マチロジーなんとかしても、トイレ掃除だけは避けろ!な勝負

 そろそろお昼になる頃。
 学校の4層の廊下を、雪音と羽月が並んで歩いていた。どうやら二人は、何かについて穏やかに話し合っているらしい。遠くから見ると、あの二人はデキているのでは、と思ってもおかしくないくらい、どこか大人の雰囲気を漂わせていた。
「そういや、ヒマリさんとは長いつき合いだと聞きましたが」
  と、羽月が丁寧に聞く。雪音はにっこりと微笑みながら、こう答えた。
「ヒマリちゃんとは10年近いつき合いなんですからね」
「それはそれは、羨ましいですね」
 その話に、雪音は誇らしげに笑ってみせた。雪音はヒマリについて喋る時、いつもそのような顔をする。
「そういや、羽月さんはヒマリちゃんが気に入ってるようでしたけど」
「まあ、興味深いお嬢さんだな、と思っております」
「その気持ちはわかります。いい子ですよね、ヒマリちゃん」
 それを聞くと、雪音はくすくすと笑う。まるで自分が褒められたような、嬉しい笑顔だった。
「でも、あまりヒマリちゃんのことはいじめないでくださいね」
「おや、それは?」
  そしたら、雪音は相変わらずの笑顔で。
「ヒマリちゃんを弄るのは、他の誰でもないわたしの役目なんですから」
「ヒマリさんのことが本当に好きなようですね、白坂さんは」
「大切な子ですから、誰かにおいそれと渡されては困るんです」
 と、雪音はまたにっこりと笑ってみせる。

 そんな二人の前で。
「あんたたち、何人のことをくすくす笑い合いながら話してんの」
 と、ヒマリがぶつぶつしながら現れる。偶然校舎を回っていたら、二人の声が聞こえてきて上に上がってきたのだ。
「あら、バレたのね」
「いや、これはこれは、すごく偶然だな」
 それを聞いて雪音はくすくすと笑い、羽月は様になるように笑ってみせる。そのむかつく態度が、ヒマリをますますイライラさせた。
「あんたのことはどうでもいい。ともかく、何話してたわけ?」
「さて、なんだったのかしら?」
「あんたね……」
 そうぶつぶつしながらも、ヒマリはこれ以上聞かなかった。どうせあまり意味もないことを話し合っていたのだろう、と思ったからだ。当人がいないところでそんな会話が繰り返されていたのはちょっと腹立つが。
 ともかく、さっきの二人の会話のせいで、ヒマリはやや不機嫌だった。とはいえ、そこまで怒っているわけでもないが、なぜか腹が立つ。よくわからないけど、言葉にするのは難しいけど、ヒマリはなんか、非常に悔しかった。

 時間が少し経ってから、ヒマリはみんなを(ちょうど羽月もいたため)呼んで、こう話す。
「ついさっきの出来事のせいで、トイレの掃除をするハメになったのはみんな知ってるわね? 今って真夏だし、あそこまで水を使いまくったからには、やはり軽くでも掃除しておくべきだと思う。これからどうなるかわからないしね」
「まあ、そうね。無駄な行動だとは思うけど」
 刹那の話に、ヒマリは頷く。ヒマリが話したかったのは、ズバリそれだった。
「でも、みんな、誰一人欠かさず掃除するのはやっぱり辛いと思うわ。ということで、あたしから提案があるんだけど」
「提案?」
 と、刹那がうさんくさいという口調で聞いてくる。
「だから、勝負をするのよ」
「へ?」
 ヒマリが言い出したら、みんな、というより、雪音を除いたみんなが「いきなり何変なこと言ってんの?」みたいな顔でヒマリに振り向く。とは言え、羽月はなぜか楽しげな顔だったし、やっぱりと言うべきか、沙絵は目を輝かせていた。ついでに、あの二人組も「あそび? あそび!!」と単純に喜ぶ。
 もちろん、その中でも刹那は目立つくらいものすごく不機嫌な表情をしていた。ヒマリとは長い付き合いであり、もうヒマリのことはずいぶんよくわかっている雪音だけがヒマリを見ながらニコニコしているだけだった。
 ヒマリは話を続ける。
「だって、みんなトイレ掃除なんて絶対に御免じゃない。あたしだってここまで多いトイレの掃除なんてしたくないし。だから、ゲームをするのよ。これで一人だけ、トイレ掃除をしなくても済む人を選ぶわけ」
「ホントっスか?」
「もちろん」
 自分もそんなことを思っていたのか、良平が目を輝かせると、ヒマリは力強くそう答える。こんなのにつまんない嘘、吐くわけなかった。

