87.ありがと、みんな

 いろいろあったけれど、ようやくやってきた休日の午後。
「お、おう、来てくれたんだな、柾木」
 私は珍しくも慎治に呼ばれて、ここ、いつもの公園までやってきていた。
 ……こいつ、以前には「話すだけなのに、わざわざ公園まで呼び出して」なんか言ってきたくせに、今度はどういう風の吹き回しなんだろうか。
 正直、かなりわかりかねる。
 まあ、こいつの考えていることなんて、昔からわかりそうでわかんなかったけど。

 それよりいちばん訳わからないのは、今のこいつの変に改まった態度だ。
「その、なんだ、最近のお前、どこかおかしいって聞いたからさ」
 ――どうしたんだろう。
 いつもと違って、今日の慎治はどこかおかしい。いや、元から変なやつではあったけど、今ほどではなかった。
 こいつ、ここまで私のことを気遣うやつじゃなかったし、いや、そもそも――
「……どうして、『この姿』の私に会いたいって言ったの?」
 そう、はっきり言って、これがいちばんおかしい。
 こいつ、以前には「元の姿」の私を見て、思いっきり現実逃避してたはずなのに……。
「い、いや、それは否定できないんだが」
「まったく……」
 私の顔を見ていろいろ察したか、慎治はすぐこっちから視線を逸した。
 ……本当に、どうしたんだろう。
 ここまでして、こっちに伝えたかったものでもあるのかな。

「そ、その、お前、未だにあの時俺の言ってたこと、根に持ってるなら――」
「だから、どのこと?」
 私がそう聞くと、慎治は明らかに困った顔をする。まるで痛いところを突かれたような、情けない顔だった。
 ……こんなの、今の自分が言ってもあんまりシャレにならないけれど。
「そ、その、言ったろ。お前――柾木の『元の姿」と『別の姿』って、まるで別人みたいだって」
「……ああ、あのこと」
 なんでもないフリはなんとかできたものの、今度は私の方が戸惑う番だった。
 今日の慎治は、妙に鋭い。
 たぶん自覚はないと思うけど、こっちの痛いところを絶妙に突いてくる。
「いや、その、俺の思い上がりなら別にいいけどさ」
 慎治も照れているのか、こっちから露骨に視線を逸してきた。
 ……まあ、こっちだって今は、必死で慎治から視線を逸しているわけだけど。
「お、お前、まさかそれのせいで、最近落ち込んだりしてるんじゃないんだろうな?!」
 やはり、慎治は慎治だ。こんな時に堂々とああいうのを喋ってたら、きっとかっこよかったはずなのに。
 誰からどう見ても「似合わないセリフを口にしている」気満々で、見ているこっちが恥ずかしい。
 別に、嫌じゃないけど。
 むしろ、その心遣いはかなりありがたかった。

