「あれ? あんた、なにやってんの?」
その日も遅く学校に戻ってきたヒマリは(すでに真夜中であった)、紗絵がグラウンドで、とある女の子をおんぶしていることを見つける。話を聞くと、最近よくここに現れて、こっちに甘えてくるため、こんな風に紗絵がいっしょに遊んでくれているらしい。
「子供?」
紗絵がそう話すと、ヒマリはうさんくさいという顔をする。紗絵はいつものようなゆったりした口調で、ヒマリを見ながら首を傾げた。
「でもこの子、かわいいんですよね。お母さんとはぐれちゃったのかな?」
さすがお嬢さまと言うべきか、こんな時にも揺るがない。普通なら、たぶんそれを先に聞いてみたはずなのに、このお嬢さまはどうやら、その考えが浮かばなかったようだった。
「どうだろうね。今のような時間に一人でここまでやってくる子供……交番にでも連れて行った方がいいかしら」
「ん? 警察?」
ヒマリのその話に、女の子が反応した。
「あ、そういや不思議なことがあったんですよね。この子、ここの近くまでいっしょに行ったんですけど、誰も気づいていないようでした。わたしの方はみんな気づいてくれるのに……なぜでしょう?」
「何、幽霊とでも言いたいわけ?」
「えっと、ひょっとしたら?」
だが、それを聞いていた女の子は、急にキョトンとした。まるで、自分でもよくわからない、という顔だった。
「えっ、幽霊なの、俺?」
「えっ?」
「あ?」
これにはヒマリも紗絵も、目を丸くしながら女の子をじっと見ているだけだった。
話を聞くと、女の子も自分については曖昧らしい。記憶がおぼろげだというのだ。でも、なぜか今は夢を見ているような気分だとも言う。そういうわけで、自分の名前もあまり覚えてないらしい。
いちおう、紗絵が普通に触れるし、ヒマリも女の子に触れるのから考えると幽霊とは違うような気もした。そもそも、ここにいるのが「なんでも引き寄せる可能性がある」紗絵であるため、真実がなんなのかはまだわからない。
「でも、この街に俺が住んでるのは間違いないよ」
とは言え、こんなことを言っているので、女の子はここの住まいなんだろう。そもそも、この街で迷っているような素振りはまったく見せなかった。
「それじゃ、この子の正体はなんでしょう」
「さすがに幽霊というオチは……ないと思うけどね」
「でも、他の方には見えないようですし」
「いや、たしかにあんたが以前そんなことを言った時から意識はしてたけど、さすがにこれはちょっと違うような……」
「以前?」
「あんたが自分ん家の話してた時に決まってるんでしょ!」
紗絵のとぼけた話に、ヒマリはそう怒ってみせた。ヒマリも幽霊はあまり好きじゃないが(決して怖いわけではない)、この子は幽霊としてはどこかおかしい。なんか別の事情があるんじゃないだろうか。
「一体なんなんだ……むむむ」
ますますよくわからなくなったため、ヒマリは一人で考え込む。とはいえ、何の手がかりもないのに、いい考えがそう容易く浮かぶわけはなかった。
次の日、あの子がいなくなったことを見て、ヒマリは紗絵に聞いてみた。
「そういや、あの子は?」
昨日、夜明けまで女の子の相手になってあげた紗絵は、その話におかしいという顔をした。
「それがですね、すごく不思議なんですよ。あの子、日が昇るとすぐ消えてしまうんです。でも、次の日の夜になるとまた現れるんですよね。なぜでしょう?」
「なんでそれを昨日話さなかったわけ? めっちゃ重要な情報でしょうが」
「それが、本人のいる前でそんなこと言うと、あの子が辛そうな気がして……あの子も自分が夜明け頃に消えて、次の日の夜にまた現れるという自覚がなさそうなんです」
「へーそうなんだ」
それを聞くと、あの子がますます謎めいているように思える。この中でいちばん不思議な存在である紗絵が首を傾げるのもおかしい話ではない。結局あいつはなんだろう。ヒマリはやはり、もう一度これを考えてみたい、と思った。
「つまり、あの子は幽霊ではなく、誰かの魂というわけね」
その後、少々考えてから、ヒマリはそんなことを言い出す。いつものように、適当な教室で昼飯を取りながらだった。今日の献立は普通のあんこパン。シンプル・イズ・ベスト、実に素晴らしいことである。
