「……っ」
眩しい日差しに起こされて、俺は目を覚ます。
今が朝だということに気づいた俺が先にやったのは、体を起こして外に出ることだった。
そう、確認しておかなければならない。
……昨日の出来事が、夢だったのかどうかを。
ハナさんの家を出て、たどたどしい足取りで横へと回り込む。
祈るように昨日のあの場所を見てみたが――現実は残酷だった。
「そんな……」
相変わらず自分の目の前に倒れている「自分自身」の姿を見ながら、俺はそう呟く。
その反応のない姿は、昨日、向こうで見た風景と何一つ違わなかった。
当たり前だが、「今」の俺の姿も昨日のままである。
まさか、自分がスリープではなく、「人間のように」寝るという形で意識を失うとは夢でも思わなかった。
……機械ごときが夢など見るわけないのは当たり前のことだが、人の言葉を借りている以上、これだけは仕方ない。
「あれ、チサさん、もう起きていらしたのですね」
家へと戻ると、ハナさんがそう言いながらニコリと笑ってみせる。
どうやら、俺と似たような時期に、目を覚ましたようだ。
「は、はい。昨日のことが気になっていて……あ、そうだ。おはようございます」
「はい、おはようございます。いい天気ですね」
「そ、そうですね」
そうして、昨日始めて出会ったばかり……ところか助けてもらったばかりとハナさんと俺は、挨拶を交わす。
人間はこうやって、毎日誰かと挨拶をする生き物だったんだな。
機械にそういう機会なんてあるわけないので、今まですっかり忘れていた。
「そういやチサさんって、確か今、記憶が不明確とおっしゃってましたね」
「……はい、申し訳ございません」
そう、未だに記憶は曖昧だ。
ひょっとしたら、ハナさんとは思った以上に、長い付き合いになってしまうのかもしれない。
「あまり迷惑とか、そういうのは考えなくてもいいですよ。好きなだけ、ここにいてくださいね」
「あ、ありがとうございますっ」
ハナさんは優しく、こちらに向けて話しかけてくれる。
それがたとえお世辞だとしても、俺としてはありがたい限りだった。
こうして明るい時に家の中を見回ってみると、昨日は気づけなかったものが目に入ってくる。
たとえば、この家は植物が非常に多い。
そもそもここが深い山の中だというのに、ハナの家はあらゆるところに植物が置かれていた。家の至るところに鉢が置かれており、そこには外にも負けない緑の色をした植物が健気に育っている。
それだけじゃない。テーブルや食卓にも立派な花が置かれてあるし、挙げ句の果てには壁にも何かが掛けられている。
きっと、ハナさんは自然のことを心から愛しているのだろう。
ここまでたくさんの植物の世話をするだけでも、かなり手がかかるだろうことは、こういうものに疎い俺でもわかり取れた。
そんなことを思いながら、俺がまた出かけようとすると。
「あれ、チサさん、靴下は履かないのでしょうか?」
「はい?」
ハナさんに意外な形で呼び止められた俺は、目をキョトンとする。
そもそも、さっき現状把握のために出かけた時、靴は履いても靴下などは履かなかったはずだが……。
「もし外に出るなら、靴下は履いた方がいいですよ。山道は険しいのですから」
「そ、そうなんですか」
確かに、さっきは靴だけを履いて出かけたが、妙に歩きにくかった覚えがある。あの時には気のせいだと思っていたが、どうやらそうでもなかったようだ。
「はい、わたしのお古でもいいなら、お貸ししましょうか?」
「あ、ありがとうございます、頂きますっ」
そうして、俺は図々しくもまたハナさんのお世話になることになった。
……機械の頃には、服はともかく、どうして靴下みたいなものを履くのかがさっぱりわからなかったが。
人間という生き物は、俺が考えていたよりも面倒な存在なのかもしれない。
まあ、俺はこうして、ハナさんの靴下を借りることになったのだが――
「あ、あの、これ全部、靴下で合ってるのでしょうか?」
クローゼットの下の方の引き出しを見せてもらった俺は、おずおずしながらそう聞く。
「はい。季節ごとに分けられてないから、ちょっと多く見えるのかもしれませんね」
「そ、そうなんでしょうか……」
はっきり言って今までの俺は、靴下なんか、似たようなやつが4足くらいあればそれで十分だろう、と思っていた。
だが、目の前にある靴下の数は、それを遥かに超えている。
ざっと見ても、10足くらいや余裕であるんじゃないのだろうか。色とりどりで、柄も様々だったため、じっと眺めていると目が回りそうだった。
それに、よく見ると長さもかなり違う。
……人間という生き物は、靴下という、普段は外に見せることがないものにすらここまで凝っているのか。
きっと、普通の人間ならこれで驚くことはあまりないと思うが。
機械の身としては、どうしてもそう思わざるを得ない。
「そうだ、チサさんはどちらがお好みなのでしょうか?」
「は、はいっ?!」
そんなことを思っていたら、ハナさんに話を振られて、俺は戸惑う。
……ここの中で一つを選べというのか?
