「な、なんなの?!」
その時、いきなり後ろから拍手が聞こえたため、ヒマリは思わず振り返る。
そこには、誰からどう見てもうさんくさい、スーツを着た20代後半くらいの男が立っていた。今、横にいる冴えない男とは違って、整った顔や洒落た仕草、それながら落ちついた渋い雰囲気が印象深い。なんていうか、あまり現実的ではない、そんな男だった。ついでに、声も落ちついていて低い。女の子なら一目惚れしてもそこまでおかしくない、大人の味のある男だ。
あえていうとイケメン、ではあるが、なんか胡散臭さのせいで「それだけじゃ言い切れない」と思わせる。どこか雰囲気が「重い」。それが渋い味を出している、と言われたらそれまでだが、やっぱり、ヒマリはそこが気に入らなかった。
「ともかく、あんたはいったい誰?」
「おっと、そうだったな」
と言ってから、ようやく男は自分のことを語った。
「羽月誠一(はづき・せいいち)だ。君たちにバラすわけにはいかないが、ある『組織』に属している」
「それじゃなんで『組織』なんちゃらをわざわざ口にするわけ?!」
「それはね、さすがにこれくらい言っておかないと胡散臭いと思われるからだよ」
「いや、あんたってすでに胡散臭いけど」
ヒマリが怒ると、羽月はムカつくくらい様になる仕草で、肩をすくめてみせた。やっぱりこの男、あたしとは合わない。この時、ヒマリはそれを確信した。
「そういや、こんな状況を作り出したのも……」
「違う。むしろ逆だ。『組織』からここで何かが起きてる、と言う話を聞いてやってきただけだぞ」
ヒマリが疑うような口調でそう言うと、男はそう頭を振る。いちおう、その態度から嘘は感じられなかった。こんな男なんて、そう簡単に信じられるわけがないけれど。
「そんなわけ……」
ヒマリが疑っていると、突然、誠一が消える。まるで手品でも見られたように気分になって、ヒマリは思わずびっくりした。
「こ、今度は何?!」
「ほら、俺だってこの輪の中にいるんだ。そうだろう?」
その時、ヒマリの後ろから、まったく聞いたことのない声が聞こえてきた。
そう、まったく聞いたことのない「高い」声が、ありえない方向から。
それを聞いて、ヒマリは戦慄が走ることを感じた。頭の中が白くなることを感じながら、ヒマリはどうにか、今の出来事を確認しようとする。
いや、だから、あたしと沙絵、そして刹那だけならまた納得もできた。もちろん、できるわけがないが、ともかく、なんとか受け入れることはできる。だが、今は一体なんだ? あの胡散臭い男も巻き込まれたとか、そんなのはどうでもいい。どうでもいいが……。
いや、だから、その、この変に高い声は、ひょっとして……。
「……逃げよう」
まるで自分の声ではないような気分を味わいながら、ヒマリはそうつぶやいていた。
この狂っている状況から、一刻でも早く逃げなければならない。もうおかしな出来事にはうんざりだ。どこでもいいから、こんなところからすぐ出てやる(雪音に罪はまったくないが)。
そうと思ったら、後は行動あるのみだった。
「ひ、ヒマリさん、どこいくんですか?!」
「あんた、ついに狂ったの?」
ヒマリがいきなり飛び出したせいか、沙絵や刹那はかなり動揺している。特に刹那は、珍しくもヒマリを心配していた。たぶん、そうだと思っておいたほうが楽だとヒマリは考える。
まあ、いいや。こうなった以上、ヒマリは近くのバイク(雪音所有)に乗ってそちらを見る。
「で、どうする? あんたたちもついてくる?」
「……正気?」
「えっと、つまり……ここの後ろに乗ればいいんでしょうか?」
こうして、ヒマリの無謀な、どこかに自転車で逃げてみる、というおかしな行動が始まった。
そういうことになって、自転車を漕ぎながら(ついでに、後ろに女の子まで乗せながら)、ヒマリはあらゆる不満をぶつぶつ口にし始める。ちなみに、やっぱり席が足りなかったため、刹那は雪音の持っていた別の自転車に乗っていた。もちろん、単にヒマリたちといっしょだと思われるのが嫌だった可能性もあるが。
「いったい、なんで、あたしが、こんな目に、合わなきゃ、いけないのよ……!!」
「すごいです! これが二人乗りというものですね!!」
「……あんたたち、バカなの?」
沙絵は相変わらずヒマリの心も知らずに、子供のようにめっちゃ喜んでいる。その後ろでどうにかヒマリたちを追いかけている刹那は、冷めた声で突っ込んだ。何度も言うが、ヒマリに罪はない。ただし、この光景を警察に見られてもそう思われるかはまったく謎だった。こんな夜明けに二人乗りだなんて、怒られてもおかしくない。
