次の日の朝。
「ハナさん、おはようございます」
「はい、チサさん。今日もいい天気ですね」
俺は昨日のように、ハナさんと挨拶を交わしながら周りを見渡す。
何度見直しても、やはりこの家には緑――つまり、植物が多い。
壁にもテーブルの上にも、外の庭だって植物ばかりだ。この周りには山しかないというのに、家の中までこんなに緑で満ちていると、もう参るしかない。
ここまで植物だらけなところを、毎日きちんと世話しているハナさんは本当にすごい人だと、俺は改めて思った。
そもそも、俺はデータベースを持つ機械(AI)の身だというのに、ここにある植物たちの名前すら、まともに知らない。ハナさんと初めて出会った時にも、俺はチシャの葉など、まったく知らなかったのではないか。
そういうことを考えながら壁に沿って歩いていた俺は、ふと、そこに何かおかしな植物がかかっていることに気づく。
……これって、何だ?
何か袋かたくさんついてある植物で、今まで俺は見たことがないようなやつだった。
そんな俺の視線に気づいたのか、ハナさんはこう声をかけてくれた。
「気になりますか? あれはウツボカズラっていう植物なんです」
「……ウツボカズラ?」
どうしてだろう。何かがすごく引っかかる。
確かに俺のデータベースによると、その、何かが変わっている植物だったような――
「あっ、ひょっとして気づいたのでしょうか? ウツボカズラはですね、食虫植物の一つなんです。つまり、虫などをペロッと食べてしまうわけですね」
「あ、あ、ああああっ!!」
そうだ。確かにそうだったはずだ。
植物の中では、ああいう「生き物を食うもの」もあると、俺のデータベースには確かに記されていたはずなのだ。
どうしてチシャの葉は記されていなかったのに、アレは自分のデータベースにあったのかはまったくわからないが……。
とにかくそれを思い出して俺は、どうしてか、背中が冷たくなることを感じる。
いや、元の姿――「ギガント」ならともあれ、今の俺は人間、つまり生き物だ。あの食虫植物が生き物を食うということは、つまり、人間もその対象に入る可能性があるということになる。
……おかしいな。胸騒ぎがする。
ここまで「怖い」としか言いようのない感情を抱いたのは、機動されてから初めてだった。
「あれ、どうしたのですか、チサさん」
「い、いや、な、なんでも……なんでもないです」
ハナさんにそう聞かれて、俺は必死でそう首を振る。
自分にも、こんな感情になった理由が上手く説明できそうになかった。
「ふふっ、ウツボカズラは虫も食べてくれますし、いろいろ役に立つ植物なんですよ」
ハナさんは微笑みながらそう言ってくれたが、俺としては気が気でない。
しばらく経った後にも、俺の頭の中では、あのウツボカズラが虫を飲み込む映像が何回も再生されていった。
その日の夜。
「ど、ど、どういうことだ?!」
なぜか俺は、そのウツボカズラに食われていた。
どうしてこんな目に遭ったのかなんてわかる訳もないが、とにかく、あのデカい袋の中に飲み込まれていて、身体中がヌルヌルになっていることだけは間違いない。
で、自分の隣に誰がいるのかというと。
「いや~これがウツボカズラに喰われるって感覚なんですね、チサさん」
これはいったいどういうことなのだろうか。
俺のすぐ隣には、クロのやつがやはりヌルヌルになったまま、こっちに向かって笑いかけていた。
わからん。訳がわからない。
いったいこれは、どういう状況なんだろうか?
「いや、そこはノンキに答える場合じゃないだろう!」
「あれ? ですが、今、僕たちがウツボカズラに喰われているのは間違いないですよね?」
「だから、喰われる前提で話を進めるな! アホか!」
そこまで来て、俺はどこかおかしいってことに気づく。
いや、おかしいと言えば、この状況がすでにおかしいが……。俺がおかしいと思ったのは、そこじゃない。
そう、今の俺は、いつもの姿――「ギガント」になっていた。
いや、もしそうならだんだん話がおかしくなっている気がするのだが……。
確かに、さっき自分の出した声はいつもの電子音だったが、ここまで激しいものだったのだろうか?
「いや、照れてますね、チサさん」
「どこをどう見たら、そんな結論になるのだ。そもそも、今の問題は――」
そう、そんなものは、今は大した問題ではない。
今、俺が考えるべき「本当の問題」は――
「……へ?」
外のまぶしい日差しに、俺は目を覚ます。周りは昨日と変わらず、ハナさんの家の中の風景である。
……いや、さっきのウツボカズラはどこに行ったんだ?
そこまで考えて、俺は今の自分が人間であることと、あれはただの夢だという身も蓋もないことに気づいた。
「は、はあ……?」
ダメだ。訳がわからない。
そもそも、どうして夢の中のクロは「ギガント」の俺をあのチサだと見抜いたのだ?
