従って、ヒマリは雪音のいるところまで走る。理由は、ヒマリの中では数え切れないくらいあった。
まず、さすがにヒマリの家には二人もいられない、ということだった。ヒマリは一人暮らしで、住んでいるところも決して広いわけじゃない。刹那はどうやら家出らしいし、お嬢さまくらいには放っておけないとヒマリは思った。ならば一緒に過ごすのがいちばんてっとり早いが、ヒマリ一人でそれをなんとかするのは無理である。そこで、友人であり、自分の店で過ごしている雪音の力を借りる必要が出てくるのだ。
もう一つは、まあ、「今の状況」自体である。
これが沙絵とヒマリだけの問題だったら、ヒマリもここまで慌てることはなかった。だが、「なんの能力も持っていないはず」の刹那まで、この事件に巻き込まれてしまった。
ヒマリもいちおうは吸血鬼をやっているが、それでも普通の人と似たような、平凡な一日を過ごしてきた。こんなぶっ飛んだ出来事、今まで経験したことなんてまったくない。っていうか、なぜこうなったのかも疑問だった。
沙絵の持つ力? だとしても、何か原因とか、バックグラウンドとか、そういうのはあるはず。沙絵も、(自分の親の受け売りだが)「まったくなかったことを生み出すわけではなくて、すでにいたものを引き寄せるらしい」と言ってたから。
さっきの自分の甘い考え(そこまででもないだろう、のところ)を思い浮かぶと、今すぐにでも自分を一発殴りたくなるヒマリだったが、今はそんなことやったって何の意味もない。
ともかく、これは緊急事態だ。今すぐにでも、頼れる友人、雪音のそばに行かなければならない。幸い、今の時間なら雪音はきっといてくれるはずだ。こんな友人がいてほんとよかったな、と、ヒマリは自分らしくないことを思う。
そうやって、ヒマリはいつもお世話になっている、ある建物の地下へと降りた。
階段を降りると、すぐ「暗い」としか言えない広い部屋が広がっていた。だが、まったく光がないわけではない。あっちこっちに点いてある灯火(のような光)が、そこに何があるのかを淡く照らしていた。
こんな光なんてなくても、ヒマリはここに何があるのかよく知っている。ここの主である雪音とは、10年も近くいっしょに過ごしてきたのだから。
その部屋に足を入れると、微かながら確かな、小さな「音」を感じる。
チクタク、チクタク。
ここに初めて来る人だったらその音を不安に思うかもしれないが、ヒマリにとって、それは「ここでは」ありふれたものだった。あっちこっちで、その音はよく響く。そもそもここって割と広いし、音が鳴り響くにはもってこいの場所だった。
その暗い部屋を迷わずに進むヒマリの周りには、さまざまな「時計」が置かれている。
時計はざっと数えても100個を超えており、その種類もさまざまだった。この暗い部屋の中でもブレない存在感を出す、かすかな光の一つでもある多種多様のデジタルクロック。大きさはそれぞれ違うが、まるでここまで音が届きそうな気がするくらい、自分なりの存在感を出している砂時計たち。
時計と言えば定番の掛け時計。ここではちょっとしたアンティークになっている日時計。これまたこの部屋のアクセサリーのようにあまねく広がっている小さな目覚まし時計。
大きなショーケースの中に丁寧に置かれている、たくさんの腕時計。今はまだ静かだが、定時になるとうるさいくらい(人によっては怖いくらい)様々なところで鳴り響くはずの、たくさんのからくり時計たち。まるで自分がこの部屋の主でもあるように、遠くからもすごく自分の存在を見せつけている巨大な世界時計。
そして、この部屋の柱でもある、ヒマリが奥に向かって早足で進んでいく途中にも何度もすれ違うことになった、背高く、大きな数多のホールクロック。
ヒマリはここの時計たちがどこにあるのか、今どんな形で動いているのか、というのがあるくらいわかっていた。とはいえ、全ての時計を覚えていたり、ここの「本当」の主のように歴史やら何やらまで全部把握しているわけではない。それはヒマリの役目ではない。それは、ここの主――白坂雪音の役目だった。
もうすぐ、雪音がいる、この部屋の最奥にたどり着く。
「はぁ、はぁ、やっと、ついた……」
ようやくヒマリが最奥までたどり着くと、そこには部屋の奥の椅子で、心地よく遅い昼寝を楽しんでいた、ここの主、雪音がヒマリに気づき、目を覚ます。雪音はぶっちゃけ、かなりのんびりしているところがあるのに、こんな時、ヒマリがやってくる時にはえらく鋭かった。
「あら、ヒマリちゃん、こんばんは」
いつものようにのんきで話しかけてくる雪音。この女は、昼寝の直後だというのに時間感覚だけは凄まじく敏感だった。ともかく、この人がヒマリの10年来の友人、ついでにヒマリに血を売ってくれる命の恩人(?)、白坂雪音である。
ヒマリと長い付き合いをしているのを見ればわかる通り、「重症の時計フェチ」だというのを除くと非常によくできた女の子だった。この人、異常なくらい時計のことが好きなのだ。
そもそも、ここにある時計はぜんぶ雪音の私物であり、売り物なんかじゃない。この女は、「他の存在の時間を扱うのが好きだから」という理由だけで血を売っているくらいの、ガチの時計、いや、時間好きだった。
雪音はヒマリだけではなく、遠くに住む吸血鬼などにも血を売っている(その場合は、もちろん冷凍輸送になる)。たぶん、そのビジネスが成立していることから見ると、この世の中にはあるくらいの吸血鬼やそれに準ずる者がいるって話になるが、ヒマリはあまり関心がなかったため、それを詳しく聞いたことはなかった。
っていうか、今、重要なのはそれじゃない。ヒマリが経験している、この異常な状況の方が遥かに大事なのだ。
こうして無事に雪音と出会ったヒマリは、ようやく今の状況を説明する。
「あらあら、そんなことがあったのね」
なんとか最後まで話すと(あまりにも現実離れした内容に、ヒマリ自身がどうにかなりそうだったが)、雪音はいつもの口調でそうと答えた。さすが雪音、こんな時にも色んな意味でブレない。とはいえ、他人事ではないヒマリにはまんざらでもないことだった。
こいつ、他人事だと思って……と思ってしまい、ヒマリはちょっと腹が立つ。とは言え、雪音なら自分ごとになったとしても、こんな態度でありそうな気がするが。
「ともかく、そういうことだから、いきなりあたしが消えても驚かないように。あとに冴えない男が変な女の子たちを連れてくるはずだから。わかった?」
そこまで言って、ヒマリはまた意識が飛ぶことを感じる。意識が戻ると、考えていた通りヒマリはあの冴えない男になっていて、ここは自分の家だった。
やっぱりこうなったか、とため息をつきながらも、ヒマリは沙絵たちを連れて雪音のところへ戻る。もちろん、途中に自分たちの説明をこなしながらだ。
さっきの吸血鬼の話につづいて雪音の話まで出てくると、沙絵は目をきらきらしながら「すごいです。ほんとうにそんな世界があったんですね!」と謎の感動をし、刹那は呆れて言葉も出ないようだった。刹那とは噛み合わないと思っているヒマリだが、今だけは刹那に同情せずを得ない。
どうやら今日は、ヒマリが思っていたことよりもかなり長くなりそうだった。