それに、ぶっちゃけ何の計画も建てなかったため、どこにいけばいいのかすらわからない。これじゃ酔っぱらいと同じだ。こんな状況で、勢いだけではなにも解決しないというのは、ヒマリもよくわかっていることだった。とはいえ、なんかいいアイデアがあるわけでもない。
こうなった以上、ヒマリに残されたものは――開き直りだった。
「えいっ、なんとかなれっ!!」
従って、ヒマリたちはまるで暴走機関車でもなったように、町のあっちこっちをぐるぐる回り続けた。それこそ、月が沈んで朝日が登る間、ずっとである。下り坂や上り坂、まだ人気があまりない町の駅、かつてヒマリの通っていた中学校、ヒマリの家から近い遊び場、こんな時間なのにヒマリたちの隣を過ぎ去る車やバス、今は寂しいが、日が昇れば賑やかになるはずの商店街、その近くにあるヒマリたちの秘密基地、朝から見かけるさまざまな猫や犬たち、えとせとらえとせとら。
まるでメリーゴーランドにでもなったように、ヒマリの暴走は止まらない。頭がぐるぐるするのは確かだったが、今は、ヒマリの心の中が遥かにぐるぐるしていたためまったく問題はなかった。後ろからはいろいろな不満(刹那)や感嘆(沙絵)が聞こえてきたが、それはヒマリの知ったもんじゃない。こっちだって大変なんだ。
なんであたしはここまで意味のないことをやっているのだろう。
ヒマリも悩み続けたが、そもそも、こんな状況にどうすればいいのかがどうしても考えられない。これでますます酔っ払いのようになってしまった。普段のヒマリなら、かなりありえない行動である。
「ちょっと、あんた、いつまでこんなのやってるつもり?」
相変わらず後ろについている刹那にそう聞かれてから、ヒマリはそろそろどこかにたどり着く必要があると感じる。そもそも、「あの男」にまたなってしまったりしたら、頭が痛くなりそうだった。
これくらいにしておこうか。ヒマリもそう思っていた時だった。
「あれって?」
それは、どこかの学校の校門だった。ありふれていて、普通なら過ぎ去ってもおかしくない、ただの校門。もちろん、校門があるということは、その向こうに学校もあるってことになる。今、あそこが開いているのを見ると、グラウンドくらいはちょっと借りられるかもしれない。つまり、体が休める。
じゃ、あそこにしようか。
そうして、ヒマリの自転車はめでたくどこかの学校の校門を突っ走る。早朝の六時のことだった。当たり前だが、空はもう明るくなっている。真夏の朝は早いのだ。
これでいいのか、あたしたち。
知らない学校のグラウンドへと豪快に滑り込む自転車の上で、ふとヒマリはそんなことを思った。
「し、死ぬかと思ったわ……」
「たいへん刺激的な経験でした!」
「はいはい、あんたは元気でいいね」
なんとか自転車を止めて、みんな無事に降りることができた。もちろん、後ろで追いかけてきた刹那も自転車から降りる。それぞれ感想を口にする中で、ヒマリは朝の空気のおかげで、酔いがすっと覚めるような感覚を味わう。そうして、ヒマリにはようやく周りを見渡す余裕が生まれた。
ふと見るだけでは、どこにもある古い校舎に思える。ここから見ると、あまり人気は感じられなかった。グラウンドだってそう。朝練とか、そんなことすらやっていないのか、と思えるレベルだった。適当に見た限りでは、管理もあまりされてないようだった。
そういや今は夏休みだっけ。
誰もいない(ように見える)校舎を見渡しながら、ヒマリはそんなことを考える。ならば、ここまで人気(ひとげ)がないのもわかる。だが、ここはちょっと、おかしいくらい静かだった。どれだけ夏休み中だとは言え、先生とか、学校に来る人がまったくいないはずはない。たしか今は朝だが、それでも、「ここまで」人がいないのは自然なことなのか? どうしても、ヒマリはそう疑ってしまう。
「……開いてる」
試しで入り口まで行ってみたヒマリは、扉が開いていることに気づく。今の時間は朝の六時。この時間に、人気もない学校の中に部外の者が自由に出入りできるというわけだ。誰でも簡単に入れるように開いていた校門も含めて、ますます胡散臭い風景である。
こうなった以上、試しに入ってみようか。
少し悩んでから、ヒマリは沙絵たちに目配りして、中に入った。
どうやら、ここは高校であるらしい。校門を見る余裕すらなかったヒマリは、中に入ってから初めてそれに気づいた。もう学校に通っていないヒマリは、この町にどんな高校があるのか、という知識には疎かったのである。
校舎の中には誰もいなかった。まるで死んだように、何の人気も感じられない。外で見た時と、印象がまったく変わらなかった。たしか、今は夏休み期間であるが、それでもここまで、学校の中が静まり返るのだろうか?