っていうか、あのウツボカズラより何倍も大きいはずの「ギガント」の俺が、どうしてあいつに喰われていたということになる?
いや、だいたいあのウツボカズラの小さな袋に、俺の――ギガントの一部が入る空間はあると言えるのか?
「ありえない……」
これが、人間の言う「夢」というものなのだろうか。
だとしても、どうしてここまで支離滅裂な夢に、俺は何の疑問も抱かなかったんだ?
その荒唐無稽さに呆れながら、俺は布団から立ち上がった。
「おはようございます、チサさん」
今日もハナさんは早起きだった。
俺のことに気がつくと、こちらに振り向いて、暖かく微笑んでくれる。
「はい、おはようございます」
「あれ、チサさん、どこか顔色がよくありませんよ?」
「あ、ああ、それは……」
まずい。どうやら、さっきの訳がわからない夢のことが響いているようだ。
「じ、実は昨夜にウツボカズラに喰われる夢を見まして……」
「えっ、ウツボカズラに?」
俺の話を聞くと、ハナさんは目を丸くする。やはり、この話は少しまずかったのだろうか?
「はい。なぜか、と、隣にはクロさんもいまして……冷静に考えるとありえないというのに、変な夢ですよね」
「ふ、ふふ、ふふふっ……」
その時、いきなりハナさんがそう笑い始めたため、今回は俺の方が目を丸くする。
い、今何が起きているんだ? 俺は何か、まずいことでも口にしたのだろうか?
「ち、チサさん、そこまでウツボカズラが怖かったのですね。ふふっ、少しツボに来てしまいました」
「へ?!」
「それにクロさんまで居たなんて……。チサさん、本当に感情豊かな方ですよね。初めて出会った時にも思ったのですが」
「わ、私がですか?」
「はい、いつもコロコロ表情が変わってて、見てて飽きない方だな、って思ってました」
「え、えっ?!」
ハナさんの話を聞いて、俺はなぜか、顔が赤くなることを感じた。
いや、その、今度こそ訳がわからない。
ただの機械であり、人間の感情など未だにわからない俺が、感情豊かだと?
……いや、確かに、人間になってからいろいろと感情的にはなったような気がするのだが……。
だが、感情なんて未だにわからない存在である俺が、どうして感情豊かになれるのだろう?
再び自分の部屋に戻ってきた俺は、鏡の前に立つ。
鏡の前には、あの時と同じく、人間の女性が立っていた。今でもこれを「俺」だと認識するのは難しいが、目の前にいる女が、自分の意志通りに動くのは変わらない。
だが、見れば見るほど、よくわからなくなる。
いったい、感情というものは何を指すのだろうか?
そんなことを思いながらじっと鏡を見つめていると、確かに目の前の女は、くるくると表情を変えていた。
もしそれが他人であったとしたら、俺は間違いなく、「この人間は感情豊か」と、ハナさんと同じ答えを出したのだろう。
……わからない。わからないんだ。
どうして感情などまったく理解できていない俺に、ここまで「感情豊か」な表情ができるのだろう?
確かに、自分はこうやって「人間」になってから、良くも悪くもその影響を受けていると考えられる。
ハナさんから言われた「顔がくるくると変わる」というところも、その一つかもしれない。未だに「自分は今、人間である」という実感はあまり沸かないが、今の俺が人間であることが間違いないのなら、その「感情」に影響を受けていてもおかしくはないはずだ。
そもそも、今の自分が「ギガント」の頃のように、あらゆる情報を正確に処理しているという保証はどこにもない。
もちろん、元の姿――ギガントの自分ならば違うと思うが、今の俺はただの人間だ。違和感のある感覚や、情報を挙げるとキリがない。それをギガントの頃の感覚で全て正しく処理しようとすると、きっと俺は耐えられなかったのだろう。もちろん、様々な「感情」もその一つだ。
つまり、今の俺は受け取った「あらゆる変わった感覚」を完璧に処理することができず、自分の精神を維持するため、ほとんど流しているということである。
機械の身として、それはかなりの醜態に当てはまると言ってもいいだろう。
それは俺一人の考えであり、全ての人工知能がそう考えているとは言えない。だが、全ての情報を意味ある形で処理するための存在がAIであることを考えると、やはり、俺としてはこう評せずを得なかった。
まあ、この際、自分の意見などはともかくとして。
こういう状況なのだから、今の自分が上手く処理できない情報――つまり感情に振り回されているのも、ある意味では仕方がないと言えよう。
ところで、人間になった今、むしろギガントの頃よりも「感情」というものがわからなくなった気がする。
人間という生き物にとって、感情とはどういうものなのだろうか?
「やはり、俺にはよくわからん……」
そんなことを考えていると、鏡の前の女は、俺から見ても面白いくらいコロコロと表情を変えていた。
未だに聞き慣れないその高い声に眉をひそめながら、俺はしばらく、鏡の前でじっと立ち尽くす。