こんなに靴下が多いというのに、その中で一つを選べと?
「やはり、こういうのは自ら選んだ方がいいのかな、と思いまして……どうでしょう?」
「そ、その、多すぎて、選べないっていうか、なんていうか……」
どうしてなのだろうか。俺は今、明らかに冷や汗をかいていた。
そもそも服とは縁のない存在だったからか、どうしても選べそうな自信が持てない。
「じゃ、これはいかがでしょう?」
そう言ってハナさんから渡してもらったのは、何の変哲もない、白い靴下だった。
確かに、これなら落ちつける。
……あまりにも目立つものだったら、こちらの身が持たなさそうだった。
「えっと、それで大丈夫です」
「よかった。これで外に出られるようになったんですね」
そう言いながら、ハナさんはこっちを見て微笑む。
……外の太陽よりもその笑顔の方が眩しく思えて、俺は思わず、少し視線を逸してしまった。
「では、少し外を見て回ってきますね」
ハナさんにそう伝えてから、俺は再び、外へ出かける。
外に出て、しばらく歩いてみると、確かに、さっきとは違ってたどたどしい感じがしない。
人間という生き物は、靴下という些細なものだけでも、ずいぶん変わってくるようだ。
……さすがは山岳だからか、ちゃんとした靴を履いたというのに、足取りが危なっかしい。もし俺が元の姿――ギガントであったとしても、こんなところではまともに動けないのだろう。
そういや、昨日、クロと言った男は自分が近いところに住んでいる、なんてことを言っていたが。
いったいどこをどう見ると、こんな何もないところが「近所」になるんだ?
確か、田舎なら家と家がお互い離れていることはよくあることだと覚えてはいるが、いくらなんでも、これじゃあんまりだとさえ思える。
しかし、ここに道らしきものがあるということは、どこかには民家もある、ってことになるのだろう。
とは言え、ここまで知らないところを、位置情報機能(GPS)もなしで歩き回るのは危険だ。今までの俺はずっとああいう機能に頼っていたわけだから、ここは慎重に行動した方がいい。
と思った途端、俺は向こう側で、どこか馴染みのある姿を見つける。
あの時――昨夜には周りが暗すぎてよく見えなかったが、それでもなぜか、俺が向こう側の人物を確信できた。
――間違いない。
あそこにいるのは、昨夜に出会った男、クロであった。
しかし、よく観察してみると、どこか様子がおかしい。あいつはどこかに向けて、手にした何かを投げていた。
いや、向こうにあるアレって、ひょっとしてゴミ箱じゃないか?
……もしかして、あいつは。
今、向こうのゴミ箱に、自分の持つゴミを投げかけている……?
「な、何をやっているのですか?!」
ようやくあそこまで近づいた俺は、クロに向けて声を高める。
……どれほど人があまりいない町だとは言え、あそこまでゴミをぞんざいに扱うなど、知性のある存在としてはやってはならないものだ。
「あ、チサさんですね。昨夜の方」
俺の声に、クロのやつがこちらに向かって振り返る。
昨夜は暗かったから気づかなかったが、こいつ、髪が灰色だ。明かりに照らされていた昨夜とはまた、地味に違う印象である。
こうして日の当たる場所で見てみると、なぜかますますムカついてくるのを感じた。
そこまで嫌われそうな印象ではないというのに、どうして俺はそう感じているのだろう。
「た、確かにそうですか、そんなことはどうでもいいんです。今、いったい何をやってるんですか?!」
俺の声が荒くなっていることに今になって気づいたのか、クロはふふっと笑う。その笑顔が、俺の怒りをますます強くさせた。
「す、すみません。チサさんがあまりにもすごい剣幕で畳みかけてくるから、つい」
「自分のことは別にいいです。ゴミを投げかけるとか、大人としてはやっていることが子供過ぎませんか?」
こちらの話を聴くと、クロはなぜか目を丸くする。しばらくじっとしてから、あいつは照れくさそうな顔でこんなことを口にした。
「ああ、これはただの遊びですよ。ゴミをゴミ箱にきちんと投げ込める、という」
「……はい?」
こちらとしては、わけがわからない。
いったいどうすれば、ゴミ箱にゴミを捨てることが「遊び」と言えるのだ?