「魂?」
いっぺん、となりでミルクを飲みながらその話を聞いていた刹那は、ヒマリの言うことがよくわからない、という顔をした。もちろん、刹那にもあの子の話はしてある。
「本体が別にいるのよ。その本体の魂が、夜になるとそこを抜け出して、この街の周りをぐるぐると回るわけ。まあ、本体も女の子だとは言い切れないけどね」
「だから、どういうこと?」
刹那がまた聞くと、ヒマリはこう答える。
「絶対にそうだとは限らないけど、つまり、魂が女の子として具現化しただけで、本体はまったく違う人間、というのもありえるって話」
つまり、その本体の本心が、女の子の形として現れただけで、実際に女の子であるとは限らない、ということだった。あの子の「俺」という喋り方からすると、わりとありえる話ではある。ヒマリが自分勝手に考えてみたことではあるが。
「ぶっ飛んだ話ね」
刹那もそう言いながら、特に否定はしなかった。やはり、この考えはある程度間違ってはないらしい。たぶん。
その日の夜。
「また遊びに来たよ!」
昨日のように、女の子はまたこの学校に現れる。やっぱり来たか、ヒマリは心の中でそう頷く。
「あら、この子は誰かしら」
今度はいっしょにいた雪音が反応を見せる。そういや、この子は小さい子に目がないのだった。
もちろん、雪音にもこの話はしている。ちなみに雪音の反応は、「素晴らしいことね」だった。だから何がだ。
「そうなんだ。可愛い子ね。ぎゅっとしてもいいかな?」
そのせいか、雪音は相手が頷くよりも早く、その前に座り込んでから女の子をやさしく抱きしめる。雪音らしいと言えばたしかにそうだったが、何もかもが急すぎた。
「あんたもいきなり何すんのよ」
「いい子ね、暖かいわ」
ヒマリは呆れていたが、雪音はそんなことも知らんふりで、女の子を抱きしめたままである。ぼうっとした顔をしていた女の子は、ふと正気に戻ったからか、すこし強張った顔になった。
「こ、このお姉ちゃん怖い」
女の子はそう言いながら、すぐ雪音から離れる。雪音の魔性と言うべきか、いきなり強く抱きしめられたのがかなり衝撃だったようだった。それでも雪音は気を病まずに、くすくすといつものように笑う。
「あらあら、なぜかしら」
「あんたがいきなりぎゅっと抱きしめてくるから、いちおう子供には刺激が強すぎたんでしょ」
「そうなのかな?」
「あんたは自分のことを知らなすぎ」
雪音のとぼけた答えに、ヒマリはまた呆れた顔をする。この子といっしょにいると、ほんとうに突っ込むのが大変だった。
ともかく、雪音から解放された女の子は、いきなり近くにいた刹那へと寄ってくる。
「刹那お姉ちゃん、いい子いい子して!」
「い、いきなりそんなこと言われても……」
そう戸惑う刹那だったが、そこまで迷惑だとは思ってないらしい。刹那もその甘えには勝てなかったか、結局女の子の頭をやさしく撫でた。
「はいはい、あなたはいい子ね」
「えへへ、気持ちいい」
女の子は目を閉じて、そう喜ぶ。誰からどう見ても、純粋な子供の微笑ましい笑顔だった。
子供って、ほんとうに得だな。
それをぼんやりと眺めながら、ヒマリはふとそんなことを考える。
それから、みんなパンなどで遅い晩御飯を食っていた時、女の子は一人で鏡をじっと見ていた。どうやら、そこに映る自分が不思議らしい。もし、いつもの姿がそれだとしたら、あそこまでじっと鏡に見とれることはなかったのだろう。
実は、女の子自体はたしかにかわいらしいところも多いが(今は光のある明るいところなので、それがよくわかった)、どっちかと言うと素朴な、やや男の子っぽい印象もあった。いちおう髪は肩まで伸びているけど、あまりキラキラとした印象ではない。まるで遠慮したような、そして「本物」を投影したような姿。ヒマリは密かに、じっと女の子を観察する。そういや、女の子が着ている服もいちおうワンピースっぽいやつだが、女の子の顔のように淡々としていて、これまた遠慮しているような感じだった。
――できる限りかわいいことを抑えている女の子って、いったいどのような状況なんだろう?