 ヒマリが説明したルールはこんな感じだった。
 今から、みんなにはじゃんけんをしてから、ヒマリが用意したカードを一枚引かせてもらう。そこで得たカードが、その人の「ジョーカー」となる。それは自分だけが持つ、いわゆる利点のようなもの。勝負が始まってからは別にバラしても構わないが、今の段階で、全てのジョーカーを知っているのはこれを作ったヒマリしかいない。
  また、このような理由で、ヒマリはジョーカーを引かずに勝負に挑む。とはいえ、普通の人より運動神経が優れているヒマリであるため、これはなんのハンデにもならなかった。また、あの二人組は何もかも特別であるため(別に双子でも何でもないんだが)、あいつらのためだけに用意した、特別なジョーカーが与えられる。だから、この勝負に参加する人は全部7人、だと思っていい(二人組は二人で一人)。
「で?」
「重要なのはここからよ」
 刹那がそう聞くと、ヒマリはルールの説明を続ける。
 みんなにはヒマリが用意した、まるい缶バッジが背中についた薄いワイシャツ(気軽に脱げるやつ)を羽織ってもらう。
  で、勝負が始まったら、それぞれどうにかして他人のバッジを奪うのだ。一人が全員のバッジを奪う必要はないが、自分のバッジが奪われたら「脱落」として、最後に残った人がトイレ掃除免除となる。
「ま、以前に動画で見たゲームの受け売りなんだけどね」
 と、ヒマリは軽く説明を終わらせる。そこそこ長かったけど、どうにかこうしてまとめることができた。
「つまり、ヒマリちゃんはまたそれに憧れて――」
「し、しっ!」
 雪音のその一言に、ヒマリはすごく慌てる。まったく、雪音はこんな時になるとひどくやっかいだった。

 もちろん、ずっと逃げてばかりである可能性もあるため、この勝負には制限時間がある。制限時間は始めてから1時間10分。この時間が過ぎても最後の一人が出なかったら、みんなで仲良くトイレ掃除が決定される。
  つまり、自分がトイレ掃除をしたくなかったら、どうにかしてもその前に最後の一人にならなければならない。もちろん、ヒマリもその一人である。あと、誰かを意図的に傷つけたりしてもトイレ掃除が決まる。
「1時間10分なら70分ってことでしょ? 素敵ね」
「なんでそんなこと思いつくんだ、あんたは」
 雪音がそう喜ぶと、ヒマリはすぐ呆れた顔をする。ほんとう、この友人は変なところで時間フェチだった。

 で、さっきのジョーカーだけど、場合によってはアクティブなこと、つまり使わないと効果が出ないものがある。パッシブな効果ならまったく構わないが、アクティブな効果の場合、それを使う前に相手に「宣言」しないといけない。もちろん、万が一、相手がそれを破ったらグループチャットで申告すればいいだけ。あと、一度使ったアクティブなジョーカーは、それ以上相手に向けて使うことができない。これもまた、破ったらトイレ掃除。
 もちろん、規則が不完全だと思うのはヒマリも同じだったが、一応、これは個人の良識に任せるしかない、と思い切っていた。ちなみに、バッジの絵柄はそれぞれ違うため、嘘とかついてもすぐバレるようになっている。
「バッジとかを強引に外しながら傷つけないって、わりと無茶だと思うけど」
 そう刹那が指摘すると、ヒマリは待ってました、という顔をした。
「だからバッジなのよ」
「は?」
「わかった? そもそも奪うべきものがバッジなんだから、ムリヤリなんとかしようとすればダメになるわけ。どうやって賢く繊細に奪えるのか、が鍵だと言ってもいいわ。もちろん、上着だけ奪って制限時間まで耐えてもオッケー。うっかり落とさなければ、だけど」
 誰かにバッジ(や上着)を奪われたり、ジョーカーを使われたりしたら、必ずグループチャットに自己申告すること。もし、これがきちんとされていなかった時は、容赦なくみんなでトイレ掃除になるらしい。
  ちなみに、万が一上着だけ奪われたのにそれを見つけたり、自分のバッジが落とされていたりして再び羽織ることになったら、写真つきで自分から申告する、という条件で再び勝負に参加できる、ということだった。もちろん、その服にバッジが残っていたら、の話だが。
「制限範囲はみんな知ってるわね? 当たり前だけど、この学校から外に出ると失格。これはここのトイレの掃除をかけた勝負なんだから。つまり、屋上も含めた校舎の全部と、グラウンドと、ともかく校門の中の範囲ね。外にある体育館もOKとするわ。ここに後ろには部室棟もあるみたいだけど、ま、そっちもOKってことで。制限時間の中で無事に最後の一人になる自信があったら、だけどね」
「かなり本格的なのね」
「まあ、せっかくやるわけだし、あたしなりにはあの動画を参考にして凝ってみたつもりだけど・・・・・・あ、そうだった」
 と、何か思い出したような態度を見せるヒマリ。そういえば、ここには今の8人だけではなく、「もうひとり」の人間がいた。
「言い忘れてたけど、存在自体がジョーカーである者がいるわ。その特徴は――」