そんな、眠っているように静かな学校の廊下を、ヒマリたちは歩いてゆく。相変わらず、人は見つからない。ここまでくると、むしろ捨てられた建物に潜り込んだような、そんな気分さえしてきた。
まるで泥棒だな。
階段を上りながら、ふとヒマリはそんなことを思う。今まで、吸血鬼としては普通に生きてきたつもりだったが、まさか自分が、こんなふうに普通の高校を乗っ取るようなことになるとは考えてもいなかった。これなら仮に、警察がやってきたとしても言うことがない。まあ、まだセーフだろうとは思うが……。
そんなふうにあっちこっち回っていたヒマリたちは、ふと、遠くにいる科学室の扉が少し開いているのに気づく。ついでに、どうやらそこには人がいるようだった。
いったい誰?と思いながら、ヒマリたちはそこに向かう。何も考えずに、ヒマリはそのまま勢いよく扉を開けた。
「な、なんすか?!」
ヒマリたちがそこに襲いかかると(?)、科学室にいた誰かは体をビクッとして、こっちを向いてからさらに目を大きくする。ひと目で体育系だというのがよくわかる、スポーティーな髪型をもった男子生徒だった。たぶん、ここの物だと思われる夏服のズボンと薄いシャーツを着ている。これを見ると、どうやら男子高生はここの生徒らしかった。
男子高生もここには秘密で潜り込んだらしく、えらく慌てていた。これを見ると、案外小心者かもしれない。潜り込んだ同士として、仲良くできるかもしれないとヒマリは思った。
「あんたも潜り込み?」
「そう言われると、なんか泥棒みたいっスね」
「まあ、心配しないで。どうせあたしたちも一緒だし」
「そうでしょうかね」
そんなふうに話し合う二人を見て、刹那はまた呆れた顔をする。今のような状況で、それもこんなところで何をのんきに話し込んでいるのか、ということだろう。
「そんなことはどうでもいいんじゃない。で、飲み物とか、ある?」
「ま、あるッスけど……」
そうやって、ようやく涼しい飲み物(スポーツドリンク。どうやら冷蔵庫にあったらしい)をそれぞれ手にしたヒマリたちは、科学室の椅子に座って、今までの出来事を手短にあの男子高生に話した。もちろん喋っているのはヒマリの方で、沙絵や刹那はすでに聞いた話であるため、何も言わずにただゴクゴクとドリンクを飲んでいる。さすがのお嬢さまも、スポーツドリンクを飲んだのが生まれて初めて、というわけではなさそうだった。
「……マジっすか?」
事情を全部聞いてから(さすがに、吸血鬼のことは余計になるため言わなかったが)、男子高生はぼうっとした顔でヒマリたちを見る。それはヒマリこそ言いたいセリフだった。今は久しぶりに摂る水分があまりにもおいしくて、そんなところじゃないけど。
「ほんとよ。全部ね」
「よくわからんですが、その、おつかれさまっス」
ようやくペットボトルの中のドリンクを飲み終わったヒマリが、そう言いながら疲れ切った顔でため息をつくと、男子高生は憐れむような顔でこっちを見た。こんなところで労われるとは、まったく考えてなかったことだった。
もちろん、ヒマリたちの話が終わったら、今度は男子高生が自分の話をすることに決まっている。
話を聞くと、男子高生は学舎(築30年)がここから少し遠いところに新築されたため、これから取り壊される予定の旧校舎に潜り込んで、一人で趣味の小説を書いていたらしい。わざわざ家ではなく学校でやってるのは、バレたら恥ずかしいから、だそうだ。そもそも、この男子高生は野球部にいるわけだし、小説なんか書いてたことがバレたら恥ずかしい、というのはわからないわけでもない。
「ぶっちゃけ、小説ってオレのガラじゃないんですよね」
男子高生もそれは意識しているのか、照れくさそうな顔でそう言った。ちなみに、男子高生の名前は葉柴良平(はしば・りょうへい)らしい。さすがにこいつがあたしたちの事情に巻き込まれることはないだろう、と思いながら、ヒマリはこんなふうに良平と出会ってしまったことに少し同情した。
つまり、そんな理由でここまで人気が感じられなかったのか。そんな理由なら、ヒマリも納得せざるを得ない。
「そういや、雪音には何も話せなかったな……」
少し遅くなってしまったが、ここで一度、雪音に連絡を入れておく必要があるとヒマリは考えた。そもそも、いきなり巻き込まれたのは雪音も同じだ。いきなりヒマリがやってきたり去ったりしたため、雪音もどういう状況なのかわかっていないのだろう。
ついでに、あの冴えない男も連れてくる必要がある。どれだけ遠くにいても、あいつの中に引き込まれるのは確認済みだ。ならば、近くにいる方がいろいろと助かるのだろう。ヒマリとしては、こんな騒ぎなんてもう勘弁してほしかったのだが。
とにかくそう考えて、ヒマリはスマホをポケットから取り出す。どうやら、今日はえらく長い一日になりそうだった(また朝になったばかりだが)。