そうして、私が秀樹の家から「組織」へ戻ると。
自分を待っていたのは、あまりにも突然な事実だった。
「つまり、ひ……橘の『元の姿』が解析された、ということですか?」
私は目の前にいるお父さんにそう聞く。今はお父さんというより、上司と言ったほうが正しいが。
「ああ、時間はかかったが、ようやく解析が終わった、という報告が入っている」
「そうですか」
どう反応すればいいのかわからなかったが、とりあえず、秀樹にとっては、間違いなくいいニュースだろう。
つまり、秀樹はもう「元の姿」に戻れる、って話なんだから。
「橘にこのことについて、話してもよろしいでしょうか」
「ああ、こっちでも準備を済ませておく。今、橘はどこにいるんだ?」
「自宅です」
「なら、ここよりはお前の機械を使った方が早いかもしれないな。ともかく、準備が済んだらまた連絡する。それまでは、橘と待機していてくれ」
「わかりました」
私は、自分の心臓が激しく跳ねることを感じる。
早く秀樹にこれを伝えたくて、体がムズムズしていた。
『え、そうなの?』
お父さんの執務室を出てから、私はすぐ「端末」でそれを伝えたが、秀樹の反応は、予想外に淡々としたものだった。
『ああ、ようやく秀樹も「元の姿」に戻れるんだ。よかったな』
『ん……そうなのか』
淡々ところか、あまりにも素っ気ない反応に、私は少し戸惑う。や、やっぱり昨日の気持ちがまだ残っているのかな? もうちょっと、喜ぶかと思ったけど……。
『準備が整えたら、こっちまでまだ連絡が来るということだ。それまで少し我慢してもらうことになると思うが……後で俺もそっちに行くから、それまで待っていてくれないか?』
『うん。待ってる』
やっぱり、秀樹の声にはあまり元気がない。
心配だ。昨日だって、秀樹はかなり落ち込んでいたというのに。
ともかく、私は午後まで「組織」で与えられた仕事を終わらせてから、秀樹の家に向かう。まだ秀樹のデータについての連絡は届いてないが、やはり一秒でも早く、秀樹の様子が見たかった。
そんなことを思いながら、私が秀樹の家について、ゆかりさんに挨拶し、秀樹の部屋に向かった時だった。
「ただいま、秀樹。元気にしていた……か……?」
なんかおかしい。部屋の雰囲気を見ながら、私はそんなことを考えた。
だって、部屋があまりにも暗い。どれだけ夏至の近い6月の中盤だとはいえ、今の時間はだいぶ遅い。そろそろ明かりがついていてもおかしくないというのに、秀樹の部屋はとても暗かった。
で、肝心の秀樹が何をしていたかと言うと……。
「な、何してるんだ、お前」
私は秀樹の姿を見つけてから、思わず硬直する。だって、今の秀樹って、自分の部屋の隅っこで、膝を抱えたままうずくまっていたのだ。
そ、そこまで辛かったのだろうか。
私はゆっくりと、秀樹に近づく。
「どうしたんだ」
「あ、あのさ、柾木、笑わない?」
秀樹は怯えるような眼差しで、こっちを見下ろす。私は秀樹を見ながら、頷いてみせた。
「じゃ、い、言うけど……あのさ、血が止まらないんだ」
「……血?」
「うん、下の方でね。俺、どうすればいいのやら……」
その話に、私はすべてを察する。
そうだ。秀樹も「別の姿」なのだから、そういうことが起きてしまうんだ。
「痛く、ないのか?」
私は気を戻して、まずそれを口にする。やっぱり、ああいうことになっているのなら、今、かなり痛むはずだ。
「けっこう痛い。女の人って、毎月こんな感じで痛いの?」
「まあ、個人差があるが……ともかく、ちょっと待っていてくれ。今必要なものは、薬と、あとナプキンと……」
「柾木はうらやましいなぁ」
私がそんなことを考えていた時、急に秀樹がそんなことをぼそっと言う。その声は、朝よりもはるかにどんよりしたものだった。
「今の柾木って、そういうのと縁もなさそうだし。女の子って大変なんだな……」
「いや、そうでもない。その時期になるといつもお腹が痛いしな」
「……えっ?!」
さっきまでのどんよりした態度はどこに行ったのやら。秀樹は私の話を聞くと、急に目を丸くした。まあ、その気持ちはよくわかる。自分だって、最初の時にはそうだったのだから。
「う、嘘だろ? べ、別の姿なら、そんなわけ……」
「まあ、あそこはどうにもならないし。あの日になると下の方が痛むのは俺も同じだ」
「で、でも、どうやって……」
「自分でもよくわからない。そもそも、どうやってそういう技術が出来上がっているのか、こっちにも謎だから」
「え、え~~そんなのありなの?!」
そんなこと、「別の姿」になってから今までずっと、自分だって疑問に思っているところだ。
「じゃ、そ、それじゃ、ち、血は……?」
