あおぞら――プロローグ/逃避

 あの暗い夜に、俺は妹と「あの家」を出て行った。
 ――二人が入れ替わっているという、あまりにも絶体絶命の状況で。

 時は冬。
 もう2月も後半になったばかりだが、未だに寒い日々は続いていた。それも、とても暗い真夜中のことである。
 だが、俺たちは急がなければならなかった。
 もう、あの家にはいられない。
 蒼乃だってそう思っていたはずだ。
 ……「俺の姿」というハンデを持っていた今ならなおさら。

「あの、に、兄さん、今からどこへ……?」
「どこにだっていいだろう。せっかく助けてくれるってところも出てきたんだからな」
「で、でも、わたしはその、心配で……」
 元からあまり積極的ではない性格だからか、俺の姿をした蒼乃は顔を暗くする。
 そりゃそうだろう。蒼乃は一人で遠いところへ行ったことがあまりないはずだ。俺ならばそうでもないが、蒼乃はほぼ家で時間を過ごしたらしいから。
 だが、今はそれところじゃない。
 もうああいうところで暮らしていたら、どうなるかわからない。
 ――ぎゅっと。
 自分の「小さな」手で、かつては自分のものだった「大きな」手をつかむ。
 はっきり言って、この体で自分のような大きい男を連れて行くのは無理があったが、今は仕方のないことだった。
 戸惑う俺の、いや、蒼乃の顔が目に入ってくるが、いったんそれは気にしないことにする。
 どれだけ俺の姿をしていたとしても、蒼乃はまだ学園一年生でしかない女の子だ。
 いや、まだ学園には入ってもいない。蒼乃はようやく、中学の卒業を目の前にしたばかりだった。まだ卒業式を1ヶ月前に残している女の子である。
 一応年と比べたらかなり大人びているが、それでもまだ、一人で生きていくのは難しい子だ。
 だからこんな時、俺は前に立つ必要がある。
 今、蒼乃にとって一番頼りになるのは、ここにいる俺でしかないのだからだ。
 たぶん、蒼乃の方もずいぶん戸惑っているのだろう。
 それもそのはずだ。「自分」が「自分」の手を導いているだなんて、誰に信じてもらえればいいのだろうか。
 きっと、この風景は周りからはおかしく見えるのだろうが、それでも俺はかまわない。今はそんなことなんて目にはいらないからだ。
 だから俺は、蒼乃の手を導いて足を速める。
 ここではない、「止まり木」を目指して――

「兄さん」
 夜行列車に乗り込んでから、蒼乃が真剣な表情で俺を見る。
 自分の顔でありながら、その表情にはいくつかの不安、そして戸惑いが残っていた。他の人にはわからないと思うが、長い間一緒に過ごしてきた兄には、「蒼乃」の表情がよくわかる。
 ……ところで、「今」の自分よりも体がデカいということが、これほど威圧的なものだったとは思わなかった。
 向こうにいるのは見慣れた自分の姿で、中身は蒼乃であるはずなのに、どうしてかそんなことを感じてしまう。
「どうした?」
「これからわたしたち、どうなるのかな、と思って」
 今まで見せなかった不安げな態度で、蒼乃が窓の外へと視線を落とす。
 普段の蒼乃なら、今よりはもう少し落ち着いた反応を見せるのだろう。いきなりの家出、そして『俺』の姿でいられずを得ない状況が蒼乃を不安にさせているわけだ。
「大丈夫だ。どこにだって、あの家よりはマシだろう」
「それはわかってるけど、その、これからどうなるのだろう、と思うと……」
「安心してもいい。俺がいるだろ。今は頼りにならないと思うが」
「だ、大丈夫。頼りになってるよ。だって、兄さんがいなかったら、わたし」
 そこまで言って、蒼乃は視線を下へ落とす。今までのことを色々考えていたのだろう。2週間前の入れ替わり。そして、今置かれている自分の状況について。
「兄さんこそ、その、大変じゃない? わたしの姿で疲れちゃって、その」
「いや、俺は大丈夫だから。心配するな」
「でも、兄さんだってよく無理するし」
「蒼乃だってそうだろ」
「そ、それはそうだけど」
 図星だったからか、蒼乃がすぐ視線を逸らす。
 俺たち兄妹は似たもの同士だ。兄妹なんていつも似たものばかりだとは思うが、俺らの場合、他のところよりも性格や癖などが妙に似ている。
 ……それはまあ、前からずっとわかっていたことなんだが。
「ごめん、兄さんもゆっくり休んで。まだ時間がかかると言ったよね?」
「そうだな。先に寝る。何かあったら起こしてもいいからな、わかった?」
「うん、おやすみ」
 おなじみの自分の声が蒼乃の口調で語りかけているという違和感を無視して、俺は目を閉じることにした。
 ここまでオドオドとしている自分を見ていると不思議な気持ちになる。もう入れ替わって二週間は経ったから、いい加減慣れたと思っていたんだが。
 蒼乃も大変だな。ああいうしゃべり方なら周りから変な眼差しで見られるかもしれないだろう。
 自分のことを棚に上げて、俺はそんなことを思いつつ、夢へと落ちていった。ここまで「普通じゃない」状況なのに、なぜか眠くなるのはいつもと同じである。
 これからはどうなるだろう。
 何ともなれ。きっと、今までよりはよくなるはずだからな。俺も、そして、目の前にいるはずの蒼乃も。