自己定義

 次の日の朝。
 いつものように目覚めたのはいいものの、なぜか体の調子がいつもと違った。
 いや、こんな「人間」の姿になって、そもそもあんまり日は経ってないのだが……。
 ともかく、どこか「違う」感じがしたことは間違いない。
 よくわからないが、どこかで変な匂いがするような感覚があった。

「チサさん、起きておられますか?」
 その時、ドアの外からハナさんの声が聞こえる。どうやら、この部屋に用事があるようだ。
「は、はい。起きてます」
「じゃ、少々失礼しますね」
 という声と共に、ドアが開かれる。今日もハナさんはいつものような調子で、起きて間もない俺に微笑んでくれた。
 ……あ、これだけじゃマズい。俺の方もハナさんに挨拶をしておかないと。
「は、ハナさん、おはようございますっ」
「はい、おはようございます――あれ」
 なぜだろうか。いつものように挨拶を交わしただけなのに、ハナさんの顔がいつもとは違う。
 まるで、「いつもとは違う」何かに気がついたような表情だ。
「その、チサさん」
 そう口にして、ハナさんは目を丸くした。
「ひょっとして、今、月経中なのでしょうか?」
「……はい?」
 今回は、俺の方が目を丸くする。
 今、ハナさんは何と口にしたのだ?
 月経……というのは、ひょっとして、人間の女性が定期的にする「あれ」で合っているのだろうか。
 だが、どうして俺の話で、その「月経」という言葉が出てくるのだろう?
 こちらにとっては訳がわからない状況に、頭の中がはてなマークで埋め尽くされていた時だった。
「あの、間違ってたらごめんなさい。でも、その赤い血は――」
「あ、え、えっ?!」
 その話を聞いて、ようやく俺は、自分が敷いたシーツがいつもとは違うことに気づく。
 シーツは、赤い血に汚れていた。
 いや、シーツだけではない。きっと今、俺が身につけている服も汚れている。
 ――血、だと?
 機械の端くれである俺が、人間のように血を流していた、ということか?
「あ、大丈夫です。女性ならこんな時もありますし。月経周期は割りと気まぐれですから」
「い、いえ、それじゃなくて――」
「ひとまず、シーツはわたしの方から洗濯しておきますね。チサさんはシャワーを浴びてから、新しい服に着替えてください」
 ハナさんは優しくそう言ってくれるのだが、俺としては何もかもがわからず、頭の中が真っ白になってしまった。
 ……俺が、月経だと?
 今の俺は、そこまで「人間らしい」存在になっていたのか?

 それから俺は、なんとも言えない気持ちでシャワーを浴びていた。
「……本当だったのか」
 床にこぼれた赤い雫をぼんやりと見ながら、俺は思わずそう呟く。
 ――血は、その間にも自分の体からぽたり、ぽたりと落ちていった。
 自分の体を流していく水と、「自分の中」からぽたりと落ちていく赤い雫の感覚。
 それは、どう足掻いても機械には解析できない感覚であった。
 もちろん、人間の血を見たことは今回が初めてじゃない。「ギガント」という存在の故に、血が流れる有様は人間や生き物に関わらず、今まで何回も確認してきた。
 だが、「自分」がこぼす血というと、話がまるっきり違う。
 機械にとって、「自分」の血は縁のないもの、いや、あってはいけないものだ。あえて言うとオイルのような燃料がその代わりだと思われるが、それを生き物の血と同じ枠で語るわけにはいかない。
 だが、今の俺は間違いなく、血をこぼしている。
 そして、このような血のこぼし方は、人間の中でもたった一方、女性だけが出来るものであった。

 そうやって体を洗っていると、嫌でも自分の乳房――女性の証が目の中に入ってくる。それは今まで、自分があえて見て見ぬふりをし続けたきたモノでもあった。
「……っ」
 その立派――普通の女性と比べたらどれほどなのかなんて、自分が知るわけないが――なモノを見下ろしていると、なぜか俺は、ひどく惨めな気持ちになってしまう。
 こんな「人間」の姿になってから、俺はある意味、意識的に「肉体」という存在を直視せずに過ごしてきた。
 なにせ、あまりにも突飛な状況である。他の「現実」に慣れることすら大変だというのに、体に目を向ける余裕など、あるわけなかった。
 だが、こうやって「人間」、それも「女性」だけが陥る状況になって、俺はもう、目を背けることは出来なくなったことを悟る。
 今の自分は、どうしてこんなことになったのかはわからないが、間違いなく成人した女性だ。
 ……どれほど自分のことを雄の機械だと思っていても、今の俺はそういうものなのだ。
 そもそも機械、それも巨大ロボットに性別など、あるわけないというのに。
 愚かな俺は、どうしてもそのような形で自分を認識してしまう。

