その日も昼遅くになって、ようやくご飯を食べるため出かけたヒマリは、向こうに誰かが倒れて……っていうか、座り込んでいることに気づく。
どうやら、その人には意識がなさそうだった。
ひょっとして事件か?
そう思ったヒマリは、女の子に近づく。
そこには、一人の女の子が座り込んでいた。
座り込んでいるというか、ほぼ「倒れてた」に近い。少なくても、体に力はまったく残っていないようだった。
その子を近くからじっくり眺めて、最初にヒマリが抱いた印象は、ズバリ「お嬢さま」だった。
世間知らずの、いいとこのお嬢さま。なぜかすぐ、そんなことを思った。
茶色が若干混ざったような長い黒髪、白い肌、あどけない顔。それでいながら、年相応(だと思われる)なスタイル。
ついでに警戒心も(寝ているとはいえ、いや、こんな路地裏でのんきに寝ているからこそ)なさすぎる。っていうかこの白い服、誰からどう見ても新品そのものである。
そんなの着ているのに道に座り込むだなんて、これは絶対に生粋のお嬢さまだ、とヒマリは確信した。
……ほんとにいたんだ、お嬢さまって生き物が。という驚きはさておき。
いったん、無事なのかを確かめるため(まあ、のんきに寝てるしたぶん無事だろうけど)、ヒマリはそのお嬢さまを揺さぶる。
「えっと、あなたは……?」
少し揺らすと、そんな寝ぼけた声が聞こえてきた。ぶっちゃけ、ちょっと拍子抜けだった。
このお嬢さま、緊張感も、危機感もまるでない。道端で倒れて意識を失っていた人のセリフではなかった。
「それはこっちのセリフなんだけど。こんなところで寝てて平気?」
「あ、そうだった! わたしとしたことが、初めて都会にやってきたから、嬉しくて力が抜けてしまったようです」
「あ?」
それを聞いて、ヒマリはまた気が抜けそうになる。
――なんでそんな理由で町中で寝ちゃったりするんだ、このお嬢さんは。
いろんな意味で、お嬢さまはヒマリとは全く違う人種のようだった。
それから、二人は近くにあるファストフード店にやってきた。お嬢さまがお腹を空かせていたのと、ヒマリ自身、まだ昼ごはんを食べていなかったからだ。
いちおう金はあるらしいが、これをどう使えばいいのか呑気に迷ってるお嬢さまのことも考えて、今度はヒマリがおごることにした。
「で、あんたはいったい誰?」
そんなふうに遅い昼ごはんを食べながら、ヒマリはそのお嬢さまに事情を聞く。
どうやら、お嬢さまの名前は「星野沙絵(ほしの・さえ)」というらしい。さっきの話でもわかるように筋入りのお嬢さまで、都会を見たことも、来たことも今度がはじめてのようだ。
そんなバカな、と思うヒマリだったが、ここまでお嬢さまっぷりだとおかしい話でもない、と思い直す。
そもそも、このお嬢さまはファストフード店も初めてらしく、ただの安いハンバーガー一つにものすごく感激していた。こんなハンバーガーが感動の対象になれるだなんて、ヒマリにはまさに未知なる世界だった。このお嬢さま、たぶん「ご注文にポテトもー」とか言われていたら、感動しすぎてその場で仰天していたかもしれない。
話を聞くと、沙絵は生まれてからずっと、長い間、深い山の中の屋敷で閉じ込められて過ごしたらしい。沙絵が持つ「ある体質」が、危険になるかもしれない、という親の考えからだった。
こいつ、本当に箱入り娘なんだな。どうりで何でもすぐ感動してしまうわけだ。それはそれとして何を大げさな。そんなことを思いながら、ヒマリがハンバーガーをかじっていた時だった。
「引き寄せることなんです」
「何が?」
「この世のありとあらゆる不思議を『引き寄せる』こと。それがわたしの体質だと、お父様はおっしゃっていました」
「は?」
ここまで聞いたヒマリは、目が点になる。何も思わず助けたお嬢さまに、いきなりこんな突拍子もないことを言われたからだ。