「……そんなわけ、ないじゃない」
 そうだというのに、私はこの場面においても、素直にはなれない。
 やっぱり、慎治のように長く付き合っていた親友に、心配はかけられないんだ。
「別にそれは、きっと慎治の思い違いで――」
「そんなわけ、あるか」
 その時、私は目を疑った。
 自分が知っている慎治は、こういう態度、見せたことなんてない。
「親友舐めんなよ。お前と俺って、どれだけつるんでたと思うんだ? どれだけ『元の姿』だとしても、お前の気持ちなんか、隠し通せると思ってたか?!」
「あ、あんた――」
「そ、そりゃ戸惑わなかったら嘘に決まってる。いきなり親友がいつもと違う姿になってるもんなぁ……。でも、お前がどんな姿でも、どんな口調をしてたとしても、いつもと違って頼りない様子だというのはすぐわかるんだよ、今のようにな!」
「っ……」
 どうしよう。戸惑ってしまう。
 周りの人たちにはかなりいかがわしい話に聞こえると思うけど、私なら、わかる。
 こいつと親友、いや悪友をやってきて、もうそろそろ長い時間になった。
 ……ここまで本気である慎治って、たぶん今まで、見たこともない。
「お、お前、いつもはこんな頼りないやつじゃないだろ? いつも堂々としてた、俺の知ってる高坂柾木はどこ行ったんだよ!」
 声が、痛い。
 今の慎治は、間違いなく本気だ。
 こいつ、今のなよなよしい私に――本気で、怒ってるんだ。
「いつもは俺より何倍もしっかりしてるくせに、こんな時だけ体引いて、楽しいのか?! いつからそんな軟弱になったんだよ、馬鹿野郎!!」
 ……今まで私、ここまで慎治に激しく怒鳴られたことってあったのかな。
 ちゃんと覚えているわけじゃないけど、きっと、今度が初めてなんだろう、と私は思った。
 ここまで真剣な慎治って、今まで見たこともない。
 なんでいつも自分のことになると適当なのに、たかが親友のためにはここまで本気になれるんだろう、この男は。
「そ、その、なんだ。親友の一人として、ああいう情けないヅラしたお前って、見たくなんかないんだよ。そのへん、察してくれよな!」
 やっぱり、とことん不器用なやつ。
 ……そんなこと、今の私が口にする資格はないんだけど。
 なんだかんだ言って、その心遣いは嬉しいし。
 自分の親友の「元の姿」を目の前にしたというのに、慎治は今になっても、まったくブレないんだ。
 普段はチキンなくせに、いざといえばなんだかんだ言ってやる野郎。
 だから、私はこいつとずっと、親友をやっていたんだと思う。

「あ、あ、あのな!」
 また声が、不自然に大きくなった。
 今度の慎治は、きっと本格的に動揺しているんだろう。ぶっちゃけ、遠目から見ると不審者でしかないと思う。それを口にするつもりはないんだけど。
「ま、柾木はな、俺がこうやってガサツに接することができる、唯一の女子だからさ!」
 聞こえている。
 それこそ呆れるほど、しっかりと。
「そ、それに! お、お前は、俺にとって、いつまでだって世界一の親友だからさ! そこらへん、ちゃんとわかってるんだろ?!」
「……当たり前、じゃない」
 知っている。
 それこそ、あいつと初めて出会って、「友だち」と認めてからずっと。
「つ、辛いんだよ! 世界一の親友が、そんな辛そうな顔なんてしたらさ! わ、わかってくれよな、そこらへん!」
「……知ってるってば」
 声、大きい。
 周りにきちんと、呆れるほどに響いている。
「そもそも、馬鹿野郎とか、情けないヅラしてるとか、俺がお前以外の女に、そんなこと言えるわけないだろうが。畜生……」
 ここに来て、ようやく自分が今までどれほど恥ずかしいことを大声で言いふらしていたのか気づいたようで、慎治は照れた顔で俯いてしまった。
 まあ、いつもなら少しはからかったかもしれないけど……。今回だけは、その気にならない。慎治は自分のため、ああいう恥ずかしい行動をしてくれたとわかってるから。
 とは言え、慎治が自分の親友のためにあそこまで熱くなれるやつだったことは、私も今日、初めて知った。
 やっぱ、どうしようもないバカだな、こいつは。
 ……そんなバカだから、私はずっと、一緒にいれたんだろうな。

「大変だった……」
 そうして慎治との話が終わって、私は一人で家に戻る。
 ……さっきは本当に、恥ずかしかった。嫌じゃなかったけれど。
 まさかあいつ、あそこまで私のこと思ってるとは考えてなかった。きっと慎治は、これを知ったら私に愚痴をこぼすんだろう。
 私、いい親友を持ったかもしれないな。
 こんな状況になって、私は初めて、それに気づく。

 そんなことを考え込みながら、私が大通りを歩いていると――
「……あっ」
 気づいてしまった。
 向こうから、雫がこっちへと近づいて来ることに。
 どうしよう。どうしたらいいんだろう。
 私、いつかまたやってくるかもしれなかった「この瞬間」に、まだ心の準備ができてない。
 きっと、こんなこと言い出すと笑われるんだろうけど……それでも、今の私にはこの状況に耐えられる心の余裕がないんだ。