「あはは、怖い顔してますね、今のチサさんって」
「い、いや。いくら何でも、ゴミをああいう形で捨てるのは――」
「まあ、遊びですからね。チサさんも見た通り、ここは都会に比べるとあまり遊ぶものがないんです。だから、このゴミ投げはいわゆる気休めみたいなものですね」
「気休め?」
ダメだ。ますますわからない。
人間というものは、こんな意味不明な気休めでもやっておかないと、生きていられない存在だったのか?
「チサさんって、ひょっとしてこんな遊び、やったことがないんでしょうか?」
「や、やったわけないじゃないですか。こんなもの、意味不明です」
俺の話を聴くと、クロは胡散臭い笑顔を浮かべる。
なぜだろう。ひどく嫌な予感がした。
「なら、やはり自らやってみた方が手っ取り早いですね」
「は、はい?」
俺は後ずさんだが、クロはニコニコした顔でこっちをじっと見つめている。
今度こそダメだ。押されそうになる。
別に強いられているわけでもないのに、やらなければいけない気持ちになるのはどうしてなんだ?
「僕はそこで見ていますから、一度やってみませんか?」
必死で断るための理由を考えてみたのだが、まったく思いつかない。
どうやら、俺はすでに、やつの策略に巻き込まれてしまったようだ。
「ほら、向こうにゴミ箱が見えるんでしょう?」
結局、というべきなのだろうか。
なぜか俺は、クロのやつに空き缶を渡されて、それを向こうのゴミ箱に投げ込むことになってしまった。
「あそこにひゅーんと投げ込めばいいんですよ。簡単です」
「……やはりこれって、お行儀悪い気がしますけど」
「いやいや、そうでもありません。むしろゴミをちゃんと捨てられるわけですから、環境に優しいんですよ」
「そ、そんな嘘には騙されませんから」
とか言っても、せっかくやらされてしまったものだ。こんなくだらないこと、さっさと終わらせてやる。
そんなことを思いながら、俺は腕を上げて、持っていた空き缶をゴミ箱に向けて投げかけた。
空き缶はもちろん、向こうのゴミ箱に入……らない?
「え、えっ?」
「あちゃーチサさん、失敗してしまいましたね」
こちらの失敗を喜ぶような口調で、クロはそんなことを口にする。
なぜかあいつのことがすごく憎く思えて、俺は持っていたあの空き缶を、そこに向けて投げたくなってしまった。
「これって、簡単そうに思えて意外と奥が深いんですよ。風の方向とか、角度とか、そういうものまで考える必要があります」
「そ、そんなこと、さっきはまったく口にしなかったんじゃないですか!」
「まあ、始める時は気軽くやった方がいいですからね。極めるなら大変ですよ」
「う、うう……っ」
ダメだ。完全にあいつに騙されている。
それを思うと悔しくて仕方がなかったが、このまま失敗して終わり、というのはさすがに自分のプライドが許さなかった。
どれほど機械の身だとしても、プライドというものは存在する。今は機械でもなんでもないが、ここで退くわけにはいかない。
「わかりました。やってやります」
そう口にして、俺は自分が投げたばかりの空き缶を再び手に取った。
……いや、あいつに遊ばれているのでは、と思わなかったわけではないが。
「えいっ!」
そうして何度も繰り返してやってみたが、どうしてもあと一歩で、空き缶はゴミ箱に入らない。
時には派手に方向がズレてしまうし、またある時にはギリギリのところで止まってしまう。ここまで来ると、こちらも悔しいというか、俺を弄んでいる気がして耐えられなかった。
「いや、だんだん上手くなってますね、チサさん。その調子です」
「べ、別にあなたの応援はいらないのですが」
しかし、こうして真剣に付き合ってみると、確かにこのゴミ投げ、奥が深い……というより、意外と難しい。
何せ、考えなければならないことが多いのだ。さっきクロも言っていたように、風の向きやら投げたゴミの軌道やら、普段はまったく気を使わない些細なものが、大きな影響を与える。
