「それで、私、秀樹と付き合うことになって」
「あら、そう?」
その日の夜。久しぶりにお姉ちゃんと、二人きりになれた日に。
私はようやく、それを打ち明かすことができた。
実は、お姉ちゃんにこんなこと、話すだけでくすぐったいけど……。
それでも、やっぱり、こんな「悩み」を聞いてくれそうな人は、お姉ちゃんしかいない。
――私と同じ、「普通の人」ではなくなったことのある、お姉ちゃんしか。
「それでね、私」
そんなことを思いながら、私は、話を続ける。
「とても嬉しいし、幸せなんだけど、その、私でいいのだろうか、って」
「どうして?」
「だって、秀樹は普通に生きていけたはずなのに、私のせいで、普通じゃなくなっちゃったから――」
「え、橘くん、柾木ちゃんにそんなこと言ってたの?」
「いや、別に、そんなわけじゃないけど、どうしてもね」
そう、私は未だに、悩んでいた。
別に秀樹は、私を責めたりしていない。むしろ私のことを、困るくらい深く愛してくれていた。
ま、まあ。まだ付き合って一ヶ月も過ぎてないし、それはちょっと置いといて……。
「私、秀樹とえっちなこと、やっちゃったから。その、別の姿で」
「あら、そうなの」
「そ、それに、昨日はその、私が好きな黒ロリを秀樹が着たまま、その、え、えっちなことを……本能のままに……」
ああ、また恥ずかしくなってきた。昨日のことが、再び蘇る。
秀樹が私のことを好きなのは、本当だ。それは、今までの出来事で、よくわかっている。
だけど、だからこそ、今の私は、いつか上手く行かなかったらどうしよう、と思っていた。
「そうね。柾木ちゃんって、あの服が大好きなんだから」
「こんなこと、絶対に普通じゃないよね。だから、いつか嫌われたらと思うと、怖くて」
そう、私はその可能性を、何よりも恐れていた。
たぶん、これからも私と付き合うと、そんな、恥ずかしいことばかりされると思う。
だから、私みたいな変な女の子、いや、人間と付き合って、果たして大丈夫なんだろうか、と心配してしまうんだ。
――初めてだから。
誰かを、こんなに好きになったことは。
「つまり、柾木ちゃんは不安なのね」
私の話を聞くと、お姉ちゃんは、そう言いながら微笑んでくれた。
「わかるわ、その気持ち。わたしだって、そうだったもの」
「お、お姉ちゃんも?」
「うん。わたしだって、普通じゃなくなったからね」
まるで遠いところを見つめているような口調で、お姉ちゃんはそう語る。
そうだ。お姉ちゃんだって、そういう悩みはあるはずなんだ。
「恥ずかしい時だって、もちろんあった。それは柾木ちゃんも同じだよね?」
「う、うん。私だってそうだよ」
慌てながらも、私はそう頷いた。
そんなこと、言い出すと本当にキリがない。
たとえば、自分を慰めることとか。
今ではずいぶん慣れたものの、初めての頃は、どれくらい大変だったか――
それは、だいたい二年くらい前のことだった。
あの時、私は本能のままで、「胸が大きい」自分好みの女の子たちが出てくる写真とか、とにかくそういうのを見ながら、自分を慰めていた。
ものすごく、後ろめたい気持ちだった。だが、どうしてもそれを止められない。
――何やっているんだろ、私。
あの頃の私は、子供の頃の自分との矛盾、「女の子」であるはずの自分が、「別の姿」でこんなことをやっているという悩み、そして「自分って、いったいなんだろう」という混乱を共に抱いていた。
だが、結局、それをやめることはできなかった。
今になってはずいぶんマシになったが、未だに私は、それに悩んでしまうことがある。
「あら、柾木ちゃんもそうだったのね」
勇気を出して、あの頃のことを話してみたら、思いの外、お姉ちゃんはそう頷いていた。
「え、お姉ちゃんも?」
「もちろん、私だって、実はすごく怖かったの」
いつものように優しく微笑みながらも、お姉ちゃんはそんなことを淡々と口にした。
ちょっと驚く。お姉ちゃんのことだから、どれだけ「別の姿」だとは言え、そういうのとは無縁なんだろうと思いこんでいた。
でも、そんなわけがない。
お姉ちゃんだって、れっきとした「女の子」なのだから。
お姉ちゃんの話によると、自分も初めて「ああいう衝動」に侵された時には、怖くて怖くて、どうすればいいのかかなり悩んだらしい。
だって、お姉ちゃんのことだ。お淑やかで、そういうことに積極的な性格でもない。そもそも、お姉ちゃんはあの時まで、「元の姿」でそういうのをやることもあまりなかったようだ。
だが、さすがに「別の姿」になってからは、自分の内なる衝動に勝てられなくて、結局心の向くままに「励む」しかなくなったってことだ。
「だから、柾木ちゃんのその気持ち。わたしにはよくわかるな」
「そ、そうなんだ。お姉ちゃんも……」
あまりにもいつものような態度のお姉ちゃんに、私は戸惑う。お姉ちゃんだって、あの頃はずいぶん辛かったはずだ。なのに、今のお姉ちゃんは、とても平穏に見える。
「今でも辛い時は時折あるの。わりと乗り越えた気はするけどね。でも、あの頃には本当に大変だった。わたしだって、柾木ちゃんのように何度も悩んだんだから」