 こうして説明が終わると、それぞれカードを引き、自分なりに決めたスタートラインに立つ。
  いちおう、みんなの位置はバラバラにしたつもりだった。あまり離れていても面白くないため、この校舎の中だけにしたものの、ある人は一階、ある人は5階な感じでばらけて置いたので、結構いい感じだとヒマリは思っている。
「よし、みんな位置についたか」
 グループチャットでそれを確認したヒマリは、スマホの時計が1時を示す時、こう書きながら叫ぶ――
「勝負スタート!」
 こうして、ただのトイレ掃除免除権をかけた、実に無駄な勝負が始まる。

 勝負が始まってから、良平は自分の引いたカードを改めて眺める。
 そこにはヒマリ(のものだと思われる)のやや荒い字で、「SSR・学校の中にあるチェックポイントで、これと似たようなカードが五枚揃うこと」と書かれてある。つまり、この五枚のカードを全部集めてグループチャットに上げると、その時点で、この勝負は良平の勝ち、だということだった。他の人がみんなバッジを奪われたりするのを待つ必要なんてない。ただカードだけ集めれば、良平は無事にトイレ掃除を免除される。わりと夢のようなジョーカーだった。
 ほんと、自分がこんなの手に入れてよかったのだろうか。良平はこの時、自分の(珍しい)運の良さに感謝した。

 ということで、良平はさっそくそのチェックポイントを探すため、みんなと離れて一階に降りてきた。
 もちろん、どこにあるかなんて知るわけなかったが、一応、ヒマリが隠したものだし、そこまで難しくはないだろうと良平は考える。てきとうに周りをキョロキョロしていると、二階の踊り場になんか、白い物がついてあることに気づいた。どうやら、良平の目の錯覚ではないらしい。
 さっそく急いでみたら、それは間違いなくヒマリの隠したカードだった。良平は今、長い道のりの一歩をようやく踏み出したのだ。
「やった……!」
「へーもう見つけたんだ?」
「えっ?!」
 そうして一人で喜んでいた良平は、ふと後ろから聞こえてきた、今はあまり聞きたくない声にビクッとする。それは他の誰でもない、良平のジョーカーを唯一知っている人、ヒマリであった。
「何をそこまで驚いてるわけ? あたしが全部知ってて、何かおかしい?」
「いや、そ、そんなわけじゃないっスけど」
 とか言いながら、良平はものすごく動揺していた。もちろん、この勝負を思いついたヒマリが、カードの位置を知らないわけがない。だが、ヒマリもまた、この勝負に参加している一人なのだ。ぶっちゃけ、このままじゃ、良平はいつヒマリにやられるかわからない。
「なんだ、あたしを見てビビってるわけ?」
「そ、そんなわけじゃ……」
「ま、いいけどね。その気持ち、わからないわけでもないし」
  ヒマリのその口調に、良平は少し驚く。どうやら、ヒマリは今、良平をどうにかするつもりはないようだった。
「まあ、あんたに用事があるのは本当だけどね。あんた、あたしと『同盟』、結んでみない?」
「……同盟っスか?」
「そうよ、あんたとあたし、二人でね」
  ヒマリの提案はこうだった。良平とヒマリ、二人で同盟を結んで、二人の中の誰かが勝つと相手とトイレ掃除を半分ずつ分担するというものである。もし自分が負けそうな時になったとしても、残りの一人が勝つとトイレ掃除が半分免除されるのだ。ぶっちゃけ、ここの中でいちばん勝つ確率が高いのは目の前にいるヒマリなので、その提案は良平にとって、かなりおいしいものだった。どれだけ自分が有利な条件だとしても、やはり、万が一ということはあるはずだから。
「たしかに、ヒマリさんと同盟を結ぶと心強いですね」
「じゃ、成立ってことでいいよね?」
「ぜひって感じです。よろしくっス」
 こうして、ヒマリと良平は無事、同盟を結ぶことになった。別に「協力する」のはズルしたことにならないため、反則ではない。もちろん、個人の間の取り引きもそうだった。
「あ、そうだった」
 ふと思いついたか、ヒマリはこんなことをつき加える。
「あっちにも書かれてるけど、あのカード、一つでもなくしたら失格なんだから、気をつけてね」
「気をつけるっス」
 とは答えたものの、あまり器用ではない性格なため、良平は少々不安になる。