もちろん、ゴミ箱に近づけば簡単にはなるのだろう。だが、それではきっと、「遊び」にはならない。自分も、ここまで真剣にはならない。
……自分が元の姿であるギガントだったら、こんなもの、計算で楽をしていたはずなのだが。
悲しいことに、今の自分はただの人間であるからか、ああいう要素の計算が上手くできなかった。
「も、もう少し……!」
どう投げてみても、割りと距離が空いているからか、なかなか上手くできない。
風が強いとそこに左右されるし、投げる時に少しミスしたら、それがまた響いてしまう。
考えていたより、このゴミ投げっていうやつは遥かに難しいものだった。元の姿ならなんとかなったかもしれないが、今の自分にはかなり手強いかもしれない。
「チサさん、すごく集中してますね。びっくりしました」
「う、うるさいです。話しかけないでください」
隣でクロのやつが何か口にしているが、必死で無視する。ああいう雑音が入ると、どうしても集中ができないのだ。
「ほら、この遊び、なかなか奥深いでしょう?」
「た、確かに……えいっ!」
なぜかいい風が吹いた気がして、今度こそ本気で空き缶を投げる。
山の風はこちらにとって読みにくく、元々難しいゴミ投げの難易度をますます高めていた。
繰り返していたように、空き缶は放物線を描きながらゴミ箱の方へと飛んでいく。今度こそ、きっとなんとかなるはず――
――トカン!
と思った途端、本当に今度こそ、空き缶は見事にゴミ箱に投げ込まれた。
「や、やった!」
それを確認した瞬間、俺はそう声を高めていた。
これが充実感、と呼ぶものなのだろうか?
今までもギガントの一員として、あらゆる戦闘で活躍してきたつもりだが、今ほど達成感を覚えたことはない。
「いや、今度こそやりましたね、チサさん!」
「はい! ほら、私もやればできるんじゃないです……か……」
クロにも褒められて鼻が高くなっていた俺は、目に入ってきた「あの人」に気づき、視線を逸してしまった。
「おめでとうございます、チサさん」
その人――ハナさんは、優しい声で俺の成したことを喜んでくれる。それはとても嬉しい。嬉しく思うが……。
……今すぐ、穴でもあったら入りたくて仕方がなかった。
「は、ハナさん、いつの間に――」
「ふふっ、散歩に出てみたらクロさんとチサさんの姿が見えたものですから、何をやってるのかな、と思いまして」
「う、ううっ……」
これが「恥をかいた」という状況なのだろうか。
さっきまでいい気になっていたことまで含めて、自分の浅はかさがただただ恥ずかしい。
「何かに熱中していたチサさん、すごく可愛かったんですよ。本当です」
「え、えっと、わ、私、あまりこういう遊びとか、やったことがなくて」
なぜだろうか。声がどもってしまう。
やはり自分は、今のような状況をかっこ悪いと思っているようだ。
「そうだったのですか」
俺の話を聞いて、ハナさんはそう頷く。これはクロのやつも初耳だったのか、一人でうんうんと何度も頷いていた。
「チサさん、あまり遊びをなさらなかったのですね」
だからなのだろうか。
ハナさんから笑顔でそういう話を聞かされると、なぜかとても恥ずかしい気持ちになる。
……自分のつまらなさが披露されたような気がして、どうしてもそうなってしまうのだ。
「あっ、そうだ」
その時、いきなりハナさんがパッと手を打ったため、俺は少し驚く。
振り返ってみると、ハナさんは今まで見たこともない、キラキラとした瞳をしていた。
いや、俺がハナさんと知り合ったのはつい昨日のことだから、見たことのないのは当然だが。
「まだ家の物置に、昔、わたしが遊んでいた遊具が残ってるはずなんです」
「そ、そうなんですか」
「はい、せっかくですし、持ってきましょうか?」
「……はい?」
さっきからなぜかニコニコしているハナさんを目の前にして、俺は戸惑う。
今、何が起きているんだ?
