マチロジ/ぐーたら警察、結城真尋をリバーシで負かせろ!の巻 その2

 少し時間が経ってから。
「さあ、ここよ。あいつのいる交番は」
「へーなかなか立派なところですね!」
「……あのさ、どこをどう見ればそんな意見になるわけ?」
 今、ヒマリたち、つまりヒマリと雪音、健太郎……の姿をした沙絵は、あの結城真尋のいる交番の前にやってきたところだった。ヒマリからすると、ここに来るのはずいぶん久しぶりである。
 だいたい二週間くらい前に来たのが最後だっけ。
 そこまで昔だったわけではないが、ヒマリとしてはほぼ毎日ここを通ったこともあったため、かなり間が空いたように思える。ここってびっくりするほど学校から近いのに、最近、ヒマリの周りが波乱万丈すぎたせいで、それところじゃなかった。
 あいつもあたしのことが気になってたんだろうな。ただでさえ、こっちをいじるのが大好きなやつなんだから。
 ともかく、久しぶりにやってきた交番である。いつもながら、本当にこぢんまりとした、何もないところだ。そもそも、あまり事件も起きないところなので、規模が小さいのも仕方ない話ではある。

 その四角い交番を見ながら、ヒマリがそんなことを思っていた時だった。
「ヒマリちゃん~! 会いたかったよ~~!!」
 その大きな声と共に、誰かが交番の中から、ヒマリに向かってまっすぐに飛びかかってきた。その声を聞いたヒマリは、急に背中がゾッとするのを感じる。
 あの高い背。あの茶色の長い髪。あのすごいスタイル。そしてあの張りがある、まさに姉御な声(仕事以外はズボラなのに)。
 間違いない。これはあのズボラ警察、結城真尋だった。
「ぶ、ぶぶぶ(離せ)! ぶぶぶぶぶ(離せゴラァ)!!」
 そのナイスバディ……っていうか、ふくらんだ胸にすぐ顔を埋められ、ヒマリは息が止まりそうになる。もちろん、喋ることすら叶わなかった。ここまで顔がばっちり埋もれてるのに、喋りができるわけがない。
 こいつはいつもそうだ。人を思いやるってことをまったく知らない。たしかにヒマリは女の子であるが、いくら女の子同士だとはいえ、これはひどかった。
 まったく、恥も知らないのか、こいつは。
 もう慣れたと思っていたが、やはり、ヒマリにこの過激なスキンシップは耐えられない。心の中でぶつぶつと不満を述べながら、ヒマリはどうにか、このデカい警察を突っ放した。
 やっとあいつから離れてみると、その見慣れた姿がよく目に入ってくる。
 背が高く、スタイルもよくて、ついでに髪も茶色に染めているから、遠くから見ると嫌でも目立つ女子警察。見ればわかる通りサバサバした性格で、警察としては頼れるが私生活はズボラ。
 そんなダメ人間がこいつ、この古井市の警察官――結城真尋だった。