 一方、刹那は勝負が始まってから、すぐ廊下をウロウロしていた沙絵の姿を見つける。さすがお嬢さまと言うべきか、こんな状況だというのに、非常に警戒心がなかった。
 そもそも、あまりトイレ掃除の免除を求めていない(むしろ「やってみたいです!」と喜ぶレベル)沙絵だし、ここまで警戒心がないのも当然かもしれない。ついでに、今は刹那から見て後ろを向いていたし、ついでになぜか羽織っているシャツもゆるかった。
 ――これは機会かも。
 刹那はそう考える。他の誰でもない、ここで一番ゆるそうな沙絵なのだ。ひょっとしたら、これは機会と言えるかもしれない。
「じゃ、ゆっくり……と」
 ぎこちない手つきではあったものの、刹那はなんとか、密かにそっちへと近づき、上着をゆるく羽織っていた沙絵からその上着を奪うことに成功する。どうせ上着を奪うだけでもいいなら、無理したバッジだけ手に入れることはないと、刹那は考えた。
「……ごめんね」
「えっ? わっ、わたしの上着が!」
 こうやって、沙絵は刹那に上着を奪われ、惜しくも(早すぎる)脱落をしてしまったのだった。
「なんで私が、こんなくだらないことを」
 そう悔しむ刹那だったが、やはり、無駄にトイレの掃除をさせられるのは嫌だった。沙絵には申し訳ないと思いつつ、刹那はそのまま廊下を後ろにする。もちろん、懐にある大事なジョーカーは、しっかりと握ったまあだった。

 良平と別れてから、ヒマリは三階の廊下を歩いていた。そしたら、色んな意味でうるさくて、目立ちやすい二人組と出会う。
 やっぱりと言うべきか、二人は今日も一緒だった。自分より遥かに背が低い二人を見ていたヒマリは、一人くらいなら自分でなんとかできるのでは、と思い立つ。
 ――この二人には特別なジョーカーが与えられていて、二人分のバッジを全部奪わなければアウトできないんだよね。
 自分で考えておいてなんだけど、あいつらは二人揃ってバッジを奪わないと脱落しないから非常にめんどくさい。だが、今の段階で一人分を奪っておくと、後に楽なんだろう、とヒマリは考える。
 そこまで決めたら、残るのは一つだ。
 ヒマリはゆっくりと、まるでステルスでもしているように、あの二人の片割れに近づく。未だにヒマリは、あの二人のどっちがどっちなのかを分別できなかった。まあ、それはともかく、ヒマリはなんかおしゃべりに熱中している二人の中の一人に近づき、そのバッジに手を伸ばす。
「もーらいっ!」
「うわっ! 奪われた!!」
「マジで? ほんとだ!」
 遅くそれに気づいた二人が必死に逃げようとするが、運動神経とか力とかがはるかに優れているヒマリに勝てるわけがなかった。
「これからはせいぜい気をつけることね。おマヌケさんたち」
 結局二人組のバッジの中の一つを手に入れたヒマリは、返り討ちになる前に素早くそこを去る。

「いやいや、みんな楽しんでるな」
 一方、羽月は屋上から、グループチャットでみんなの動向を興味津々に眺めていた。こういう「遊び」に近いことをやるのはずいぶん久しぶりだが、それがどこか楽しい、というより興味深い。いつも仕事漬けである羽月に、この経験はかなり珍しいものだった。
 羽月の持つジョーカーはパッシブなもので、他の人よりバッジが少し小さいことだった。事実、あまり「勝つ」ことや「トイレ掃除の免除」に興味がない羽月はなんでも構わなかったが、そうだとは言え、軽く負けてしまうのも気が向かない。せっかくなら何かやってみたいと思いつつも、羽月はまだ自分の行動方針を決めずにいた。
「さて、どうしようか」
 そんなことを思いつつ、5階に降りてから窓の向こうで外を眺めていた羽月は、ある光景を見つける。
「おやおや、これは……」
 それを見た羽月は、自分もじっとしてはいられないな、と心を改めた。羽月にとって、その人はあまり、他の人には渡したくない存在だったから。

 そこには、ヒマリが一階の外、つまり校庭で雪音に追われている姿があった。
 はっきり言って、これはいつもの二人の関係を知っている人からするとひどくおかしく見えるものである。そもそも、いつもならヒマリが雪音を振り回すことはあっても、その逆は滅多に見られない。
「ヒマリちゃん、わたし、一度でも良いから、ヒマリちゃんをつかまってみたかったの」
「いや、そんなのいいから!」
「でも、いつもヒマリちゃんは吹っ切れてて気持ち良さそうだったから」
「だーかーら、それは今、関係ないでしょうが!」
「だって、このままじゃ羽月さんにヒマリちゃんを奪われそうで――」
「奪われないし、そもそも雪音の方にも行きません!!」
 いつもとパワーバランスが崩れたような形で、二人は外をぐるぐる回る。こんな時でもなければ、ほんとうに珍しい光景がそこにあった。