いや、そもそもどうして、こんな流れになっているのだろうか?
「今のチサさんを見ていたら、突然『アレ』を思い出しまして」
「あ、ひょっとして『アレ』のことでしょうか? なんとなく予想はつきますけど」
ダメだ。クロのやつもだいぶ乗り気である。
まるで新しい玩具でも見つけたような、ガキみたいにニヤニヤした顔だ。
「はい、それだと思います。クロさんとも子供の頃、よく遊んでましたね」
「ああ、それならチサさんにも楽しんでもらえそうですね」
よくわからないが、ハナさんもクロのやつも、子供の頃によく楽しんでいたものらしい。
……なぜだろう。
せっかくのハナさんの提案だというのに、あまり良くない予感がする。
「ちょっと待ってくださいね。すぐ持って来られると思いますから」
そんな言葉だけを残し、ハナさんはステップを踏むような足取りで消えていく。
――だから、どうしてこんな状況に?
クロのやつと二人きりになってしまった俺は、ただただそんなことしか考えられなかった。
「待たせてごめんなさい、少し遅くなりましたね」
しばらくしてから。
ようやくやってきたハナさんの手には、どこかでよく見た玩具があった。
「いや、やはり『アレ』でしたね。懐かしいなぁ」
ハナさんが戻ってくるまで、ずっとこちらの顔をニヤニヤと眺めていた気持ち悪いやつは、それを見た途端、目を輝かせる。
……あいつにとっては、そこまで思い入れのあるものだったのだろうか?
先からずっとあの視線を無視しながらじっとしていたため、既にずいぶん疲れてきた気もするのだが……ハナさんにも思い入れのあるものだったら、ぞんざいに扱うわけにはいかない。
で、「アレ」は、俺の覚えが間違ってなかったとしたら――
「輪投げ、でしょうか?」
「はい、バレバレでしたね。わたしも子供の頃、これでよく遊んでいました」
そう、あれは子供がよく遊ぶ、輪投げという玩具のはずだ。
もちろん、俺がアレで遊んだ経験なんかあるわけないけれど、なぜかアレって、妙な親しみがある……ような気がするのだが……?
「あっ、チサさんも気づいたようですね。これも『投げる』って意味では、さっきのゴミ投げと似たようなものなんです」
「あ、それだ! 確かに、そうなんですね」
「はい、だからハナさんが輪投げのことを思い浮かべたのも、決して唐突なものではなかったわけですね」
確かにあいつの話通りだが、なぜかそれを得意げに話すクロの顔を見ると、ひどくムカついてきてしょうがなかった。
……あいつには、ハナさんとの思い出というものがある。
俺なんかが知るわけもない、たくさんの追憶を持っているわけだ。
「さっき、チサさんとクロさんのことを見て、これのことを思い出したんです。あまり遊んだことがないのなら、これはいかがでしょうか?」
「あ、ありがとうございます。えっと……」
やはり、ハナさんからの頼みは断れそうにない。だが、なぜかすんなりと受け入れづらいのも事実ではあった。
あの輪投げ、色が明るすぎるというか、ピンクばかりである。
ハナさんの遊んでいた玩具だから当たり前ではあるが、どうしてか俺はささやかな抵抗感を覚えてしまった。
「あっ、ひょっとして子供向けの玩具は嫌なのでしょうか? 性に合わないとか――」
「い、いえ、大丈夫です! そもそも遊んだこともありませんし……」
ハナさんの話に、俺はすぐ首を横にふる。
考えてみると、その「子供向けの玩具」というところも、返事しづらい気持ちにさせていたのかもしれない。
……そもそも、ギガント――AIに子供の頃っていう概念は存在しないから、こんなもの、遊んだことなんて一度もないが。
色のことは……まあ、目をつぶろう。そこまで大したものでもないのだから。
ならば、きっと大丈夫であるはずだ。何の問題もない。
「よかった。チサさんが嫌だったらどうしようかと思って」
「い、嫌だなんてとんでもないですよ! あ、遊ばせていただきますっ」
ああ、やはり自分はハナさんには敵わない。
ハナさんが寂しそうな顔をするなら、俺の選ぶべき選択は一つしか残っていなかった。
「え、えいっ!」
さっきと似たような要領で、俺は輪を向こうに投げてみる。
確かにゴミ投げと似たようなやり方ではあるが、感覚としては少し違う。何せ輪だから掴んでいる感覚も違うし、向こうにある台の形も異なっている。
やはりというべきか。
投げてみた輪は、あちらに届かず、少しずれたところに落ちてしまった。
「だ、ダメでしたね」
「初めはみんなそんなものですよ。やり続ければ、きっと上達します」
「そ、そうなのでしょうか」
「まあ、僕が子供の頃にも大変でしたからね。今回が初めてだとしたら、チサさんもまだまだ伸びしろがあると思いますよ」
「あ、あなたの意見はどうでもいいです」
と口にしながらも、俺は輪を投げることを止めない。
なんと言えばいいのだろうか。ギガントとしていつもやっている模擬訓練と似たようなものだというのに、なぜか熱が出てしまう。
これは、成功させたい、という欲求なのだろうか?