ヒマリは、そんなことに考えを巡らせる。もちろん、それを眺めていたって答えが出るわけでもないので、ヒマリも自分の食事を済ませた。
そうやってパンを食べ切ったヒマリは、今度はあの子が教室の隅っこで、一人で何か考え込んでいることに気づく。はっきり言って、とうてい子供だとは思えない顔をしていた。むしろあの表情だけ見ると、ヒマリよりも年を取っているように思える。
……まるで夢から覚めたような顔だな。
なぜか、ヒマリはそんなことを思った。
その日の夜、もうすぐ夜明けが訪れる頃、1階の保健室で深く眠っていたヒマリは、とある音に目を覚ます。
「なんだろ、さっき音が鳴ったような気が……」
そんなことを思いながら扉の向こうを覗いてみたら、あの女の子が静かに外へと出かけている。誰にもバレないように気をつけているような、密かな足音だった。
――あいつ、どこへ行くのだろう。
それを見たヒマリは、ふと、さっきのあの子の様子を思い出した。どこか寂しそうな印象だったことを今でも覚えている。まるでやさしい夢から覚めたような、「大人びた」顔だった。
少し考えてから、ヒマリは自分も出かけようと決める。そう思ったら即実行がヒマリのモットーであるため、そのまま息を潜めて外に出ようとした時だった。
「あら、ヒマリちゃん、こんな夜にお出かけなのかしら」
「な、なんだ。驚かさないでよ。雪音」
少しの間ビビっていたヒマリは、それが雪音の声だということに気づき、ハッとする。そういや、今日は一階の保健室で雪音といっしょに(もちろん、違うベッドで)寝ていたのだった。
「ちょっと近くに出てみるだけ。気にしなくてもいいから」
「やっぱり、ヒマリちゃんは人のこと、放っておけないんだよね」
「うっさい」
その話を聞くと、雪音はいつものようにくすくすと笑う。ヒマリはいつものようにツンケンとした態度を見せてから、そのまま廊下へと出かけた。
いくら真夏だとはいえ、まだ夜の4時半くらいだからか、周りはかなり暗かった。ヒマリは校舎の外に出て、グラウンドの近くにある階段の方へと降りてゆく。
虫たちの声以外には何も聞こえない、やけに静かな夜だった。だが、その階段の下の方には、例の女の子がひとりで座り込んで、グラウンドをぼうっと眺めている。
「何一人で考え込んでるわけ?」
「び、びっくりしたんじゃないか……あ」
ヒマリがそう声をかけると、女の子は思わずそう答えてから固まった顔をする。ヒマリももう、その大人びた表情の意味にだいぶ気づいていた。まだ本人から話は聞いてないが、およそ見当はつく。
「まあ、なんか変な雰囲気になったんだけど、あたしの推理、披露してもいい?」
ともかく、女の子のとなりに座り込んだヒマリは、すぐそんなことを口にする。
「……推理って?」
「あんたがあたしたちを除いた他の人には見えないということ、そして、あんたの仕草とか口調とか、あらゆることと、うちの誰かさんの持つ変な力から勝手に考えてみたんだけど、あんた、実は女の子じゃないでしょ」
「ズバズバ過ぎるんじゃないかい?!」
ヒマリの推理にそう驚く女の子だったが、その態度ですでに答えは出ているのと同じだった。
「もう、隠しても無駄だな」
とはいえ、もうすっかり諦めたのか、女の子、ではなく、「男」は苦笑いする。姿も声も同じなのに、声の低さも、話していることも以前とはガラリと変わっていた。
「それはそうだが、俺も何がどうなっているのかはよくわからない」
それを聞いていたヒマリは、そうだろうね、と頷く。そもそも、この男にそっちの方の期待はあまりしていなかった。
「それはあたしにもわからない。たぶん、一生わからない可能性すらあると思うんだよね。まあ、このような状況でもつじつまが合うように、あたしなりの理論で説明してみましょう」