「すごい、あのヒマリさんがこんなに……」
 ここまでヒマリが押されることを初めて見たからか、今は健太郎をやっている沙絵がそう驚く。頼むから、こんなことに感心しないでほしい。自分だって悔しいんだから。
 もちろん、雪音はすでに見慣れている風景であったため、ものすごく微笑ましいという顔で二人を見ていた(それもこっちが惨めになるからやめてほしい)。こうしてみると、今、ここに刹那がいなかったのは天運だと言えるかもしれない。あと、羽月もだ。
 たぶん、これを見られたらずっと笑い事にされたのだろう。そんなこと、考えたくもない。
 とにかく、今重要なことはそっちじゃなかった。
「あんた、いつも歓迎が激しすぎ」
「えっ、そう? だって、ヒマリちゃんかわいいし」
 ヒマリの不満げな話に、真尋は目を丸くした。なんでそこで驚くのか、ヒマリにはまったく理解できない。
 人のことを愛してくれるのは結構だが、もうちょっと、空気とかは読んでほしかった。こいつに求めてもしょうがない気はするけど。
 まあ、こうなったことだし、ヒマリはいっしょについてきた沙絵……つまり健太郎に向かって、真尋を紹介する。そもそも、今日はこれが目的だったからだ。
「こっちが『あの』ぐーたら警察の結城真尋。見たとおり、空気が読めないやつよ」
「それは失礼ね。ヒマリちゃんだからよ。こうするのは」
 ヒマリがてきとうな口調でそう紹介すると、今度は真尋が不満そうな顔をした。もちろん、ヒマリはその視線を無視する。
「えっと、すごく姉御っていうか、そういう感じの方ですね」
「まあ、それも見たとおりね」
 沙絵の話に、ヒマリはそう頷く。それを聞いて、真尋はいきなり照れたような表情でそっと視線を逸らす。
「姉御だなんて、そんな~」
 それを見たヒマリは、もう呆れた顔になった。なんでここでテレテレしているのか、ヒマリにはますますわけがわからない。こいつのことが理解できないのは、いつものことではあるが……。
「でもこいつ、ぐーたらで残念だから、あまり頼りがいはないと思うけどね」
「あら、あたし、そこまでだらしない?」
「自分の顔を見てから考えてみなさいよ」
 そう言いながら、ヒマリは思わず頭を抱えていた。こいつのズボラな性格は、ヒマリだけが知っているわけじゃない。そもそも、ここに勤務する警察ならば、あいつの席を見ただけでそれがすくわかるはずだった。
「たしかにぐーたらかもね」
 となりの雪音も、ヒマリの視線を追って、真尋の机を見ながらくすくすと笑う。それもそのはずで、真尋の机はまるでゴミ箱のような込み具合だった。いったいどこに何があるのかすらよくわからない。
 ちなみに、雪音にはこの交番にいっしょに来たもらう時が何度かあったため、真尋とはすでに顔知りだった。
「大丈夫大丈夫、あたしにはすぐわかるし」
 本人はのんきにそう言っているが、それのどこが大丈夫なのか、ヒマリは気になって仕方がなかった。こいつは昔からこうだったけど。
「まあ、警察なんだから、お仕事さえきちんとできてればどうでもいいだろうけど……あんた、やっぱりだらしなさすぎるんじゃない?」
「あたしはこれでいいと思うけどね」
 ちょうどいいと思ったヒマリがそれを口にしてみると、真尋はいつものように、のんびりした口調でそう答えた。
「だって、警察がズボラだというのは、この町が平和だという証でもあるし、別にいいんじゃないかな?」
 なんてことを言っているこいつ、真尋を見ながら、ヒマリはまた頭を抱えそうになる。だから、なんでそうなるんだ。自分で言いながらおかしいとは思わないのか。
 まあ、平和すぎるところではあるけど。主なお仕事が時折出てくる不良をなんとかすることくらいだし。

「で、こっちがヒマリちゃんの彼氏の――」
「ちげーよ!!」
 真尋がいきなり変なことを言ってくるせいで、ヒマリは思わず突っ込んでしまった。そういや、ここに来た理由の一つには、このしょうもない思い込みをなんとかする、というのもあったっけ。
「え? じゃ、なんなの?」
「ただの知り合い! ってゆーか、あんたはあたしと異性がいっしょにいると、みんな彼氏に見えるわけ?」
「うーん、でも、ヒマリちゃんってもういい年……」
「喧嘩売ってんのかコラ」
 さりげなくこっちの歳を明かそうとする真尋を睨みながら、ヒマリは頭が痛くなるのを感じた。これ以上話がおかしくなる前に、この状況をなんとかしなければならない。
「ん? ヒマリさんって、てっきりわ……あ、違った、僕と同い年じゃなかったんでしたっけ」
「別にそんなのはどうでもいいわ。まあ、健太郎くらいなら同い年に見えなくもないけど」
「ヒマリちゃん、ここではちゃんと健太郎くんを紹介しておかないと。話が先走ってるわ」
「あ、そうだった。こいつは月島健太郎。ただの友人だから。決して付き合ってるとか、そういうわけじゃないから。OK?」
 ヒマリがそう言ってから、沙絵、つまり健太郎も頭を下げる。どうやら、このお嬢様も今度はしっかりと冴えない男をやってくれるようだった。まあ、どこか抜けてるというところだけ見ると適任だし。
「はじめまして。その、月島健太郎と申します。これからよろしくおねがいしますね」
「わーお、礼儀正しい! さすがヒマリちゃんの認めた男!」
「……ちょっと、なんでいきなりそうなるわけ?」
 ヒマリはまた真尋を睨んだが、こいつは今度もへっちゃらな顔をしている。これだからこいつは好きじゃない。どう出るかわからないし、勝手に話を広げるし。
 そういや、何か忘れていた気がする。
 なんだろう。ここに来たら、すぐ思い出すレベルの話なんだけど……。