今まで感じてきた、義務のような意識とは違う気がした。
「もう少し……もう少し……あっ、入った! 入りましたよ!」
「チサさん、子供の頃のわたしを見ているようで、とても微笑ましいですね」
「奇遇だなぁ。僕も似たようなことを思ってました。ハナさんもそういや、なかなか負けず嫌いだったんですよね」
「ふふっ、子供の頃にはついムキとなってしまいました」
ようやく輪が入ってくれたというのに、ハナさんとクロの話を聞いていると、なぜか悔しくなってしまう。
だが、やはり輪投げを成功させたのは嬉しかった。今まで感じたことのない何かで、体が満たされている気がする。
これが、人間の「感情」に当てはまるものなのだろうか。
しかし、ギガントの頃にも思っていたことだが――人間の感情というものは、いったい何者なのだろう?
「た、大変だった……」
ようやくハナさんと家に戻ってきた俺は、急に疲れるのを感じる。
どうやら、今までやったこともない山道を歩くことやゴミ投げ・輪投げに、すっかり疲れてしまったようだった。
人間という生き物が機械より脆いことはわかっているつもりだったが、やはり経験してみると、知識ではわかるはずもなかった実感が沸いてくる。
「それはそれとして、チサさんがあそこまでゲーム好きだったとは知りませんでしたね」
ハナさんは、こちらに向かって振り返りながらそう口にする。
……やはり、さっきのような姿を見せてしまったことは非常に恥ずかしい。
「は、恥ずかしい限りです。ああいうもの、今まで一度もやってなかったのですから」
「でも、やはりゲームって面白いんですよね。よろしかったら、また他のゲーム、やってみませんか?」
突然のハナさんの提案に、俺は驚く。
まさかハナさんから、そういう提案が出てくるとは思わなかった。
「えっ、ゲームですか?」
「はい、あまり有名ではないのですから、チサさんには馴染みのないものかもしれませんけど」
そんなことを口にしながら、ハナさんは部屋の奥で何かを取り出す。
少し遠いためここからはよく見えないが、あれはゲーム盤だと思われた。
「チサさん、ナイン・メンズ・モリスってご存知でしょうか?」
「あっ、それって――」
ハナさんが持ち出してきたゲーム盤を目にして、俺はそれを思い出す。確か、それはボードゲームの一つだったはずだ。
……俺の記憶違いでなければ、あのゲームは既にコンピュータによって解析が終わったものだったはずだが。
既に必勝法が知りつくされたゲームを、わざわざ自分がやる必要はあるのだろうか。
機械の一存としては、どうしてもこんなことを考えずにはいられなかった。
「はい、ここじゃそこまででもないですけど、外ではかなり知られているゲームなんです。もしよければ、いかがでしょう?」
しかし、こんなつまらない考えで、ハナさんの提案を断るわけにはいかない。
「は、はいっ」
俺の頷く姿を見て、ハナさんはまたこちらを見て微笑む。
……どうしてだろう。
その笑顔を、まっすぐ見ることができなかった。
そうして、俺はあまり気が乗らないまま、ハナさんとゲームをすることになったのだが――
自分がどれほど愚かだったのかに気づくことに、そこまで長い時間はかからなかった。
「あっ、わたしの方、『ミル』になってしまいましたね」
「は、はいっ?!」
まだ配置の途中だというのに、もうそんなことになってしまったことに驚く。いや、確かに今から考えておいた方がいいとは思うが……。
「あれ、また『ミル』になっちゃった。ごめんなさいね、チサさん」
「い、いえ、大丈夫です! これは私のせいですし――」
それからもだんだんハナさんは「ミル」を起こして、俺のコマをだんだん奪っていく。こちらとしてもなんとか頑張ってみたが、いくらなんでも、残りコマが3個では限りがあった。
……実際にやることは初めてだが、このゲーム、ここまで難しかったのだろうか?