もちろん、仮にも吸血鬼であるヒマリがそんなことを言っても説得力はまったくない。だが、普通に都会で過ごしてきた人ならば、誰でもそんなことを思うのだろう、とヒマリは確信する。
どれだけ吸血鬼だとしても、ヒマリはごくごく普通の日々を過ごしてきたのだ。目の前のお嬢さまに比べると。
目の前にいるヒマリが何の表情をしているのかはまったく構わず、沙絵は話を続ける。
「どうやら、わたしが閉じ込められていた屋敷には不思議なことがよく起きていたらしいんです。たとえば、夏に雪が降ってきたり、夜に幽霊が出てきたり。使用人たちがよく、そんな話をしていました」
おかげで、使用人たちはそんな時にいつもあたふたしていたと、沙絵は懐かしむように話す。だが、それを聞いているヒマリは、たまったもんじゃなかった。
ひょっとして、このお嬢さまが吸血鬼である自分と出会ったのも何かの引き寄せ? と思ってしまい、どうしても疑心暗鬼になる。もちろん、ヒマリはあまりそれっぽくない吸血鬼だ。だが、なんだかんだ言って、「普通」の人間でもない。この出会いを偶然だと思えないのも、それが理由だった。
ちなみに、沙絵の話(っていうか、沙絵の親の話)によると、たしかに沙絵はあらゆる不思議を引き寄せるけど、「世の中にまったく存在しないもの」を引き寄せるわけではないらしい。つまり、どんな形にせよ、沙絵の引き寄せるものは「すでにある」ものだそうだ。ついでに、どれだけすごい出来事が起きたとしても、沙絵とその周りの人たちはだいたいいつも無事らしい。
とはいえ、ヒマリはあんまりそんなことには関心がなかったため、自分の力の話をしているのに「それって不思議ですよね~」と感嘆するお嬢さまの話をぼうっと聞いていただけだった。あんたの性格の方が不思議だ、と心の中で思いながら。
で、そんなふうに屋敷でずっと暮らしてきた沙絵だったが、やっぱり、どうしても「外」が気になって我慢できなかったらしい。だから、外の世界を見たくて、思い切ってあの屋敷から抜け出したということだった。
もちろん、外なんて見たこともなく、聞いたこともあまりないため、世間にはとても疎い。だが、沙絵は今、ここにやってきて、外に出てきてほんとに良かったということだった。親を説得するのも大変だったし、なんかあてがあったわけでもないが、今、こうしてヒマリと出会って本当によかったと、沙絵は言っていた。
「ここまで素晴らしい方とすぐ出会えて、わたしは幸せ者です!」
そう目を輝かせている沙絵を見ながら、ヒマリはなぜかいたたまれない気分になる。あまりにも純粋すぎて、ヒマリには眩しすぎる眼差しだった。
ここまで聞いたヒマリは、わりと真剣にそう考える。ひょっとしたら、自分はものすごく面倒な出来事に巻き込まれたのではないだろうか、と。
最初はただ、いつもの「町中警察」な気分であの子に近づいただけだった。だが、ここまでスケールが狂ってる話だったとは、ヒマリも知らなかったのだ。
もちろん、この話をそのまま信じているわけじゃない。だが、このお嬢さまが屋敷を出て最初に出会った存在がヒマリであることは事実だった。
決して「普通」ではない、吸血鬼であるヒマリに。
それが持つ意味を、ヒマリは振り放つことが出来なかった。
ともかく、この世間知らずのお嬢さまをどうするか、とヒマリは考える。
これからどうなるかはわからないが、少なくともこのお嬢さま一人ならなんとかなるか、とヒマリは思った。一応自分の家もあるし、狭いけど今日はここで寝かせよう、ヒマリはそう決心する。
当たり前だが、このお嬢さまをとうてい一人にはしておけない。あまりも世間知らずで、放っておいたらヒマリの方が心配になる。
つまり、これはただヒマリのためなのだ。決して自分が人良しだとか、そんなわけじゃない。そりゃもちろん。
振り返ってみると、これはずいぶん甘い考えだったわけである。
――後悔先に立たず、ではあるが。