『あはは、久しぶり。夏休み、元気にしてた?』
 そんなに慌てている時にも、雫はこっちにやってくる。どうやら雫は、またあの日のように誰かと電話をしているようだった。
 ――心臓が、止まりそうな気がする。
 あの日の続きだということが、痛いほどわかってしまって。
 嫌なくらいに、胸がときめく。
 日差しが強いからなんだろうか、体から変な汗が出てきそうで、怖かった。

 ――今度は、見つけてくれるんだろうか。
 ダメだ。こんなこと、考えてはいけないってわかってるのに。
 どうしても、あの日のことが頭から離れない。
 あの時、私はすごく苦しんだ。今までは明かさなかった「元の姿」を、雫にバラしてしまったくらいに。
 ……どうしよう、このまま死んでしまいそうだ。
 あの日のことは、やっぱり忘れることができない。
 ずっとずっと、心の中に残って――消せなくなってしまう。
 こんなことを思っている途中にも、雫はだんだん近づいて来ているというのに。
 今すぐ、すぐここまでやってくるというのに――
 怖い、体が震えてしまう。
 ここまで暑い真夏だというのに、体が、耐えられない。

 ……でも、そのドキドキは長く続かなかった。
 結局今度も、雫は私のすぐ前までやってきて――
『うーん? わたし?』
 以前のように、雫の声が、すぐ近くで過ぎ去る。
 電話で夢中だったからか、雫は今度も、私に気づいてくれなかった。
 別に、期待したわけじゃない。
 ……怖いから、期待なんてできない。
『わたしはね、ちょっといつもの日課。最近はできる限りやってるからね~』
 そして、雫が遠くなる気配を、感じてしまう。
 ――ああ、やっぱりだ。
 今度も雫は、こうして私から過ぎ去ってしまうんだ。
 勝手に期待して、勝手に落ち込んでしまう。
 やっぱり今の私って、どこか変だ――
『そうそう、言ったじゃない』
 雫の声が、また遠くから聞こえてくる。
『わたし、やらなきゃいけないこと、あるって』
 どうしたんだろう。
 気のせいなんだろうか、雫の声が、ひどく近くから聞こえてきたような――

 そんなことを思っていたら、ふいに後ろから、気配がした。
「――柾木」
 見つけて、くれた。
 雫が、後ろから私のことを――ぎゅっと、抱きしめてくれたんだ。
 こんなに暑いというのに、あまりにも暖かくて。
 涙が出るくらいに、嬉しくて。
 頭が、空っぽになる。
 これが、心から満たされるって感覚なんだ。

「わたし、あの日からずっと、暇さえあればここらへんを歩いてた。あの日のこと、どうしてもやり直したくて、我慢できなかった」
 どうしよう。
 雫の声が優しすぎて、痛むほど心に染みてくる。
「あはは、バカみたいだよね、わたし。また柾木とばったり会える確率って、びっくりするほど少ないというのに。でも、わたし、そうでもしないと耐えられなかったの」
 雫の声は、静かに続いてゆく。
 私を後ろから抱きしめているその腕が、微かに震えたことを、感じる。
「それにしても、不思議だよね。まさかほんとにこうなってくれるとは、わたしだって思わなかったんだよ?」
 その涙ぐんだ声が、あまりにも嬉しさに満ちていたから。
「……うん」
 私は、ただ静かに、そう頷くしかなかった。

「あ、ありがと、雫。私のために、ここまで……あっ」
 ようやく勇気を出した私が、なんとかそう答えて振り返ると――予想外の姿が、目に飛び込んできた。
 雫の、あの服。
 これって、いつもと違う。この茶色のワンピースには、すごく見覚えがあった。
「この服って――」
「ふふっ」
 私が驚くと、雫はいたずらっ子みたいな顔で笑ってみせた。きっと、雫は私がこれを見て、驚くってわかってたんだろう。
「これ、忘れたとは言わないよね? 以前、柾木が選んでくれたあの服なんだよ」
「お、覚えてるよ。でも、どうして――」
「もちろん、こんな時のために決まってるんじゃない」
 そんなことを口にしながら、雫はじっと、私のことを見つめる。
「きっと、柾木は喜んでくれるから、でしょ?」
「……っ」
 図星すぎる。
 こんな雫を見せられたら、私はもう、我慢できない。
 涙だって、溢れてしまう。
 この感情を、抑えることができないんだ。

