタイムリミットを知らせるような雨の足音。
 雨ならではの、あの変わった匂いが、私の鼻をくすぐる。
 私に、昔の記憶を思い浮かばせる。
 このにじみ始めた景色より、よっぽど鮮やかなあの記憶を運んでくる。

 それは、わたしと雫が、まだ初々しく体を重ねていた頃。
「柾木、柾木……っ」
「ど、どうしたんだ、雫」
 雫は激しく、私を求めていた。
 切なそうに、愛おしそうに、私のことをまっすぐに見つめている。
「わたし、ずっと柾木と、こんなことがしたかったんだ」
「雫」
「あの時には、柾木のことよく知らなかったから、だから、近づくのが怖くて、わざと興味ないふり、してた」
 ここまで強く抱きしめているというのに、雫はまだ物足りないようだった。
 今までずっと我慢してきたような態度で、雫は何度も私のことを確かめようと肌を合わせる。
「頼りたかったのに、こうやって肌を合わせたかったのに、必死で愛想、なくしてた」
「……」
「でも、実は違った」
 そんなことを言いながら、雫は私にもっと深く絡んでくる。私もそんな雫を、ぎゅっと強く抱きしめた。
「誰よりも特別な存在に、なりたかった。柾木のいちばんに、なりたかったの」
 雫は、泣いた。
 瞳から流れてくるたくさんの雫が、私に、布団に、雫の手の上に、次々と落ちてくる。
「だから今、嬉しくて。柾木のこと、独り占めしてるから」
「……俺なら、いつだってここにいる。だから、焦らなくてもいいんだ」
 気がつけば、私は声に力を入れていた。
 もう雫が悲しんだり、苦しんだりする顔なんか、二度も見たくはなかった。
 私が、幸せにする。
「元の姿」が一生知られないとしても、雫のこと、笑顔にするんだ。
 あの時の私は、ただそんなことしか思ってなかった。
 自分からあの掟を破ることになるとは、思ってもみなかった。
「うん、うんっ」
 でも、雫はあの時、せいいっぱい笑ってみせた。
 私のことを信じ切った顔で、その答えを喜んでいた。

 そして、今の私はここ、現在進行型の現実にいる。
 あの時の雫も、あの時の私も、もう、ここにはいない。
 だから、今は決断の時。
 雫と私が、自分たちの関係を振り返るべき時。

「はあ、はあ、はあ……」
 そんなことを思いながら、私は走る。
 暗い空の下を駆け抜ける。たくさんの人波をくぐり抜ける。いろとりどりの傘のせいで迷路のようになっている大通りを走り抜け、まっすぐ約束の場所へと向かう。
 もう少しだけ進んだところで、雫がいる。
 約束の場所で――私のことを、待ってくれている。

 向かわなきゃ。
 私たちの物語に、決着をつけなきゃ。
 雫の望み通りに、そして、私が望むままに――

「――あ」
 雫は、あの歩道橋の上で、何も言わず、私のことを待っていた。
 こっちには目も向けず、あっちの道路をずっと眺めている。
 その姿が、とても儚くて、そして頼りなく思えて。
 私は、今すぐにでも階段を駆け上がって、雫の体に触れたくて仕方がなかった。

 雫が差しているのは、水色の傘。
 いつも雫が、「わたしみたいなんだよね~」と気に入っていた、思い出の一品。
 以前、私と雫がいっしょに買い物をしてた時、「これ、雫に似合いそうでな」と、なんとなく選んできたもの。
 ――つまり、あの傘は、それ自体で雫の意思を示しているようなものだ。

「はあ、はあ……」
 瞬くような間に、私は階段を駆け上がった。目の前で雫が待ってると思ったら、どうしても我慢ができなくなる。
 今、自分の耳に届くのは、さっきから降り続けている雨の音。
 そういや、ようやく気がつく。
 ――自分って、傘、差してないんだ。
 今日の午後から雨だって、秀樹にも聞いていたし、「端末」でも確認していたのに、すっかり忘れていた。
 ここに来るまで、いくつの雫に打たれたはずなのに、そんなこと、まったく気づいてなかった。
 ――今の私、けっこう濡れてるんだろうな。
 ある意味、とてもみっともないけれど、今、重要なことはそっちじゃない。
 どうせ、雫のことが頭がいっぱいで、それしか考えられなくて――だから忘れていたってことは、誰からどう見ても明らかなんだから。
 だから、今重要なのは、目の前の雫。
 傘を差しているというのに、とても寂しそうで、雨に激しく打たれたような――あの雫のことだ。