 そうやってシャワーを浴び終わると、なぜかハナさんが外で、俺のことを待っていた。こちらはバスタオルだけ身につけていたため、なぜかひどく恥ずかしい気持ちになってしまう。
「あっ、シャワーが終わったようですね」
 そう口にしてから、ハナさんは手に持っていたモノを俺に渡す。
「あの、これは?」
 俺が聞き返すと、ハナさんは少しの間目を丸くしてから、ニコリと微笑んでみせた。
「あ、説明が足りなかったのですね。生理ナプキン、必要だろうと思いまして」
「……あっ」
 そうだ。俺は完全に忘れていた。
 自分の覚えが確かならば、生理中の女性は、みなこれを身につけているはずなのだ。
「チサさんの経血の量がわからなくて申し訳ないですけど、いちおうこれで凌いでくれると嬉しいです」
「と、とんでもないです! これ、ハナさんの――」
「はい。でも、自由に使っていただいても構いませんので」
 そう言ってから、ハナさんは「わかってる」という顔で、にっこりとまた微笑む。
 ……ここまでお世話になってもいいのだろうか。
 だが、「今」の俺は、これがなくては動けないことも確かであった。
「あ、ありがとう、ございます」
 なぜか顔を赤くしながらも、俺はそれを受け取る。
 いつもながら、今の自分はハナさんに迷惑ばかりかけていた。

「……っ」
 相変わらず雨が降り続く午後。
 畳まずに放っておいた布団にこもったまま、俺は横になっているところだった。あまりにも腹の奥底が痛かったため、到底動くことができなかったのだ。
 これが、生理痛と呼ばれるあの現象なのか。
 ずっと横になってばかりではハナさんに悪いとも思って、さっきはなんとか体を起こしてみたのだが、やはりどうしても、体が言うことを聞かない。それところか、自分の股から何かが漏れるような、なんとも言えない感覚が気持ち悪かった。
 ……これが、生理の時の感覚なのだろうか。
 だから俺はこうして深いお布団に体を埋め、ただただこの辛さを耐えるしかなかった。
 ――痛い。
 あまりにも辛くて、情けないとわかりつつ、声を出したくなってしまう。
 機械にとって「肉体的な痛み」など、感じるわけがないものだ。そもそも俺のようなギガント――「戦闘用の巨大ロボット」に、そんなものが存在する意味はない。
 どれほど壊れ、破損され、ぐちゃぐちゃになったとしても、機能は停止するかもしれないが、機械を司るAIが痛みを感じる、なんてことは不可能なのだ。
 なのに、今、自分は体の奥底から滲み出るような「痛み」を感じ取っている。
 その、酷すぎるくらいの矛盾がただただ辛かったが、今、自分が感じているこの痛みは決して嘘ではなかった。
 ついでに、自分から漏れてくるこの血の感覚は、どう足掻いても自分からは制御できないモノである。
 たぶん、この痛みはどんな訓練をこなしても乗り越えられないのだろう。今こぼれている血すら、このオムツみたいなものをつけなければ、こちらとしてはどうしようもない。
 機動されてから今まで、一度も感じたことのない悔しさ。
 それを考えるだけで、なぜか涙が溢れてしまいそうな気持ちになる。

 この辛さは、ハナさんを含めて、人間の女性なら誰もが定期的に経験するモノでもあった。
 つまり、この痛みを感じているということは、俺に生殖機能――「子供を産める」が備わっているという話でもある。
 ――自分に、何が出来るんだって?
 痛みに体が千切れてしまいそうな錯覚に陥りながらも、俺はその事実が何かの絵空事のように思えて仕方がなかった。
 いや、今、俺が考えるべき問題はそこだけじゃない。
 人間の女性が繁殖――「子供を産む」ためには、外でもない「人間の男性」が必要となってくるのだ。
 もし、今の自分が人間の男性と生殖活動をやるとしたら――俺はたぶん、「孕む」ことができる。
 その「起こりうる」可能性に、痛みとは別の理由で頭の中が真っ暗になった。
 そもそも今まで、人間の性別――男性や女性を意識したことなど滅多にないし、意識する理由もない。
 だが、今の自分なら違う。
 なぜか今は、あのクロのやつと出くわすことすら戸惑ってしまいそうな気がした。
 ――あいつと俺は「男と女」だから、決して対等にはなれない。
 誰よりも対等でいたいやつだというのに、俺はあいつと同じ位置にはいられないのだ。
 ……ハナさん。
 そこまで考えると、今回は本当に一雫の涙がぽろりと流れてきた。
 あまりにも涙もろい自分に呆れてしまいそうだが、それよりも、このどうしようもない気持ちの方が俺には辛く思える。