「まあ、こうやって久しぶりに顔も見れたし、ヒマリちゃん、今度も勝負しない?」
「あ、そうだった。最近はやってなかったっけ」
 それを聞いたヒマリは、思い出したという顔になった。そうだ、こいつと来たら、もちろん勝負に決まっているのだ。
「で、種目は何?」
「えっと、ヒマリちゃんがよければ、あたしはリバーシにしたいと思ってるけど」
「リバーシ?」
 その単語を聞いて、ヒマリは目を鋭くした。真尋にリバーシと来たら、ヒマリが反応しないわけがない。
 もちろん、他の勝負だって負けたくないことに決まっているが、リバーシは「絶対」に負けたくない、ヒマリにとってはトラウマのようなものだった。
 それを今になってまた引っ張ってきたのか。
 あまり思い出したくない痛い記憶が、ヒマリの頭をよぎる。

 それは何年か前のことだった。
 その日もいつものように、ヒマリは真尋と勝負をしていた。その日の種目もリバーシだった。黒と白の駒があって、いちばん駒が多くなった方が勝つ、実にわかりやすいゲームである。
 あの時のヒマリは、ものすごく軽い気持ちで勝負に挑んでいた。これから自分が、どれくらい悲惨な目に合うのかはまったく考えずに。
 ――よし、これなら行けそうだな。
 最初は悪くなかった。いつものような流れで、誰が勝つかわからない状況だった。
 だが、ゲームが進めば進むほど、状況はヒマリにとって、だいぶ怪しくなっていった。誰からどう見ても、真尋の黒い駒がヒマリの白い駒より多くなり始めたのだ。
 とはいえ、リバーシというのは最後までどっちが勝つかわからないからこそ面白いゲーム。ヒマリだって、負けそうになった時に逆転で勝ったという、スリル溢れる体験をしたことが何度もある。
 だから、さすがにこのままで終わるハズはないだろう、と思いながらゲームを進めた。後にやってくる悲劇なんかは思いもせずに。
 ――これは、なんか違う。
 だが、ヒマリは次第に焦り始める。何せ、自分の白い駒があと2つくらいしか残ってなかったからだ。
 ここまで一方的な状況は、今までなかった。ヒマリだって、リバーシは何度もやっている。なのに、ここまで自分がひどく追い込まれたことは初めてだった。
 ――このままじゃ、ひょっとして……。
 心で冷や汗をかきながら、ヒマリは今できる全てを尽くす。今のヒマリには、それしかできなかったからだ。諦めずにやっていたら、奇跡は起こるかもしれない。
 しかし、現実は残酷だった。
「あ、あああ……なんてこと……」
 ヒマリは自分のたった一つしかない白い駒が、無情にも真尋によって黒になっていく光景を目の前にする。ショックところか、頭すら白くなっていくような大衝撃だった。
 まだ盤面は埋まっていないのにもかかわらず、ヒマリは完璧に負けてしまったのだ。これは屈辱だ。こんな負け方ってありかよ。いや、別に真尋がズルしたわけではないんだけど。

 ともかくあの時、ヒマリは、真尋が自分をコテンパンに負かすことを見ることしかできなかった。これがあの有名な、「9・22ヒマリちゃんコテンパン事件」である(名付け親:真尋)。ヒマリは絶対に思い出したくない事件だが。
 未だにヒマリにはトラウマの一つになっている、辛くて悲しい事件だった。これを他の人に話すとなぜか誰にも共感してもらえないが(そしてヒマリは、それにだんだんイラつく)。
 ついでに、真尋はあの事件がすごく気に入ったらしく(そりゃ、自分が圧勝したから当たり前だが)、これを色んな人(主に同僚の警察)たちに自慢しまくったため、ヒマリは別の意味で、この交番ではかなりの有名人になってしまった(こんな有名人なんてすぐにやめたいが)。
 こんなので有名になっても、もちろんちっとも嬉しくない。これも全部、このぐーたら警察のせいだった。なので、ヒマリは勝負事、特にこのリバーシでは、こいつ、真尋に負けたくなかったのだ。
 