 刹那は紗絵の上着を奪ったことはよかったものの、他の人のバッジを奪う勇気は出せなかったため、4階の音楽室で隠れていた。この勝負は、教室のように行き止まりになりやすいところに行くほど不利になるので、ここにくる人はあまりいないだろう、と思ったからである。
 でも、このままじゃ無駄に時間だけが過ぎてゆくだけだ。
 いちおう勇気を出して、刹那は廊下に出てみた。一歩一歩ゆっくりと歩いて、刹那が3階の階段までたどり着いた時だった。
「あいつら、いったい・・・・・・?」
 刹那は二人組が、階段の隅っこで作戦会議っぽいのをするのを目撃する。
「だからあたしたち、ヒマリちゃんに一つ奪われちゃって不利じゃん? ここはもうちょっと、慎重に行くべきだと思うんだよね」
「そうそう、もう一個奪われるだけで死ぬからさー」
 あいつら、いったい何をするつもりなんだろう。刹那がそんなことを思いながら、日陰から二人組を覗き見していた時だった。
「おっ、刹那だ! 刹那!!」
「バッジ、バッジ!!」
「だ、ダメだ、逃げないと……」
 必死で逃げる途中で、刹那は何かを落としてしまった。だが、急いでいた刹那はそれに気づけない。
 ともかく、こうして刹那は無事に二人組から逃げられた。

 その時、良平は着実に2、3枚のカードを手に入れていた。ヒマリと離れてから、部室棟の壁に2枚目のカードがついてあるのを確認したのだ。今はこうして屋上に来てみたら、ちょうど3枚目のカードが見つかったところだ。
「へー屋上にもあるもんだなー」
 羽月がいなくなった屋上で用事を済ませて、良平は外を見渡す。今まであまり屋上には来る機会がなかった。そもそも、だいたいの場合、学校の屋上は閉じられていて、うかつに入れないのが常識だ。それは良平の高校でも変わらない。
 だが、もうすぐ壊される予定である今はそうでもなかった。なんかおかしな気もするが、ともかく今はそうなっている。
 この屋上からは、外に広がる町がよく見渡せる。良平も子供の頃からずっとここに住んでいるわけだが、こうして見るとどこか心踊るところがあった。なぜかはうまく言えないが、何もかも新しく見えるのだ。今までずっとここで過ごしてきたのに、まだ自分の知らない景色があったんだな、と、良平は自分らしくないことを考えてみる。
「そろそろ帰るか」
  ともかく、もうここに用事はない。無事にカードを手に入れて、良平はさっそくそこを後にした。

 そうして一息いていたヒマリは、ふと、スマホの振動を感じる。
「なになに、新しいメッセージが……紗絵からか」
 スマホに出てきたグループチャットを見て、ヒマリは急に顔が固くなる。そこには間違いなく、こういうことが書かれていた。
「えっと、わたし、また参加してもいいみたいです」
「……何?」
 ヒマリは思わず、そうつぶやく。

 少し時間を戻して、三階の脱落者のために用意された教室。紗絵はあの時上着を奪われてから、そこでおとなしく待機していた。
 もちろん、今の状況を悔しいと思っているのは確かだ。別に紗絵は、この勝負に勝つつもりは初めからなかった。ただ、ここまで面白いことをやったことが生まれて初めてだったから、それだけで十分嬉しかっただけである。
 だけど、やはりやり残したことはあった。具体的に言うと、自分の持つジョーカーである。そこには間違いなくこう書かれていた。「このジョーカーを宣言されると、相手はその場でゾウさんになって五回回らなければならない」と。
 たぶん、自分があぶない状況になった時に使われることだと思われるが、紗絵はこれが使いたくて、使ってみたくて仕方がなかった。だが、紗絵がぼうっとしていた時、刹那に上着を奪われたせいで、それは叶わなかったわけである。
 やはり、あれは一度使ってみたかったな。みなさん、きっと今はとても楽しい時間を過ごしているはずなのに。
 そんなことを一人で思っていた紗絵は、ふと、トイレに行きたくなってきた。もちろん、トイレに行くくらいは自由にしても構わなかったため、紗絵はそのままトイレへと向かう。
 そうしてトイレへと急いでいた沙絵は、ふと、刹那にぎこちなく奪われた自分の上着が廊下の上に落とされていることに気づく。
「えっと、こんな時にはここでみなさんに報告して……」
 こんな時にはどうしたらよかったっけ、と少し迷ってから、沙絵はメッセージを送って、上着を羽織る。こうして、勝負に参加している人数はまた8人になった。