「ああ、頼む」
「まず、あんたは最近とても疲れていた。っていうか、自分では実感できてなかったけど心が参っていた。だから眠りにつくと魂たけが女の子になって、外に出てきたのだった、これでいったんどう?」
「たしかに、最近はつらいと思うことが多くて、妻や子供たちにも心配されていたな」
男は苦笑いする。どう思っても、幼い女の子から出てくるセリフではない。だが、それすら予想していたヒマリは、特に驚く素ぶりも見せなかった。
「で、それが女の子であった理由だけど、たぶん、その姿の方が甘えやすいから、じゃないの? これはたぶん、あんたの望んだものだと思うけど……つまり、今の自分と一番はなれていて、かつ都合もいい女の子がぴったりだったわけ。少なくても、あんたの無意識ではね」
「一理あるな」
ヒマリの話に、男はまた頷く。あまりにも現実離れした話だったが、もうヒマリは、こんなことを「紗絵の体質のせい」にするのが慣れている気すらしてきた。また、その紗絵と知り合って時間も経ってないのに。
「そこで、あたしたちにしかあんたが見えなかったのは……まず魂だし、普通の人には見えなくて当然たと思うわ。でも、ちょっと事情のあるあたしたちにはあんたが見えた。その理由だけど、こっちの都合よく解析するしかないわけだけど、あんたのことを受け入れてくれる存在として、あたしたちが適任だから、じゃないかな? もう不思議なことには慣れきってるし」
と、ヒマリは視線を逸らす。そもそもこれが紗絵の力のせいだとすると、ここで論理や説得力を求めるのはひどいことかもしれない。だから、ここではできるかぎり「それっぽい」感じで解析してみよう。
この男が癒しとか甘えなどを求めていたとしたら、やはり今、ここではヒマリたちに頼るのがいちばんいい。なによりも、ヒマリたちはこの「幽霊っぽい」存在を否定しないのだ。
「君ってすごいな。初めて出会った時から、ただ者じゃないなとは思ったが」
「そう? 別に普通だと思うけどね。あたしの勝手に想像してみただけだし」
「なら、そういうことにしておこう。で、今から少々おかしいことを話したいと思うが、聞いてくれるか?」
「はいはい、どうぞ」
男のその話に、ヒマリは軽く答える。少し間をおいてから、やがて男は話を始めた。
「たぶん君はこう思っていたのだろう。どうして、姿はこうなってしまったとは言え、いちおうおっさんである俺が、子供のように甘えていたかと。それはな、笑える話だが、自分でもよくわからない。なぜか初めてこうなった時に、ひどく記憶が薄くなっていたんだ。自分が誰なのか、なぜここにいるのか。それがどうしてもおぼろげだった。まるで夢を見ているように。だからそこまで、あのお嬢さんに甘えていたのかもしれないな」
「ふーん、そうなんだ」
ヒマリはそうやる気なさそうなことを言いながらも、真面目に男の話を聞いていた。あえていうと、あの幼い声でこんなことを語る男が少し滑稽に思えたが、それはまあ、ヒマリだって他人事じゃないし(健太郎的な意味で)目を潰しておこう。
「まあ、それでもどうにか口調だけは覚えていたようだが……ともかく、誰かに愛されたり、認められたり、それだけが嬉しかったわけだ。この年になって、褒められるのがこんなに気持ちいいってことに気づいてしまったんだよ。なんと言えばいいのだろうか……そう、やさしい世界だった。現実に飲み込まれて、ずっと弱い心を押し込んでいたわけだが、それはただの強がりだったようだな」
男は、話を続ける。まだ周りは暗いままだったが、もうすぐ、日が明けるはずだった。その時になったら、男はまた消えてゆくのだろう。今までとは違く、たぶん永遠に。
「とはいえ、どうやらそこまで気づくと、俺は自分を思い出すしかなかった。鏡に映る自分の顔を見た時、気づいてしまったわけだ。ああ、俺はもう十分満たされたな、と」
