対等

 次の日の朝。
 窓から入ってきた日差しで目覚めた俺は、布団から体を起こそうとして、一瞬、自分の目を疑った。
「……これは、なんだ?」
 自分の目は、その「おかしいところ」に固定されている。
 それもそのはず、そこにはなんと――
 ――股間の方が、もっこりと持ち上げられていたのだ。

 ……これって、どういう現象なんだ?
 俺はしばらく、頭の中が真っ白になったまま、それを考える。
 確かに、これは朝起ちと言って、人間の生理現象の一つ…であったはずだ。だが、こちらが戸惑っている理由は、そちらじゃない。
 自分の知っている知識通りなら、このような現象は、男性だけのものであったはずだ。
 そもそも、自分は元々機械だから、そういう現象とは縁のないはずなのだが――
 つまり、この状況は、いったいどうなっているのだ?
 いや、それより、俺は昨日、このような現象とは相寄れない経験をしたはずだが……。

「……へ?」
 そう戸惑っていた俺は、急に、再び「目が覚める」感覚を味わう。
 なぜか今、自分は布団で横になっていた。
 慌てて股間に手を置いてみたものの、そこには見事に何もない。
 ……さっきのアレはどうした?
 その時になって初めて、俺はさっきのアレが、ただの夢であったことに気づく。
 いったい、どうして俺はあんな夢を見るようになったのか。
 昨日の出来事は、自分にとってそこまで衝撃だったのか?
 いや、そもそも。
 今の自分にも、人間のような「無意識」という概念が、存在しているのか?

「はぁ……」
 わけがわからない夢はとにかく、俺は自分の体の調子を確認する。
 良かったことに、痛みは昨日と比べたらだいぶ和らげた気がした。
 とは言え、身体の調子が悪いのは変わらない。
 元々「本体(ギガント)」と切り離れている存在(AI)である自分に、その、身体と思考が直に繋がっているような感覚は不思議極まりないものであった。
 機体の不調のせいで思考回路にまで影響が出るなど、機械にとってはどうもしっくり来ない話ではあるが……。
 今の自分は機械ではなく、人間である。
 あまりにも現実味のない現実が、ここに来てまた、自分の存在を主張してきた。

 ――やはり、機械の身にとって、人間の体など、到底わからない。
 そういうことを思いつつ、俺はなんとか体を起こした。

「やはり、どうしても……」
 そんなことを口にしつつ、俺は外をゆっくりと歩く。
 もちろん、今の体の調子で、外を歩くのは大変だったが……このままずっとハナさんの家にいるよりは、それがいいと判断した結果だった。
 こうして歩いていると、あの「血が漏れる」感覚がする度、どうしても気にかかってしまう。
 ――ひょっとして、ズボンに血が付いてしまったのではないだろうか。
 それを考える度に、俺はどうしようもなく、悔しくなってしまうことに気づいた。
 自分がもしこんな女性の身体でなかったら、こんなこと、思わずに済んだというのに。
 そもそも自分は機械の身だったわけだから、これもまた思い上がりみたいな物ではあるが――

 一人でぼんやりと、そんなことを考えていた時。
「あっ、チサさん、おはようございます」
「……っ!」
 その呼び声を聞いて、俺の顔が強張る。
 それは他でもない、今、こちらがいちばん避けたい相手であるクロのモノだった。
 ……まずい。
 あいつと自分が対等ではないことに気づいた今、顔を合わせることには勇気が要った。
 こちらとしては決して認めたくないが、今の俺とあいつは、身体だけで考えると「男と女」の関係である。
 つまり、実際にそういう行為をする予定はまったくないが――こいつと俺は、ああいう行為で子供が作れる、ということだ。
 それを考えるだけで、俺はあいつに近づくことが怖くなってしまう。
 バカみたいな考えだと思いながらも、意識すればするほど、耐えられなくなってしまったのだ。
「あれ、チサさん?」
 ああ、今もだ。
 クロからそう話しかけられたにも関わらず、俺はそっと視線を逸してしまう。
「お、おはよう、ございますっ。べ、別にこれは、避けてるとかではなくて――」
「いや、今思いっきり僕のこと避けてるんじゃないですか」
 悔しいが、その通りであった。
 今の俺は、誰からどう見ても、こいつ――クロのことを避けている。

「べ、別に、なんでもないです」
「いや、さっきからの様子から見ると、むしろ絶対に何かがあったと思うんですが」
 ……それはそうだ。
 今の俺の挙動が極めておかしいことは、あいつにも伝わっているのだろう。
「で、ですが、自分から考えてもおかしいことですし――」
「ならば、なおさら話した方がいいんじゃないですか。僕なら力になれるかもしれませんし」
 ――こいつ、以前から考えてはいたが、話し方が上手いな。
 だからいつも、俺はあいつのペースに巻き込まれがちだったのか。
「じゃ、わ、笑わないでくださいね」
「はい、真剣に聞かせていただきます」
 そう言って、クロのやつは力強く頷いてみせる。
 それを聞くとなぜか悔しくなったが、あいつの眼差しは言葉通り、真剣そのものだった。
「だ、だから、あなたと私は、その、対等にはなれないんじゃないですか」
 どうしてこんなことを口走ってしまったのだろう。
 あまりにも非論理的なその行為に、俺自身が呆れてしまいそうになった。
 これでも機械の端くれだというのに、こんな反応ばかり見せてしまうのは実に情けない。
「あれ、どうしてでしょうか?」
「だ、だって、身体の作りも異なりますし……」
 なぜかここで、俺は自分の声が小さくなってしまうのを感じた。
 自分のことを男だと認識している俺が、あいつと対等になれない理由を「性別が違うから」なんて口にしているのが、やはり後ろめたかったのかもしれない。

