「兄さん」
「……なんだ?」
「その、今のわたしが『兄さん』と呼ぶの、気持ち悪くない?」
「気持ち? あ、ああ、そのことか」
俺は蒼乃の言いたいことがわかった気がして、つい苦笑してしまう。確かに、何も知らない人から見ればおかしいはずだ。蒼乃の『兄さん』は普通とアクセントが違うから。
だから、今の俺は普通に『兄さん』で終わりだが、蒼乃の場合、子供の頃からずっと『にーさん』のように少し伸ばした呼び方をする。いわゆるクセみたいなものだ。別に悪いものでもなんでもないし、俺も『こうなる』前まではあまり気にしていなかった。それは蒼乃だって同じだったのだろう。
それが、『今』になっては少し変に聞こえているだけだ。
「別にいいだろ。蒼乃のことじゃないか。変でもなんでもない」
「でも、こんな声ではちょっと……」
「あのな、蒼乃。あえて言いたいのだが、その声は俺のものでもあるんだぞ。あまりそういう風に言うのは関心しない」
「あ、ご、ごめん。そのつもりじゃなかったのに」
「こっちもだ。だから気にしなくてもいいってこどだよ。今のような状況じゃなかったら、その呼び方はしないだろ」
「そ、そうだね。じゃ、これでいいかな」
「ああ、いいよ。そう呼んでも」
はっきり言って、違和感はもちろんある。むしろなかった方がおかしい。自分の声で蒼乃の呼び方をされてしまうと、この上なく気恥ずかしさが湧き上がってきた。正直、俺はまだこれに慣れていない。目の前で今までなかった表情を見せる自分も照れるが、これに比べたらマシなくらいだった。
だが、向こうの『自分』は俺ではなく、蒼乃である。そう思うとおかしくも何もない。蒼乃にとっても、ここで『兄貴』の口調で喋っている自分はおかしく見えるはずだ。
むしろ、問題は別の所にある。
「蒼乃、俺は外で普通に『兄さん』とか言うだろ。それ、お前のアクセントとはかけ離れているが、大丈夫か」
「あ、そ、それはいいよ。それが兄さんらしいし」
「でも、今の俺は蒼乃の姿だろ。こちらとしては少しでも合わせたかった。せっかく蒼乃が頑張っているのに、俺だけ楽して――」
「兄さんはそれでいいよ。真似しなくても大丈夫だから。そちらが分別もつくと思うし」
「あ、それがあったか」
蒼乃の話にはたしかに一理あった。二人とも同じ呼び方をしてしまったら、あとに絶対ややこしくなる。まあ、他人から見るとどうでもいいだろうが、俺ら兄妹には死活問題だ。そちらの方が、後にも良いだろう。
「俺ら、本当くだらないことで悩むな。昔にも、そして今でも」
「今は仕方がないから。こんな姿だし、受け入れる方がいいと思う」
「まあ、そうだな」
よく考えてみると、蒼乃が『兄さん』のアクセントを変えずにいたことに気づいたのもこの入れ替わりが原因だった。蒼乃は昔から、なぜか俺のことをずっとそう呼びつづけた。普段は大人しくて甘えることすらあまりない蒼乃が、その呼び方を変えずにいるのは、どの意味、ものすごく大切なことかも知れない。こう見えても蒼乃は脆いところが多いから。
あいつにとって、俺はそこまで頼りがいがある兄貴だったのだろうか。
俺は再び、家にも戻らずバンドの活動に熱中していた昔の自分を後悔する。蒼乃はきっと、その時だって兄貴が側にいてほしいと思っていたはずなのに。