 その時、ヒマリは羽月に激しく追われていた。
「なんで、ここまで、追ってくるのよ!!」
「当たり前だろう。君を俺の手でつかめてみたい。特に白坂さんにはあまり渡したくないな。それだけさ」
「そんなの知るかっ!」
「もちろん、白坂さんは素敵な女性だが、それでも君を渡すことはできない。わかりやすい理由だろう?」
「あんたたち、ほんとにさっき、何話してたわけ?!」
 どれだけヒマリがそう怒っても、羽月はさりげなくキザくさいことを口にする。ダメだ。この男には何をしても無駄たということを、ヒマリはようやく悟った。この男、いちおう下の方はスーツのままだというのに、全力すぎる。たかが遊びだというのに、力を抜いていない。
 吸血鬼らしい運動神経を発揮して逃げるヒマリだが、あっちの運動神経も優れているため、なかなか差が広がらない。そろそろ、ヒマリはこんな大騒ぎが馬鹿らしく感じられてきたが、これをやろうと言い出したのは紛れもなく自分であったため、誰を恨むことすらできなかった。
 あいつは運動神経もいいため、ヒマリの利点がまったく役に立たない。できる限り遠くまで逃げたかったが、ここは五階だし、階段を降りまくる体力なんて、今のヒマリにはなかった。
 じゃ、この場合、どうすればいいのか?
 答えは一つ、「滑り降りる」ことである。もちろん、良い子は真似しちゃダメだ。

 そう決めたら、あとは行動あるのみだった。
「えいっ!!」
 ヒマリは階段の手すりに軽く乗って、そのまま「滑り降りる」。もちろん、これは極めて危険な行動だ。ついでに、ここは学校でいちばん高いところである、五階だ。
 だが、ヒマリにそんなのはこれっぽっちも重要じゃなかった。自分はなんとかしてもトイレ掃除をやりたくないんだ。そのためなら、ヒマリは自分を犠牲にしてもよかった。まあ、そこまで大げさなことにはならないだろうが。
 まるで滑り台でもあるように、ヒマリは軽快に手すりから下へと降り続ける。

 ヒマリが一階までノンストップで降りてから軽やかに着地すると、遠くから雪音がやってくるのが見えた。
「あら、ヒマリちゃん、それ、中学の頃の以来じゃない?」
「何よ、なんか不満でも?」
  と、ヒマリは口を尖らせる。また雪音が追っかけ来そうで、ヒマリは少々不安だった。
「いつ見てもすごいね。よくそういうのやってたんだ」
「まあ、中学の頃は学校で鬼ごっこし放題だったから」
 それはそれとして、今、雪音が近づくのはかなり危険だ。まるでゾンビのようじゃないか。まあ、自分は棚に上げた話だけど。
「……うん?」
 なんだろ、何かがおかしい。
 その時、ヒマリは急に意識が遠のくのを感じる。ひょっとして、と思いながら、ヒマリはどこか悔しいと思いつつ意識を失った。

「や、やっと見つけた……」
 職員室にある様々な机をあっちこっち探っていた良平は、ようやく目当てのカードが見つかりほっとする。まさか、ここまで多い机の中の引き出しにカードを隠したとは思いもしなかった。むしろよく見つけたと自分を褒めてあげたいくらいである。
 そうして4枚目のカードを手に入れて、ふと、良平は気づく。ひょっとして、自分は騙されただけじゃないだろうか、と。
 これって、他の人より楽ちんだと思ったら案外そうでもない。そもそもどこにカードがあるのがわからないため、あっちこっちキョロキョロしないといけないのだ。ついでに、他の誰でもない、ヒマリはそのカードの位置を全部知っている。
 さっき確認した通り、どれだけ同盟を結んだとしても、ヒマリはなんとかしてトイレ掃除だけは避けようとする心の持ち主だ。もし、確実に自分だけがトイレ掃除を免除される方法があったら、絶対にそうすることに決まってる。たとえば、良平とヒマリだけが最後に残されるとしたら、ヒマリは問答無用で、良平のバッジを奪おうとするのだろう。そうなったら、もちろん良平の方が危険だ。
 こういうのをなんちゃらジレンマと言った気もするが、まあ、そんなのはどうでもいい。良平だって、トイレ掃除は勘弁してほしかった。

