51.ごめんね、雫

 そして、とある日の朝。
 私はいつもより重い気持ちで家を出た。
 約束の場所へ、行くために。
 ――雫に、ひどいことをするために。

「ここは変わってないな……」
 久しぶりにやってきたあの公園は、以前とほぼ同じ風景だった。
 それは当然だ。そもそも、慎治のせいでここにやってきて、まだ一ヶ月も過ぎてない。ついでに、まだ季節も夏のままだ。
 なのに、周りの風景が、そう軽々しく変わるわけがない。
 自分でもそれはよくわかっていた。わかってはいるけど、不思議なことに、あまり自分には実感が沸かなかった。
 ……最近は雫と、あれやこれやなことがいろいろあったから。
 別にケンカしたわけでもないし、「いろいろあった」と言うこと自体がおかしいけれど……。
 ダメだ。また、心が重くなる。
 わかってるはずなのに。私はすべて、覚悟していたはずなのに。

 もう引き返せないって。
 「こんな格好」でここに来た時点から、そんなの、わかり切っていたはずなのに。

 まだ、公園には誰もいない。
 私は近くのベンチに腰を下ろし、じっと雫を待った。
 今、怖くないって言ったら、嘘になる。昨日の夜は、そのせいであまり眠れなかった。
 ……体が震えている。
 私、ちゃんと雫に「挨拶」、できるのだろうか。

 そんなことを、ぼんやりと思っていたときだった。
「えっと、どこだろう、柾木……?」
 聞き慣れた声が、向こうから聞こえてくる。
 それを聞いて、私は心臓が止まるかと思ってしまった。
 覚悟したはずなのに。昨夜は何度も、この風景を頭の中で描いていたはずなのに。
 なのに、なぜ。
 また、ここまで体が重くなってしまうのだろう。

 でも、しっかり言わなくちゃ。
 「自分はここにいる」って、ちゃんと、雫に伝えなきゃ――

「……どうしたんだ、雫」
 だから、私はわざと、声を高める。
 雫が、私のことに気づけるように。
「なんでキョロキョロしてる。俺ならここにいるんだろ?」
「え、えっ?」
 最初、雫は目が丸くなったまま、相変わらず周りを見渡していた。まるで、透明になっている私を見つけようともするように。
 でも、見つかるはずがない。
 今の私は、雫の知っていた「高坂柾木」とは違うんだから。

 だから、これはすでに、想像していた通りだ。
 ここで落ち込んでしまったら、何もはじまらない。

「ここだ、雫」
 もう一度、私は声を高める。
 すごく辛かったけど、それでも、なんとか勇気を振り絞った。
「おかしなところばかりキョロキョロしないで、そろそろ、こっちに体を向けてくれ」
「えっ、誰? さ、さすがに、柾木の声じゃ――」
「いや、俺だ」
 声が、震える。
 必死に、知らないふりをした。
「ここのベンチ――雫の後ろ側に、今、俺はいる」
 だって、これからいちばん戸惑うことになるのは、きっと、雫の方だから。

「……えっと」
 やっぱりだ。
 雫は、ものすごく困った顔をして、こっちに視線を向けている。
 そりゃそうだろう。今の雫にとって、ここにいる私は、あくまで赤の他人なんだ。
 そんな「知らない女の子」が、まるで自分の知り合いのように、雫に接している。
 自分の「婚約者」のような態度を、取っている。
 なのに、実は人見知りなところもある雫が、戸惑わないわけがない。
 困らない、わけがない。
「あの、ど、どなたさん……」
「そうなるんだろうな」
 私は、自分も知らぬ間に、雫から視線をそらしていた。
 だって、今の状況は、とてもつらい。
 自分で作り出した状況だというのに、とうてい、耐えられそうにないんだ。
「まず、その、ごめん。こんなふうに、顔を合わせることになってしまって」
「あ、あの、わたし、どういうことか、まったく理解が……」
 雫が目の前であそこまで困っているのに、私は淡々と、そういうことを口にすることしかできない。
 それはそうだ。こうなった以上、私ができるのは、これくらいしかないのだから。
 ――私が、雫にこんなことをするって、決めてしまったんだから。
「ここにいる俺が、その、雫の知っているあの高坂柾木と言ったら、信じてくれるか?」
「……」
 雫は、何も答えない。
 あまりにも急な出来事に、頭が固くなったようだった。
 ごめん、雫。
 本当に、ごめんね。
 こんなこと、事前に話もせずに、いきなり告げられても困るよね。
 私、あなたと約束したときには、こんなこと、まったく話さなかったから。