「その、下の方で、おしっこと混ざって出るんだが……」
は、恥ずかしい。なんで自分、こんなこと口にしてるんだろう。
私は思わず、すぐ秀樹から視線を逸らした。ま、まあ、これが事実だし、仕方ないとは思うけど……。
ともかく、そういうことだ。
こういうふうに話すのも何だが、はっきり言って、あの機械で「別の姿」になるというのは、まるで人間ではない、「何か」になることに近い。
いや、別に化け物とか、そういう存在になるわけじゃないけど。ただ、あの機械に「純粋」な男子とか、女子とか、そういうのを期待したらいけない、ということだ。
そこまでいい加減っていうか、アレな技術に身を任せているこっちの心境もかなり複雑ではあるが、お姉ちゃんに使われる前から、幾度の実験によって体の無事は保証されているわけだ。そもそも最先端の技術なんてそんなものなのだから、今になっては仕方ない、と割り切っている。
ああいう技術って、どうやって実用化されているのかと突っ込めばキリがないし。私は専門家でもなんでもないので、ただ、その出来上がった技術をこうやって大人しく受け入れるだけだ。
私だって、こういう事情があったのだから、「あの日」にはいつもトイレの個室で用事を済ませていた。まあ、現場担当の時代には、だいぶ白い目で見られたりしたけれど……。さすがにここまで気持ち悪いことを、バラされるわけにはいかない。
もちろん、さすがに「元の姿」のようにたくさん出てくるわけでもないし、今になっては笑って飛ばせるけど、あの時には、本当に大変だった。
「……す、すごいな、柾木は」
しばらくじっとしていた秀樹は、ぼっとそんなことを口にした。なぜだろう、秀樹にそんなこと言われると、急に照れくさくなる。
っていうか、今、重要なことはそっちじゃない。
もちろん、今の秀樹は「自分から血が出てくる」というのも辛いだろうが、そのせいで、今までぐっと我慢してきた感情だって、爆発する寸前であるはずだ。
私は、それを受け止めたい。
今、秀樹には、自分のことをわかってくれる「誰か」の存在が必要だ。
「あのさ、秀樹って、やっぱり今まで、いろいろ我慢してきたんだろ? だから今、きっとすごく辛いんだろうな」
私は思い切って、秀樹の隣に座り、そんなふうに話しかける。はっきり言って、ちょっと怖かった。個人の領域に踏み込むのは、いつも勇気が要る行為なのだから。
「べ、別に、そんなわけないし」
「うそつけ。やっぱり、我慢してたんだろうが」
秀樹はすぐ否定したが、私はすばやく突っ込んだ。いつもならそのまま流したかもしれないが、今だけは、こうすることを許してもらいたい。
「む~~」
私の話を聞いて、秀樹はすぐ頬をふくらませる。そしては拗ねた態度で、こんなことを口にしてきた。
「で、でも、柾木だって素直じゃないだろ? そうなのに、俺にはあんなこと言っちゃうの?」
「え、そ、それは……」
困った。
反論されるとは思っていたけれど、まさか、その手で来るとは考えもしなかった。
私はしばらく、黙り込む。
だって、秀樹が言っているのは、正論なのだから。
自分だって、他の人に感情を伝えたり、出したりするのはとても苦手だ。元から素直じゃない性格なのだから、そういうのにはあまり向いていない。
だから、私なんかが、秀樹に何か言う資格なんて、ないかもしれないけど……。
でも、やっぱり、私は秀樹の力になりたい。
自分だって大した力にはなれないと思うけれど、二人ならば、きっと辛いこともだいぶ和らぐはずだ。
……とは言え、自分だけやられてばかりいることも、ちょっと悔しい。
「だって、秀樹もそうなんだろ」
だから、私はそんなことを口にした。
「今、素直じゃないのは、お互い同士なんだから。ずっとずっと、辛かったことも多かったはずなのに、わざと強いふりをした。でも、実は誰かにわかってもらえたくて、仕方がなかった。『別の姿』のことも、親のこともな」
「……」
「秀樹って、外から見えるよりも強がりだもんな。そこは俺……っていうか、自分自身とよく似てる。誰かに本心を見せるの、苦手だろ? それが怖くて、仕方がなかったんだろ?」
「……」
私は、その感情に覚えがあった。だって、それは自分にもある感情なのだから。
私たち、つまり私と秀樹は、まったく別の性格だ。私は秀樹のように人当たりもよくないし、素直にもなれない。でも、不思議なことに、こんなところだけはまったく同じだった。
「本当に辛いところ」を、他人に見せられないこと。
だから、私には秀樹の辛い気持ちが、余計にわかってしまうんだ。
「柾木は、ずるいんだよ」