「へぇ」
「これがいわゆる夢だとわかったら、やることは一つだ。俺にも帰るべき場所がある。最近はなぜかこんなことになったため、家に戻ったらすぐ寝てばかりだったからな」
「そう、自分で前に進もうと思ったわけね」
ヒマリは軽く頷く。こういうのは、あくまでも本人の意思が大切だ。なので、ヒマリから言うことは何もない。
「……驚かないんだな?」
あまりにもいつもすぎる反応に、男はむしろ自分が驚いたという顔をした。まあね、とヒマリは頷く。
「いや、あたしは気づいていたわけだし」
「そうなのか」
「こんな状況だし、少しはありえると思ったよ。あんたみたいなケースが出るかもしれない、ってね」
男はしばらく黙っていたが、やがてまた口を開く。
「この歳に、こんな姿だとは言え、あんな娘のような女の子に甘えられたのは今でも信じられないな」
ヒマリは何も言わない。その気持ちもわからなくはないからだ。
「鏡の前で自分を取り戻してから、しばらくは恥ずかしくて顔も上げられなかった。ほんとうに、夢でも見ているような気分だったよ。自分が思い出せないくらい、まったく気にしないくらい、夢に酔っていたわけだ。まったく、いい歳して笑わせるというか……」
相変わらず、周りには誰も見かけなかった。遠くから聞こえてくる車の音とかを除くと、今はヒマリと男、二人だけの空間だと言える。
「あたしから見ると、そこまで恥ずかしがることでもないと思うけどね」
「自分が女の子でもなったように、いや、なっていたわけだが、ともかく甘えていたのに、そう考えられるのだろうか」
「男っぽい感情でも女っぽい感情でも、子供らしい欲求でも、別に、いまさらそれを感じるのはおかしくないと思う。誰だってそうなんだからね。特に、その欲求が解消されてなくて、自覚すらできていなかったらなおさら」
「今の俺のようにか」
「まあ、そうね。ぶっちゃけあたしも例外じゃないわ。ほんとうに、みんなそうなのよ」
ヒマリはそう答える。今吹いている風のような、軽やかな口調だった。
「むしろ、あんたは運が良かったかもしれない。遅くはなったけど、押し込んでた自分の欲求とか、何を望んでいたとか、この機会にわかったんでしょ?普通の人たちは一生それがわからずに死んでしまうこともあるからね」
「……そうかもな」
そこまで聞いた男は、苦笑いしながらもそう答える。まあ、普通の人なら、寝ている途中に魂が抜けて女の子になるとかありえないだろうが、そこは紗絵パワーということにしておこう。
ともかく、それを聞いて一人で考えていた男は、ふと、ヒマリをじっと見ながら、どこか気にかかるという顔をする。
「しかし、自分だけこんなに満たされてよかったのだろうか、とも思う。情けないが、俺より大変な人たちも多いだろうに、自分の辛さなんかは……」
「別にそうでもないわ。人間の持つ辛さとか大変なところは、みんな同じ重さなのよ」
ヒマリはそう話す。その声には、一瞬の迷いもなかった。
「誰かの辛さだけが大切で、他の人のはなおざりにされるべきとか、そんなことはないとあたしは思う。みんな辛かったり、大変だと思う気持ちは同じだもの。他の人の辛さが自分より軽いだなんて言い出す奴らは、ただ、他人なんて目に入っていないだけ」
ヒマリは続ける。
「もちろん、あんたの辛かったり、満たされたい欲求も、大切なものに決まってる」
今日のヒマリは、いつもに増して言い切っている。自分でもわかるくらいだった。でも、これだけは言っておきたい。自分に聞かせておく、という意味でも。
「そういうわけだから、あなたはもう大丈夫じゃない?これからはうまくやっていけると思うよ。そこまで自分のことがわかるようになったら」