 ……雫が私をそのまま過ぎ去ってしまった、その日の夜に。
 私は雫と、「端末」で約束を交わした。
 ――え~? 改めて公園だなんて、今度は自然の中でデートってわけ?
 ――まあ、話すこともあるから。
 ――うーん、そこまで特別な話なのかな~~。
 私はその、約束を交わす最後の最後まで、何度も悩み続けた。
 本当に、このままでいいんだろうか。
 雫と私の関係が、「確実」に変わるトリガーを、引いてしまってもいいのだろうか。
 悩まなかったら、迷わなかったら、嘘になる。
 今までの雫との関係が崩れてしまうかもしれないのに、悩まないわけがなかった。

 でも、誘惑には勝てなかった。
 これからは、ひょっとしたら、雫が「元の姿」の私のことを、気づいてくれるかもしれない。
 その甘い誘惑には、とうてい、勝てなかったんだ。
 わかってるというのに。
 雫が私に求めるのは、「元の姿」なんかじゃないって、わかってるはずだったのに……。

「……柾木?」 
 雫は、うつろな顔で、それをつぶやく。
「ああ」
「ほんとうに、わたしの知っている、あの柾木なの?」
「……ああ」
 私は、未だに雫の顔をまっすぐに見られない。
 だって、今、雫の表情、じっと見るのが怖いから。
 情けないことだって、わかっている。わかってるけど、これだけは、どうしようがない。
 ……こうすると決めたのは、雫を傷つけるってわかってたのにやるって決めたのは、他でもない、この私なんだ。

 だから、とても辛いけれど、いつまでこのままじゃいられない。
「その、びっくりしたんだろ? やっぱり、信じられないんだろ?」
 だから、私からまた話しかけることにした。できる限り、低い声を出すことを意識して。
 ……辛いな、これ。
 慎治のときに一度やっていたわけだから、もう慣れていると思っていたが……慣れるところか、ものすごくやりづらい。
 でも、こんなことでもやらなければ、雫は、目の前の女の子が「あの」高坂柾木って、わかってくれない。
 それくらい、「元の姿」と「別の姿」は違うのだから。
 今、自分がここに来るって決めたことを、決して無駄にはしたくなかった。そんなことになってしまったら、雫に頭をあげられない。
「それはそうだろう。今の自分の姿なんか、雫にとっては他人そのものであるはずだ。ここまで背も小さく、ツインテなんかしてるやつなんか、覚えがなくて当然だと思う。なのに信じてもらえたいとか、そういう図々しいことは言わない」
「……」
 今度は、自分が視線をそっと逸らす。
 こんなこと、自分から言っていて、すごく辛くなったからだ。
 雫とこんなによそよそしい雰囲気で話すだなんて、拷問以外のなんでもない。全部自分のせいだというのに、それを考えると息が詰まりそうだった。
「今、雫が困ってるのはよくわかる。これはあくまで、自分が勝手に決めたことだからな。だが、やはりどうしても、こうして雫と会ってみたかった。まあ、俺のエゴと言われるとそれまでだが……」
「……あのね」
「うん……いや、ああ、なんだ?」
 私は慌てて、口調を直した。やっぱり、この口調には慣れていない。そもそも、元の姿ではこんなふうに喋らないわけだから――
「その、喋り方、戻していいよ」
「……え?」
「元の口調、そっちじゃないでしょ? 無理してること、バレバレだから」
 そう言ってから、雫はこっちから視線をそらす。
 私たちはどうしようもない空気の中で、しばらく距離をおいたまま、ぼうっと立ち尽くしていた。
 お互い、視線を逸したままで。
 他の人なんか、ここにはいないように。