私が戸惑っていることに気づいたか、お姉ちゃんはくすくすと笑いながらそんなことを語る。そうだ。お姉ちゃんだって、最初はまんざらでもなかったはずなんだ。
でも、やっぱり驚いてしまう。
私は今まで、お姉ちゃんはものすごく強くて、そんなことにはまったく悩まないだろう、と思い続けてきた。私にとって、お姉ちゃんはいつもそうだったから。
だが、それは違う。
お姉ちゃんだって、「普通」の女の子だから、それで悩むのは当たり前なんだ。
「もちろん、それ以外にも辛い時はあったの」
お姉ちゃんは、話を続ける。
そもそも、私と違ってたいへん女の子らしく育てられたお姉ちゃんにとって、「別の姿」での生活は決して容易くなかった。初めて「男たるもの」を経験した時、同僚たちと付き合う時、いつもお姉ちゃんはものすごく悩んでいたらしい。
それに、今の私とは違って、あの頃のお姉ちゃんには、相談できそうな仲間すらいなかった。
もちろん、お姉ちゃんのことだから、あの頃の「何も知らなかった」私には、そんなことを打ち明けることすらできなかったらしい。だからお姉ちゃんは、いつものように「平然な」フリをした。変にそんなことが知られて、私が苦しむことは見たくなかったから、と言いながら、お姉ちゃんは穏やかに微笑む。
でも、私が知らないところで、お姉ちゃんは確かに困っていたのだ。
「それでも、わたしは今、ここにいる」
そんなことはあったけれど、お姉ちゃんはどうにか、今まで生きてこられた。
私が知らなかっただけで、お姉ちゃんは今まで苦しい夜をいくつも過ごしてきたし、ずっと手探りで「男」をやり続けていた。それでも、今、お姉ちゃんは確かに「ここ」にいる。
「でも、あの頃には、柾木ちゃんが本当にうらやましかったな」
昔を振り返るような口調で、お姉ちゃんはそんなことを言う。今なら、私にだって、お姉ちゃんの気持ちが、ちゃんとわかった。
……だからなんだろうか。そんなことを聞いてしまったら、お姉ちゃんを見るのが少々辛くなる。
だって、今までの私は、お姉ちゃんにずいぶんひどいことをしてしまったのだから。
「あの日」に、お姉ちゃんの「別の姿」を見て、私がとっていた態度。
今でも私は、忘れることができない。
「ごめんね、お姉ちゃん」
そんなことを思ったら、私は思わず、お姉ちゃんに謝っていた。こういうこと、くすぐったいからあまり口にはしなかったけれど、やっぱり、今は自分から話したい。
「いいの。わたしだって、柾木ちゃんの気持ちは十分わかるから」
そんな私の頭を、お姉ちゃんは優しく撫でる。
なぜだろう、今、私はとても、救われた気持ちになった。
限りなく穏やかな気持ちが、今、私を包み込んでいる。
「でも、わたしだって、柾木ちゃんのおかげで助かってるの」
そんな私をじっと見ながら、お姉ちゃんはそう語る。
私がこうやって「同じ立場」になる前にも、お姉ちゃんは、自分の心をわかってくれた私に感謝していたそうだ。私としては、やっぱり自分は頼りにならないかな、と思ってしまうけど。
でも、今の私たちは、お互いに頼り合っているって、私は信じてみたい。
こんな、他の人には決して言えない恥ずかしいことだって、私たち姉妹は、全部話し合うことができた。
「あの、お姉ちゃん、私、もっと話してもいい?」
そんなことを思いながら、私は今まで悩んでいたことを、もっとお姉ちゃんに打ち明かす。秀樹に思わず興奮してしまって恥ずかしいとか、雫とも最近大変だとか、そういう、他人に聞かれると恥ずかしいことを口にする。
でも、お姉ちゃんは笑わなかった。
お姉ちゃんは、いつものように微笑みながら、「わたしも大変だったの」と、私を落ちつかせてくれた。
ああ、これは自分だけじゃなかったんだ。
私はまだ、お姉ちゃんのおかげで勇気が持てる。
「自分はひとりじゃない」ことに、何度も安心してしまう。
きっと、これはお姉ちゃんも同じだ。
お姉ちゃんだって、こんなふうに、私に救われたりするんだ。
「ちなみに、わたしはね」
「うん?」
そんなことを思っていたら、いきなりお姉ちゃんが、私に話しかけてくる。
お姉ちゃんの場合、「別の姿」で自分を慰める時、ああいうのは写真を見るだけでも恥ずかしかったから、必死にイメージとか、そういうのを思い浮かべたそうだ。最初にはもちろん上手く行かなくて、何度も試行錯誤しながら、なんで自分がここまで熱心になってるんだろう、と辛くなったらしい。
それを聞いた私は、不覚ながら、いかにもお姉ちゃんらしいな、と思ってしまい、ちょっとふふっと思ってしまった。
お姉ちゃん、ああいうのには初心なのに、よくもあそこまでがんばれたな。
私も、お姉ちゃんがそこまで恥ずかしいことを明かしてくれて、よりお姉ちゃんが近くなったような気分になった。
いつか、お姉ちゃんとまた、こんなふうに話せるかな。
もしそうなら、今度は今までよりもっと、心の底まで明かしたいと、私はそう思った。
この頃の私は、そんなことばかり考えていて。
まさか、その次の日に「あんなこと」が起きるとは、考えもしていなかった。