「……雫」
 だから、私は再び、走り出す。
 階段を駆け抜けた勢いのままで、雫の方に、まっすぐ向かう。
 すべてが、スローモーションみたいに、ゆっくりと私の横を過ぎていった。
 今、私の目には、雫しか入っていない。
「――あ」
 それに気づいたのだろうか、雫はようやく、こっちに振り向いた。
 まるで運命を告げるような態度で。
 私のことを、じっと、目を逸らさず見つめている。

「柾木」
 でも、雫はそのまま、なかなか口を開けなかった。
 また泣きそうな顔で、私を見て、何も言えなくなってしまう。
 きっと、今の雫はとても辛い気持ちなんだろう。
 なにせ、今、雫が私に話そうとしていることは……。
「……っ」
 雫の目が、潤んできた。
 やはり、雫はまだ涙が出てしまっているらしい。
 拭わなくては。
 いつものように、雫の涙を拭いてあげなくちゃ。

 そんなことを思って、私が「いつものように」手を伸ばした時――
 ――雫は、私の手を、振り放した。

「ダメ」
 雫は、俯いている。
 でも、その声には、はっきりと芯が通っていた。
 もう雫を止めることはできない。
 私は一瞬に、それを悟る。
 今から雫が口にするのは、たとえそれがどれだけありえなかったとしても、全て雫の意思なんだ。
「今はそうしちゃダメ。もうわたしは、そうされちゃダメなんだ。だからわたしのことを振って。もう未練なんか残らないように、今すぐわたしのことを振ってよ!」
「……雫」
「強く、振ってよ……」
 雫は、泣く。
 雨にも負けないような勢いで、雫は、私の前で泣きじゃくった。
 いつものような、強気で、わがままで、お姫さまのような態度で。
 雫は、私に自分のことを振ってほしいと、心から望んでいる。
 ……実はそんなこと、まったく思ってないくせに。
 この関係を、もうそろそろ終わりにしようと、そう言っている。
 こっちは全部、わかってるというのに。
 今、雫がどんなことを考えているのか、全部お見通しだというのに。

 だから私は――
 思いっきり雫を、強く抱きしめた。
「柾木……」
 周りのことなんか、気にしない。
 雫の傘がぶっ飛ぶことだって、今だけは、どうでもよかった。
 むしろ、そのおかげで雫のことをしっかり抱きしめられるならば、それで満足だった。
 この、傘ではどうしようもないくらい、心が震えている女の子を温めるためならば。
「ダメだよ、こうしちゃ。風邪、かかるよ」
「雫のためなら大丈夫だ」
「ダメだって、言ってるのに」
 そんなことを言いながらも、雫は私の懐から、離れようとしない。
 むしろ、強くこっちの胸板に体を預けて、いつものように、私のことを頼ってくれている。
 それでも、その些細な仕草や声で、私は気づいてしまう。
 これが、最後だ。
 こんな触れ合いすらも、今度でもう、さよならなんだ。
「あなたが今、こうしてくれてるのはすごく嬉しい。雨に打たれていても、風邪にかかっちゃうとしても、涙が出るくらい幸せ。でも、今日だけは、こうしちゃいけなかった。こんなことしちゃ、ダメだった」
「雫」
「柾木だけはダメなの。優しすぎるから、だからダメ。こんな時にだって、甘えたくなってしまうから。それはいけないのに、もうやっちゃダメなのに……」
 悲しそうに、嬉しそうに、雫は私の腕の中で、そんなことを口にする。
 それでも私は、決して腕の力を緩めない。
 今の雫が、苦しまないでほしいから。
 せめて今だけは、誰よりも、雫の近くにいたかったから――
 ――あなたは、決して一人じゃないんだから。

 だから私たちは。
 周りのことも気にせずに、そのまま、お互いのことをずっと抱きしめあっていた。
 今までなら、私たち、まだ婚約者同士なんだから。
 まだ、彼氏と彼女という、今までの関係でいられるんだから。

 たとえ、これから二人が、もう「そういう関係」ではなくなってしまうとしても――
 今だけは、お互いのことを、いちばん大切に思いたかったんだ。