 ようやく二人組から避けてきた刹那は、3階で息を整えていた時、脱落者のための教室から誰かが出てくることを見つける。
「あ、あいつは……」
 それはなんと、今は意識がないはずだった健太郎だった。もちろん、健太郎が自力で動いているというのは、そこに「中の人」がいるということになる。
 いったい、中にいるのは誰だろう。刹那がそう思っていた時だった。
「あら……っていうか、あんた、そこにいたんだ」
 間違いない。健太郎の今の中の人は、ヒマリだった。この、どうにかしてトイレ掃除を避けようとする強いオーラとか、こいつ以外にはありえない。
「いやいや、これはまたすごい偶然じゃん」
 そう言いながら近づいてくるヒマリ。今は健太郎の中の人でもあるため、その威圧感はかなりのものだった。ついでに、今は健太郎に合わせて声や口調も低くしているため、なおさらその雰囲気が強くなっている。
 刹那がそんなことを考えていた時、ヒマリはにっこりと笑いながら、そう言った。
「はじめる前に言ったんだよね? こいつの中にいると、あんたのジョーカーなんて無効になるということ」
 そう、この勝負を始める前にヒマリが言ったのは、「もし、健太郎の中に入った場合には、アクティブ系の全てのジョーカーが使えない」ということだった。つまり、健太郎になった相手にジョーカーを使うのは反則ということになる。
 代わりに、この姿でバッジを奪われても(健太郎だって、すでにバッジのついたシャツを羽織っている)そのまま中の人がアウトになる。つまり、まだ刹那はジョーカーを使ってないのにも関わらず、今のヒマリは限りなく無敵だった。
 ヒマリ……と言うべきか、健太郎と言うべきか、そういうのはともかくとして、ともかくヒマリが中の人である健太郎は、刹那に向けてこんなことを言ってくる。
「もうあんたも知ってるんだよね? 逃げ道なんてどこにもないから、もう諦めたほうがいいぞ」
「そ、そんなこと、させない」
「へー? あんたの声、すごく震えてるのに? 気づいてないんだ」
 そう言いながら、ヒマリ(が中にいる健太郎)は、ゆっくりと刹那に近づいてきた。刹那は、自分の胸がものすごい早さでドキドキしているのを感じる。
 もちろん、恋とか、そんなわけでは決してない。ただ、もう自分はダメだ。という考えしか頭になかった。
 その時だった。
「……えっ?」
 刹那は、今、目の前の風景が信じられなかった。
 ついさっきまで生き生きとしていた健太郎が、まるで魂が抜けた人形でもあるように、刹那の方へと倒れてくる。ゆっくりと自分の懐に飛び込んできたその体に、刹那はどうもいたたまれない気持ちになった。たぶん、ヒマリがいなくなったからこうなったと思われるが、それでも胸のドキドキが収まらない。今は意識も何もない、生きた人形のようなものなのに、大人の男性が自分の方へと倒れてきたという衝撃は、刹那にとってなかなかのものだった。
 でも、健太郎の意識がなくなったと言うのは、もう刹那が襲われる心配をせずに済むという話になる。
「よかった……」
 今度は本当に助かった。もしそのままジョーカーすら使えずにバッジを奪われていたら、刹那はしぶしぶとトイレ掃除をやるところだった。今、自分たちがやっているのはバカみたいだと思うけど、やっぱりトイレ掃除なんかはしたくない。
 でも、この男はいったいどうなっているのだろう。今は助かったからいいとしても。
 そんなことを思いつつ、なんとか危機を避けた刹那は、ぼうっとした気持ちで、とりあえず屋上へと移動した。誰もいなさそうなところが欲しかったからだ。さっき、ヒマリが襲ってきたため警戒線が解けてない刹那は、周りに気を配りながら素早く屋上に辿りつく。
「はあ、はあ……」
 ようやく開いたところに出てきて、刹那がそう息を整えていた時、後ろからこんな声が聞こえてくる。
「おや、ここにお嬢ちゃんが」
 それは他でもない、あの胡散臭い男、羽月のものだった。

「ぐぬぬ、まったく……」
 こうしてまた一階へと戻ってきたヒマリは、ものすごく不機嫌だった。せっかく刹那のバッジを奪えるチャンスだったのに、見事に外してしまったからだ。
「ほんとに、運が悪いんだから」
 ぶつぶつと言いながら周りを見ると、こっちを見て早足で去ろうとしている良平の姿が見えた。
「あんたには少し、犠牲になってもらうわね」
 ちょうどよかったと思ったヒマリは、すぐそこへと急ぐ。

 そうして、ヒマリと良平が再び出会ったのは、校舎の外のグラウンドだった。
「ひ、久しぶりっスね、ヒマリさん」
「そうね、元気にしてた?」
「いや、ま、そこそこ……」
 さっきとは違って、二人の会話は異様によそよそしい。まるで二人の心が垣間見えるようだ。
「で、なんでそこまで構えているわけ? あたしが何かしそうに見えるとでも?」
「ち、違いますよ。別に疑ったり、そんなことはまったくしておりません、はい」
「……あんた、ちょっと怪しいんだけど」
「いやまったく、ヒマリさんが自分のことだけ考えてるとかそういうのは……はっ!」
 それを聞いて、ヒマリの目が一瞬光る。まるで獲物を見つけた肉食動物のような、鋭い眼差しだった。
「つまり、あんた、まさかあたしが裏切るなんて思ってたわけ?!」
「い、いや、決してそんなわけではなくてですね――」
「問答無用!!」
「ひいいいいっ!!」
 こうして、ものすごく怒ったヒマリが全力で良平を追いかけている間、校舎の中でもちょっとした争いが行われていた。
「な、何するつもり?」
「もちろん、若い男と女が二人なら、ここで何をするのかはわかっているのだろう?」
 刹那が怪しむと、羽月が軽い口調でそんなことを言ってくる。その態度が、刹那はますます気に入らなかった。
「冗談なんかしないで。私は日笠とかのように軽い女じゃないから」
「おっと、バレちゃったか」
 刹那が羽月を睨むと、そんな答えが帰ってきた。
「もちろん、そんなことをするつもりはまったくない。俺がほしいのは、君のバッジだ」
 改めて、羽月は爽やかにそういうことを口にした。その姿はかなり滑稽だったが、どこか説得力があって、油断ならない。