「ひょっとして、柾木ってそんなこと思ってた? あなたが『元の姿』なら、わたしに愛想を尽かされるとか」
「……」
 私は、思わず頷いていた。いつもなら雫のことを考えて認めないはずなのに、今だけは、嘘がつけなかった。
「柾木のバカ。そんなわけ、ないじゃない」
「ご、ごめん、でも『元の姿』の私、未だにツインテとかしてるし、雫と釣り合わないと思って――」
「わたし、誰にも見せられないような醜いところ、柾木には全部見せられた」
 雫は、私のことをじっと見ている。
 ……私の心の奥底を、じっと、見つめている。
「他の誰でもダメ。こんなわたしを受け入れてくれたのは、柾木だけだったから」
「……」
 照れくさい。
 そういうのを直球に言われると、どういう顔をすればいいのか、わからなくなる。
「そんな柾木の『元の姿』がどんなんだって、わたし、気にしないし、構わないよ」
 雫の声に、力がこもる。
 その声は、不思議なほどまっすぐに、私に響いてきた。
「どんな姿でも、どんな人間でも、柾木はわたしにとって、やっぱりいちばん大切な人だよ」
「……雫」
「それに、そのツインテ、すごく似合ってるじゃない。今の柾木、すごくかわいいよ」
 そう言って、雫は微笑む。
 その笑顔がとても愛しくて――そして、辛い。
 もう私と雫は、「特別な関係」じゃない。
 なのに、雫は私のために、今、ここにいてくれたんだ。

「だから、どうか――」
 雫は、また微笑む。
 ズシリと、心がまた、痛んだ。
「負けないでよ。わたしの男――わたしの、何よりも大切なひと」
 その声が、その心が、私の体を動かす。
 確かに私は、もう雫の「男」じゃない。私にはもう、秀樹がいるんだから。
 でも、雫と私は、いつまでもずっと、「特別」なんだ。私にとって、雫にとって、お互いはずっと「かけがえのない」存在なんだ。
 今の雫が伝えたかったのも、教えてくれたのも、きっと、そういうものだと私は信じている。
 あなたは一人じゃない、って。
 あなたのそばにはわたしがいる、って。
「あなたが悲しむと、わたしだってすごく苦しい。わたしに手を伸ばしてくれたあなただから、誰よりも幸せになってほしいんだ」
 こういう時の雫に、私は逆らうことができない。
 きっと助けられたのは、雫じゃなくて私の方なんだから――
「……ありがと」
 私は、不器用ながらもその言葉を口にする。
 自分が誰よりも愛した、これからだって愛し続ける、たった一人の少女のために。
「ふふっ。ここまで素直な柾木って、ある意味、本当にレアだね。わたしと婚約してた時だって、こんな顔は滅多に見せなかったというのに」
 それがそこまで嬉しかったんだろうか、雫は――
「なんてこと、思っちゃった、あはは」
 ――涙ぐんだ眼差しで、こっちに向かって微笑んでいた。

「でもね、わたし、一つだけはすごく悔しいんだよ」
 ようやく笑顔を見せてくれた雫は、急にそんなことを言い出した。
「な、なに?」
「べ、別に大したことじゃないけど、モヤモヤするっていうか、なんていうか……」
 そこまで言って、雫は顔を赤くする。
 あ、あれ、どうしたんだろう?
 雫がここまでしおらしくなったことって、今まであったっけ?
 雫は相変わらずこっちから視線を逸したまま、どこか拗ねているような口調で、口を開く。
「柾木って、兎派じゃなくて犬派だったんだね……」
 ……拗ねた理由って、それだったんだ。
 私はますます、雫のことが愛しくなってしまった。
 もう、私はあなたの彼氏にはなれないけれど。
 でも、あなたと私の関係は特別で、誰にも侵されないものだと――そう、信じていたい。
 きっと、これは私のわがままでしかないけれど。
 私は、雫にとって特別な存在だと、そう思いたいから。