「そろそろ、夢から覚める時間のようだな」
しばらくじっとしていた男は、ふと、そんなことを言う。見上げてみると、さっきまで暗かった空は、そろそろ朝日が昇りそうな明るい色をしていた。
こんな時だからこそ、こいつもカッコつけたくなったのかな。そう思ったヒマリは、あまり自分らしくはないが、こっちも合わせてやろう、と考える。
「そうね、いい夢は見られた?」
「まあ、君たちのおかげでな」
「そうだよね。そこまで子供になっていたのに、満足できなかったわけがないよね」
「君、俺になんか恨みでもあるのか?」
「いや? まったくないけど」
とは言え、やはりカッコつけてばかりじゃ面白くないから、ヒマリはいつものように軽く締めてみた。こいつが今消えると、もう、この姿ではまた出会えないのだろう、と思ったからだ。こんなことを言うのもアレだが、短い間だとは言え、繋がりのあった人と別れるのはどこか寂しい。
「じゃ、俺もそろそろ行くとしよう。しっかりと目覚めるためにな。君にはほんとうに感謝している。俺の娘のような年頃の女の子たちに、ここまで助かるとは思わなかった」
「まあ、縁があったらまた会えるかもね。あんたが覚えてるかどうかはあたしも知らないけど。幸せにね」
「なんか、これって照れくさいな」
「あんたはその姿だから余計にそうかもしんないけど、これは仕方ないんじゃない?」
「君には最後まで助かってばかりだ」
ヒマリの話を聞いて、男は笑う。そこまで面白い話をした覚えはまったくないが、この男のツボにはまったとしたら、それはそれで光栄だった。この街に住んでいるわけだからまた逢えるかもしれないけど、今はこの別れを大切にしたい。
「ああ、それと言い残してたんだが」
「何?」
そんな風に、ヒマリがしんみりと感傷に浸っていた時、男は予想外の爆弾をこっちに投げかけてきた。
「お前、意外と優しいな」
「い、言わせんな恥ずかしい!」
「なんで棒読みになるんだ」
男はそこで、また笑った。ほんとうに気持ち良さそうな笑顔だった。人を困らせておいて、なんでそこまでムカつく顔をしてるんだ。なぜかヒマリは、それがすごく悔しかった。
「じゃ、またな」
そこまで言って、男は立ち上がる。そしてヒマリに背中を見せたまま、ゆっくりと前へ向かって進んだ。
一歩一歩前に進むたびに、女の子の姿はだんだん元へ戻ってゆく。まるでスローモーションのように変わってゆく男の姿は、どこか魔法のようにも思えた。夢から覚める魔法って、あまりにもそれらしい。
ヒマリはじっと、それを遠くから眺めていた。何も言わず、ただ、それを見ているだけだった。まるで夢でも見ているような、おぼろげな気持ちがヒマリを包み込んでいた。これはあいつの夢だったのだろうか、それでも、あたしの夢だったのだろうか。
やがて元に戻った男は、校門をすり抜け、いるべきところへ向かう。自分がいるべき、家族のいるところへと。
「何がまたなの、バカ」
その人が町の向こうに消えてゆくのを、ヒマリは座り込んだままぼんやりと眺める。タイミングよく昇り始めた太陽の光に、男の魂は溶けるように消えて行った。
だが、もちろん、男が消えたわけではない。これから男はこの経験を持ったまま、遅きながら自分らしく前に進めるのだろう。なぜかヒマリには、それがよくわかった。
もう夜は明けて、日が昇ろうとしている時だった。暗かった周りも、だんだん明るくなっていくのが目に見えてくる。今日も暑くなりそうだった。
自分もあんなカッコつけたこと言ったのに、うずうずしてはいられない。そんなことを思いながら、ヒマリは階段から立ち上がる。
「それじゃ、あたしも行きますか!」
そしてヒマリは、力を入れてこう言い放つ。なぜか、これまた自分らしくないセリフであることには目をつぶりながら。