 ということで、ヒマリがこの勝負に乗らないという選択肢はなかった。
「ともかく、ヒマリちゃん、今度勝負しない? 今日はちょっと無理だけど、あさってとか、どう?」
「当たり前でしょ。あたしが逃げるとでも?」
 ヒマリは強い口調で、そう言い返す。こいつにどうにかして勝つのは、ヒマリにとっては最重要課題だからだ。
 最近はいろいろあってそれところじゃなくなったけれど、今は違う。今度こそ、こいつを完璧に叩き潰してやろう。
「あ、ちょっと待ってて。そういや、今度はそっちの方が面白いかも……」
 だが、真尋は目の前の健太郎がすごく気に入ったらしく、急に話を変えてきた。いきなりなんだこいつ。ヒマリはなぜか、そんな真尋がとても不安に思えた。
 そして案の定、その不安は的中することになる。
「いや、あたしはやっぱり、この月島くんと勝負したいけど。ヒマリちゃん、この人、ちょっと借りてもいいよね?」
「は?」
 その話に、ヒマリの目は点になる。こいつ、今何話してんだ。あたしじゃなくて、となりの健太郎……つまり、沙絵と勝負って?
「だって、ヒマリの彼氏……ではないにせよ、あのヒマリちゃんが認めた男なんだもの。あたし、けっこう気になるんだよね」
「いや、だから……」
 そんなことを言いながら、真尋は興味津々な顔で健太郎を眺める。ダメだ。こいつ、こうなったらまったく人の話を聞かない。どれだけ抗議したって、たぶん無駄だ。
 なら、結論は一つ。なんとかしても、この健太郎であいつ、結城真尋に勝つしかない。そのためには、もちろん「中の人」をなんとかするのが大事だが……。
「じゃ、勝手にしなさい。どっちにせよ、こっちが絶対に勝つんだから」
 まあ、なんとかなるだろう。
 今のヒマリは、ただ、そう信じるしかなかった。

 そして、交番を出てから。
「なんかすごいことになってきたわね」
「まあね、こうなるなんて思いもしなかったけど……」
 雪音の話に、ヒマリはため息をつく。できるのならば、あいつ、真尋は自分の手で成敗(ゲーム的な意味で)したかった。あいつには負けられない理由が多すぎる。ぶっちゃけ、そこまで大事な勝負を他人に任せるだなんて、ヒマリにはとてもできないことだった。
 だが、こうなった以上は仕方ない。あまり頼れない相手ではあるが、はっきり言って、ヒマリを除くとこいつ、沙絵がいちばんマシではあった。これがもし刹那とかだったら、ヒマリの話を聞きそうにもないし。
 で、こっちはどうなんだろう。
「あんた、リバーシってやったことある?」
「えっと、それってオセ……」
「その呼び方はナシね。ともかく、やったことは?」
「その、少しやったことはありますけど……」
「まあ、いい。これからぎっしり叩き上げればいいだけだし」
 こっちは無知すぎるのがかなり不安だな。わかってはいたことだが、ヒマリにとってはあまりよろしくないニュースだった。
 とはいえ、なんとかなるはずだ。これからヒマリがそうさせればいい。
「ともかく、あんた、絶対に負けちゃダメだから。わかった?」
 ヒマリは健太郎……っていうか沙絵の胸ぐらをつかみつつ、思いっきり睨みながら声に力を込める。当たり前だ。どれだけ代理戦だとはいえ勝負は勝負。ヒマリの代わりに出る健太郎が真尋に負けるだなんて、そんなこと、承知できるはずがない。
 それはそうと、自分より背が高いやつがすぐ目の前にいるとなんでここまでムカつくんだろう。いずれは自分もこいつの中に入るというのに。
「は、はい」
 沙絵もどこかプレッシャーを感じたか、いきなり胸ぐらをつかまれたのにビビったからか、固くなった顔でそう頷いた。ひょっとしたら、ヒマリの勢いに動揺しているのかもしれない。沙絵も今まで、ここまで真剣な勝負をした経験とかはなかったのだろう。
 よし、ならば訓練あるのみだ。
 ヒマリは心の中で、そう決める。あんなぐーたら警察野郎、今度こそボコボコにしてやるんだから。