しばらくしてから、秀樹はそうつぶやく。ここまで近い距離だというのに、私にも微かに聞こえるくらいの、とても小さな声だった。
「自分も素直じゃないのに、甘えることなんてこれっぽっちもないのに、他の人に優しくしたり、甘えさせたりするんだから。それが不思議にグッとくるから余計にずるいんだよね。自分はいつも弱いところなんて見せないくせに、他の人の弱いところにはガンガン踏み込むし。ずるいよ。本当に、ほんとうにずるいんだよ」
――ぽっ。
急に、秀樹がこっちに向かって、体を預けてくる。
私は何もできなかったから、そのまま、秀樹をやさしく受け入れてやった。
今、私はここで、何ができるんだろう。
きっと、これは秀樹自身が、自分で動かないといけない。私だけでは、限界があるのだから。
でも、私が少しだけ、背中を押してあげることができるならば。
秀樹にとって、それは力になり得るのかな。
「……今から話すの、独り言みたいなものだから」
どれくらい時間が経ったのだろう。秀樹はこっちのことは見ようともせずに、そんなことを口にした。
「両親がいなくなった時に、俺、姉貴の前では強いフリをしてたけど、本当は辛くて、苦しくてたまらなかったんだ」
「……」
「でも、そんなことバレたらみんな余計に心配したり、距離を置かれそうで、わざと平然を装ってたんだよ。だって、みんなが変に気を配って、よそよそしくなったら辛いんだろ?」
「ああ、確かにそうだろうな」
「だから、ずっと辛いことは、周りにバレないようにしてた。だって、そんな辛い感情と向かい合うと、自分が崩れてしまいそうでさ。ずっと、俺は大丈夫だって、無視し続けたんだ」
「その気持ち、自分でもわかる。きっと苦しかったんだろうな」
私は秀樹の震える肩を、軽く抱いた。今、私にできる最善はこれくらいだけど、少しでも役に立ってくれますように、と祈りながら。
「あのさ、柾木」
「ああ」
そんなことを思っていた時に、ふと、秀樹がそう話しかける。
「俺がもし元に戻ったとしても、こんなふうにウジウジしてたら、キモいよね?」
「なんでだ」
「だって、弱気な話ではあるけど、俺、柾木に嫌われたくない。少しでもいいから、柾木の前ではかっこいい自分でいたいんだ。だから、せっかく元に戻れたとしても、情けない姿を見せちゃうのは、ちょっと嫌で」
「そうなのか」
「今の俺、たぶん、『別の姿』なのだから、ここまで弱くなれてると思う。もし、『元の姿』だったら、かっこ悪いから、こうにはなれなかった。俺にだって、プライドとか、そういうのはちゃんとあるからさ。まあ、柾木には笑われるかもしれないけどね。こんなつまらない気持ち」
そこまで言って、秀樹はそっと、こっちから視線をそらす。その気持ちも、私には覚えのあることだった。
だから、今、秀樹に言えることなんて、たった一つに決まっている。
「別に、そういうの気にしなくてもいいんだろ。俺から見ると、その、どっちだったとしても、秀樹は十分かっこいい。だって、今のことを口にするだけでも、秀樹にはすごく勇気が必要だったはずだから」
「え、ほんと?」
まったく考えてなかった答えだったのか、秀樹は目を丸くした。どうやら、私の答えがかなり衝撃だったらしい。
「マジで? こんなみっともない姿で、いいの?」
「そりゃもちろん」
さっきには、自分の感情をありのまま伝えるのが照れくさくてちょっとどもっていた私だったけれど、今は確信を持って、そんな答えができた。
「秀樹が元に戻った時には、自分だって、『元の姿』になるつもりだから、その、安心して弱くなってほしい。笑わないから」
「……ありがと、柾木」
そこまで言って、秀樹はまたこっちに体を寄せてくる。その暖かさが心地よくて、私も秀樹の肩を、強く抱えた。
そんなふうに、二人で時間を過ごす。
何も話さなかったけど、そんな時間が、なぜかすごく気持ちよかった。
「あ、あのさ、柾木」
私たちがそうしていると、また、秀樹がそう話しかけてきた。
「俺が元に戻れるって、本当のこと? 今すぐに?」
「ああ、そうだ。また連絡は来てないから、そこまでは待ってもらうことになるけれど……」
「で、でも、俺、今血が出てるのに?!」
「大丈夫だって言ったんだろ。それじゃ、なんで俺と姉貴は、いつだって『別の姿』になれたんだ?」
「……」
「……」
私たちはしばらく、何も話さない。今度はもうちょっと、別のことが原因であった。
ま、まあ、さっきも言ったけど、最先端の科学なんて、そういうものだと思う。
「か、科学の力、恐るべし」
「そ、そのオチはどうだろう……」
なんかものすごく返す言葉がなくて、私は思わず、視線をそらす。
二人の夜は、まだまだこれからだった。