「……こんな、姿なんだ」
 どれくらいそうしていたのだろう。
 やっと、雫がこっちを向いて、そんなことを言ってきた。誰からどう見ても、頑張って話題を探っていたことが見え見えだった。
 でも、雫の心情はよくわかる。
 こんな、同い年かどうかすら怪しい、半ズボンに軽いシャツを身に羽織ったツインテ女に、いきなり自分の婚約者である、あの高坂柾木って言われたわけだから。
 今まで、ずっと「普通」の男の子だと思われた高坂柾木が、実は、こんなダサくて変な女の子だって、知られてしまったから。
 だから、雫は戸惑うしかない。
 理想と現実との壁に、絶望するしかないんだ。
「な、なんていうか、驚いたよ。びっくりした。ここまでかわいいっていうか、幼いっていうか、その、貶してるわけじゃないけど――」
「わかってるよ、雫」
「ご、ごめん。わたし、今、どうしたらいいのかわかんなくて……」
 雫は、慌てている。
 なんとか平然でいようとがんばってはいるものの、その心に、体が追いついていない。
「これは全部、私のせい。私があなたと、こういう『元の姿』で会いたいと願ってしまったから」
「こ、これ以上無理して話さなくてもいいよ、もう」
「でも、話さなきゃ。そうじゃないと、あなたにこんなひどいこと、させた意味がないから。ううん、もう幻滅されてるはずだけど」
「わ、わたし、そんなの、そんなこと……」
「つまらない理由だよ。ただ、いつかすれ違ったとき、雫が私のこと、わかってもらえなかった、ただそれだけ。そんなの当たり前なのに、なんでここまでしちゃったんだろ、私」
「わ、わたし、わたし……」
 あまり自分の声に、実感が沸かない。
 普段なら、「別の姿」の声の方が慣れてないというのに、おかしな話だった。
「ごめんね、雫。こうなること、私、わかってたつもりなんだよ。でも、我慢できなかった。本当にごめんね」
「べ、別に柾木のせいじゃ、これは全部、こっちのせいじゃない」
「違うよ、雫。私が、あなたに『元の姿』をわかってもらいたかったという、それだけの理由で、ここまでひどいこと、させちゃったんだよ。彼氏のくせにね」
「違う。ちがうよ。だから、そんなこと、言わないでよ」
 雫は、泣いている。
 いつの間にか、雫は、泣きじゃくっていた。
「わ、わたしは、そんなつもりじゃなかったのに。謝らなきゃいけないのは、わたしの方なのに」
「雫……」
「これは全部、わたしが悪いんだよ。こんなに小さい女の子に、自分と同い年の女の子に、わたしの勝手で、今までわたし、何やってたんだろ……」
「……」
「いったい、何してきたんだろ……」
 雫は、泣いた。
 私の前で、他の人なんかお構いなく、わんわんと泣いた。
 こちらの手が届かないところで、精一杯身を引いていた。
 雫の泣き声だけが、自分の耳に刺さってくるだけだった。
 いつものような眩しい日差しが、憎たらしかった。 

 ――本当に私は、これでよかったんだろうか?
 胸が痛い。雫のこと、うまく見つめることができない。
 結局これは、ただの自己満足に過ぎなくて。
 こんなことをして、本当によかったんだろうか、とどうしても思ってしまう。
 私は、ただ雫に振り向いてほしいだけだったのに。
 「元の姿」ではわかってもらえないことが悲しくて、こんなことをやろうと決めたのに。
 これは、果たして正解なんだろうか。
 ……雫は、このことで私のこと、恨んだりしてないんだろうか。

 でも、よく考えてみるとおかしい。
 どうして私は、今、この時点で雫に自分の「別の姿」をバラしたんだろう。
 こんなふうにバラすのなら、秀樹と付き合うことになって、もう婚約を続けるのが難しくなった時に明かせばよかったのに。
 ずっと心の中で悩んでいて、「これからどうしよう」と考え込んでいたはずだけど、こんなことまでやろうとは思わなかったはずだ。
 なのに、いまさら「元の姿」で雫に気づいてもらえなかったことがきっかけで、こういう形で明かすだなんて。
 すでに覚悟していた、あの時の出来事のせいで、こんなことになってしまうだなんて。

 あ、そうなのか。
 遅きながら、私はやっと、その理由に気づく。
 私にとって、綾観雫って女の子は、そこまで大切な人だったんだ。
 あの時、あそこまで自分を動揺させるくらい、大好きな子だったんだ。
 たしかに、秀樹のように体は求めてないかもしれないけど、赤の他人にだけは決して思われたくない。
 ……たとえ、それが今まで、雫の知らない私の姿だったとしても。
 普段なら決してやらないくらい、自分勝手なことだって、こんなふうにやってしまうくらい。

 でも、もし今の行動ではなく、他の選択肢を選べなきゃいけなかったとしたら。
 私はいったい、何を選べばよかったんだろう。
 果たして、「正解」と言えるものはあったんだろうか。
 結局、あの出来事がきっかけで、こうなってしまったのがいちばん望ましい道だったのかな。

 そんな意味もないことに想いを寄せながら。
 私はそこで、雫をずっと見つめることしかできなかった。