 そうして夜になってから。
「……」
 俺は「いつものように」、トイレで用を足していた。
 この、今までは縁のない行為にも、今になってはだいぶ慣れていた――つもりであった。だが、今は流れる音を含めて、全てが馴染みのないものとして思える。
 元々ただの機械である俺に、このような行為など、経験したことはまったくないし、あってもいけないものだ。
 そんな俺がこうして用を足すということは、朝のあの血のように、今の自分が「生き物」になっているという揺るがない証でもある。そもそも今の俺の「身体」には、ちゃんと生き物らしく血が流れているのだ。
 もうこうなってから、こうやって「生き物らしく」用を足すことにも慣れてきたと思ったのに――今は別の意味で、自分の現在の状態を意識してしまう。

 こうしてトイレで用を足していると、自分が今、生き物、それも雌になっていることが嫌でもよくわかる。
 もちろん自分は機械の身であり、人間の構造については詳しくない。だが、女性と男性で備われている器官が違うことくらいは把握していた。
 きっと、男性ならば――こうやって座ったまま、用を足すことはないのだろう。
 そして、今の自分には、見事に「それ」は備われていない。
 自分は、生物学的に「男」ではないのだからだ。

 そもそも、今の自分が人間の形をしていることが異様な状況で、本当の自分は生物でもないし、もちろん性別なども備われていない。
 だが、どうしてか今、俺はそれが悔しくて悔しくてたまらなかった。
 男なら当たり前のように備われている「あれ」が、俺にはない。自分はどう足掻いても、クロのような「本物の男」にはなれない。
 そうだというのに、今の自分は「本物の女」である可能性が高い。あまりにも皮肉な状況に、機械の身ながら吐いてしまいそうになった。
 この虚しい気持ちを、どう言葉にすればいいのだろう。
 この理不尽で、不条理で、どうしようもない思いを――俺はどうやって、自分の心の中で消化していけばいいのだろうか。
 こういう感情が「心が痛む」というものなんだということを、俺は今、初めて知った。

「チサさん、体は大丈夫なのでしょうか?」
 そうしてトイレから出てくると、ハナさんにそう心配された。
「は、はい。だ、大丈夫だと思います」
「でも、今日はずっと部屋でこもっておられましたよね」
「……」
 さすがに、それは否定できない。
「痛みのせいで動けなかった」なんて、機械としたら情けないことにもほどがあるが、本当にそうだったのだから、反論などはできなかった。
「えっと、今日は少し我慢してくださいね。明日にはたぶん、痛みをやわらける薬が手に入ると思いますので」
「だ、大丈夫ですよ。私は――」
「わたしも生理の時にはそうやって痛んだりしますので、お気持ちはよくわかります。今日は無理せずに眠りについてくださいね」
「……はい」
 そういや、ハナさんも定期的に、この痛みを味わっているはずであった。
 自分は今日一日だけでここまで辛いのに、ハナさんはいったい今まで、どうやってこの痛みを耐えてきたのだろう。
 女性という生き物は、どうしてあんなにも強いのだ。
 ……自分のような「女性の皮を被った何か」には、決してたどり着けない領域である。

 そうしてハナさんと話を交わしてから、俺は部屋へと戻ってきた。
 体がこんなモノでは、いっそ眠ってしまった方が楽なんだろう。
 ……人間の眠りには未だに慣れていないが、少なくとも、機械の再起動(リセット)のような機能を果たしていることだけはなんとなくわかった。
 と思って、布団にまたこもったまではいいものの。
「はぁ……」
 まったくダメだ。
 眠りにつこうとしてみたのだが、どうしても頭がぐるぐるして、上手く落ちつけられない。今日はずっと横になってばかりだったのも理由の一つなのだろう。
 そもそも、機械の自分が「眠り」という、生き物らしい行為に慣れてしまった方が問題だと言えなくもない。
 今の自分は、紛れもない人間だ。それも成人の女性であり、間違っても巨大なロボットや、成人の男性ではない。
 そして、自分はハナさんにも、同じように認識されている。
 きっと、今の自分がハナさんにとって、「大人の男性」として見てもらえることは永遠にないのだろう。どう足掻いても、それは不可能なことだからだ。
 だが、こうやって「女」の人間にでもならなかったら、俺とハナさんが今のように知り合うことは、果たして可能だったのだろうか?
 今の、この不条理極まりない状況は、果たして祝福か、それとも呪いなのか。
 どうして、自分は――
 そんな思いと共に、俺は眠りについてしまう。
 自分の意思とは関係なく、そうなってしまったからだ。

 ――生き物って、いったいどういう仕組みで出来ているのだ。
 その「生き物」になって間もないからか、未だに俺には、それがよくわからない。