「確かに、僕とチサさんは性別が違いますから、完全に同じではないかもしれませんね」
 クロは落ちついた声で、そう語る。
 まあ、実際に別であるところは性別というより、生き物かどうかなのだが。
「ですが、世の中、まったく同じ人間など、きっと存在できないと思いますよ」
「……性別くらいなら、いくらでもあるんじゃないですか」
「もちろんそうですが、いくら性別が同じだとは言え、身体レベルでまったく同じ、ってことはないでしょう?」
 ……それはそうだった。
 自分は仕様がきっちり決まっている「ギガント」の身だから忘れていたが、人間はどれほど出身国や性別が同じだとしても、まったく同じ身体にはならない。
「ですから、僕はそう思うんですよ。いくら我々がみんな違う形をしていたとしても、きっとわかりあえるし、同等にもなれると」
「本当に、それが出来るんですか?」
「少なくとも『僕たち』はそうだと思うんですが、チサさんは違うんでしょうか?」
 その話を聞いて、俺はあいつの「僕たち」というのが、自分とクロの二人を示していたということに気づく。
 ……確かに、今までの俺たちは、そのような感じだった。
 ただし、こいつが俺の正体――そもそも、人間ですらない――に気づくと、どうなるのかまではまだわからないが。
 ――その対等さに、俺のような機械の存在は含まれるのか?
 さすがにこれをクロのやつに聞くわけにもいかなかったため、俺は一人で、それをぼんやりと考えた。

「とは言え、そういうこと、悩んでしまう時もありますよね。わかります」
「……なんか、すごく投げやりな口調に思えますが」
 あいつがあまりにもニッコリ笑いながらそう口にしたため、俺は思わず、そう返してしまう。
 まあ、やっぱり俺は、こいつとは相寄れないと思っているのだ。
 ハナさんのことを考えると、なおさら。
 そんなことを俺が思っていたら、急にクロが、おかしなことを口にしてきた。
「ですが、僕としてはチサさんのことが羨ましい時もあるんですよ」
 ……俺の、今の境遇が?
 どこをどう見たら、こんな境遇が羨ましくなるのだ?
「チサさんはハナさんと同じ女性ですから、ハナさんの抱く痛みなども共有できるんじゃないですか」
「……ああ」
 それは、確かにそうだ。
 今、俺はその生理というやつを、身体で直に理解している。
「僕はやはり男ですから、そういうのはどうしてもわからないところが出てくるんですよね。ハナさんとは長い付き合いだというのに、それが申し訳ない時もあるんですよ」
「そう、なんですか」
「ですから、今はハナさんの隣にチサさんがいてくれて、だいぶ安心してます」
「あ、ありがとう、……ございます」
 以前にも感じた、あのなんとも言えない罪悪感。
 俺はさっきとは別の理由で、あいつの目を見ることができなくなってしまった。

「まあ、よく考えると出会って間もないわけですから、チサさんが戸惑われるのも仕方ありませんね」
「……」
 あいつの話に、俺は黙って頷く。
 さすがに、「生物レベルで異なるから」とは、口が裂けても言えなかった。
「ですが、僕はともかく、ハナさんは本当に優しい方なんですよ。だから、すぐ慣れます」
「あ、あなたは優しくないんですか?」
「いやいや、言葉の綾ってやつですよ。僕ももちろん、チサさんには紳士的に接するつもりです」
「まったくそうは思えないですけど」
「まあまあ、これから仲良くなればいいんじゃないですか。ははは」
 そう言って、クロのやつは俺が悔しくなるほど、豪快に笑ってみせた。
 ……やはり、こいつには仲良くなれそうにない。
 クロのやつは、すでに俺と仲良しのつもりであるのかもしれないが。

「……」
 その日の夜は、なかなか眠れなかった。
 昼にクロのやつと交わした会話が、ずっと頭の奥底に残っていたのだ。
 ――あいつは、どれほど違う存在だったとしても、きっとわかりあえる、と言った。
 だが、クロのやつは、あくまで「人間」のことを想定していたのだろう。
 自分の前にいる人間が、まさか女でもないところか、生き物ですらなかったとしたら、どんな顔をするのかは、こちらにもわからない。

 そもそも、元なら俺も、こんなことを考えることなど、決してないはずだった。
 今の技術で作られたAIなら、人格らしきモノも芽生えている…というか、搭載されているのが一般的だ。それが人間と同じ質であるのかはこちらにもわからないが、自分にもギガントだった頃、今のような人格らしきモノを認識していた。
 ただし、すでに語った通り、それが人間と同じようなモノかと言われると、返事に困る。
 自分など、どれほど人格があるとは言え、人間とは違う存在だ。別に人間のような扱いをされたいと思ったこともないし、自分の役割を果たせたら、それでよかったのだ。
 機械は、人間のようにいつも意識を保つ必要がない。何かを食べる必要も、交流する必要も、まったくない。
 そんな存在が、人間らしき人格を持ってると言っても、それが人間とまるごと同じであるわけがないだろう。
 なのに、今の自分は、人間――というか、クロのやつと対等でいたい、そう願っているのだ。
 たとえそれが、叶わない望みだったとしても。

 やはり、こうなってしまってから、あらゆるモノが狂い出しているような気がする。
 それが良いものが悪いものなのかは、こちらにもよくわからないが――
 どの道、このような状況になってしまったからには、これもまた、避けられない運命なのだろう。
 ……決して、それに納得しているわけではないが。