だが、機械によって解析はされたはずで……いや、確かに今、俺は機械ではないが、それでも――
「あはは、負けてしまいましたね、チサさん」
「そ、そうですね……」
そうして完璧に負けてしまった俺は、ハナさんの顔を見ることができず、そっと視線を逸らす。
……これは完全に、俺の方が馬鹿だった。
どれほど「解析された」とは言え、自分が実際に勝ち抜けないと、何の意味もないのではないか。
「ふふ、チサさんは初めてのようでしたから、これからどんどん上手くなりますよ」
「あ、ありがとう、ございます」
ハナさんの温かい一言に、俺はますます、頭が上がらなくなってしまう。
ひょっとして、自分が「元の姿」――ギガントだったら、ここで勝つのは難しくなかったのかもしれない。今の自分は人間であるからか、どうしてもゲームを把握することに頭がいっぱいで、他のことはまったく考えられなかった。
だが、もしそうして勝てたとしても、俺は嬉しかったのだろうか?
そもそも、本当にそうなったとしても、俺は「自分の力」で勝てたと喜べたのだろうか?
もちろん、元々俺は機械であるわけだから、それは「自分の力」だと言えなくもない。だが、それは当たり前であるが故に、喜ぶべきものでもない。
さっき、ゴミ投げや輪投げの時の俺は、間違いなく成功していたことを喜んでいたわけだが、それはギガント――機械としての性能に頼らなかったからこそ、湧き出た感情だと言えよう。成功というものは、勝てたというものはきっとそういうものであるはずだ。
……人間にとって、遊びというのはどれほどの意味を持つものなんだろう。
ようやく頭を上げ、自分の前で勝利を喜んでいるハナさんを見ながら、俺はぼんやりとそんなことを考えた。
「ハナさんって、やはりゲームとか、よくやるのでしょうか?」
「そうですね、ゲームは好きですよ。今日も送られてきたメールに返事をしようとしたところです」
「……メール?」
俺を首を傾げると、ハナさんはこちらに向かって笑いかける。
自分から言うのは何なのだが、どうやらこちらの様子が面白かったようだ。
「あ、チサさんはご存知ではないのですね。手紙で遠くにいる方々とゲームをするんですよ。チェスとか」
……それがどういう意味なのか、しばらく理解できなかった俺だったが、ようやく、それが「手紙でコマを一つずつ動かしてゲームをやる」ってことに気づく。
もちろん、自分がやったことは一度もないが、どうしても気にかかる。
今のような時代で、ああいうやり方で遊びを楽しむ必要はあるのだろうか?
「えっと、それってすごく時間がかかりそうですけど……」
「そうですね。ここは山岳なのですから、やはり郵便物は届くのが遅くなってしまいます」
その話を聞いて、俺はハナさんの言っていることが「電子メール」ではなく、「手紙」の方だったということに気づく。
なら、ますますわからない。
そこまで手を煩わせて遊ぶことに、どんな意味があるというのだろうか。
「それなら、どうして――」
俺の話を聞いたハナさんは、またふふっと微笑んでから、こう答えてくれた。
「それを待つ時間すら、愛しくなってしまうんですよね。ドキドキするというか、何というか」
ふと、俺は朝からの出来事を振り返ってみた。
クロのやつがやっていたゴミ投げ、自分がやらされた輪投げ、ハナさんと一緒にやったナイン・マンズ・モリス、手紙でやるゲーム。
……遊びとは縁のない存在だった俺には、その「遊戯」とやらの面白さがよくわからない。だが、それに熱中していた自分がいたのも事実だ。
機械にとってはどれほど無駄なものだとしても、人間はいつも全力でこなす。
今までまったくわからなかったものが、一つわかりそうな気がしてきた。