  いっぺん、グラウンドでは相変わらず、良平の裏切りに対したヒマリの激しいお仕置き(追いかけ)が続いていた。
「で、でも、同じじゃないですか! ヒマリさんも僕のこと、信じなかったですよね!?」
「ま、お互いそうだったようね。どっちにしても、この同盟は破れたもんだし、これで後切れなくあんたをつかめられるわ」
「いや、だから、なんでそうなるんですか――!!」
  もちろん、屋上でもさっきに続いて、刹那と羽月が対峙している。
「じゃ、あなたは私に武力でも行使するということ?」
「まあ、無理やりにすることだけはないだろうが、そうなるかもしれないな」
「……じゃ、こっちも使うわ」
「何をだい?」
「もちろん、ジョーカーよ」
  そう言いながら、刹那は懐の中の「それ」を手にする。あまりこういうのは使いたくないが、ここで死ぬわけにはいかない。
  それはヒマリからもらった、子供用の水鉄砲だった。こんな状況で引き出すにはあまりにもふざけたものだが、今は仕方がない。これを引いた時、ヒマリの「あんたも恥ずかしいものを引いたのね」って顔がいろんな意味で忘れられないが、それも今だけは、知らないふりをしておこう。
「じゃ、大人しく……打たれなさい!」
  ただ逃げたい。その一心で、刹那はその水鉄砲を羽月へと向けた。

「いやはや、これまた困ったお嬢さまだったな」
 こうして刹那に水鉄砲を打たれた羽月は、いちおう3階まで降りてくることにした。もちろん、水鉄砲なので痛いわけではない。だが、刹那のジョーカーの正体を知らなかった羽月にとって、あの水鉄砲は一瞬、行動が止まる原因としては十分だった。
  刹那は羽月がその水鉄砲に気を囚われていた時に、早くも逃げてしまった。まさかあんなことまで出てくるとは思わなかったな。一応グループチャットで報告してから、羽月は苦笑いする。
「自分としたことが……」
 と羽月がつぶやいていると、そこには意外の人物が待っていた。そこで微笑んでいるのは、他でもない雪音である。
「あらあら。また出会いましたね、羽月さん」
 雪音は後ろにバッジがついていなかったが、代わりに腕の方に、なんか光っているものがある。たぶん、それが雪音のバッジだろう。羽月と同じように、パッシブなジョーカーだというわけだ。
「そうですね。ここで決着をつけよう、という神からのメッセージでしょうか」
「じゃ、さっきの続きを始めましょう」
 羽月の話に、雪音は迷わずそう答える。二人の眼差しから見えるのは、たった一つの決意だった。
「さっきにもお話したのですが、わたしとヒマリちゃんは、10年も前から知り合った仲間なんです。相手が羽月さんだとしても、軽く渡すことはできません」
「たしか、10年に及ぶ関係を相手にするのは少々きついですが、それは仕方がないですね。僕も本気を出さなければ」
「羽月さん、ヒマリちゃんのこと、ほんとうに好きなのですか? ひょっとして、遊びだったりしたら――」
「そんな、僕は決して、ヒマリさんを弄んだりしませんよ。イジることはあるかもしれませんが」
「それじゃ、わたしと同じですね」
 二人は(主にヒマリのことで)駆け引きを続ける。二人にとって、トイレ掃除なんてはやってもやらなくても別に構わないことだった。それにここまで真剣になっているのは、単に面白そうだというのと、「ヒマリのため」だというところが強い。少なくても、トイレ掃除よりヒマリのことが大切なのは間違いなかった。
「でも、羽月さんて紳士だと思うのですが、わたしの腕をつかまえて、バッジを奪う自信はあるのでしょうか」
「ああ、そっちにあるみたいですね。まあ、どうにかなるのでしょう」
「ずいぶん余裕のあるお答えですね」
「まあ、僕もいろいろやってきたのですから、多少は勝算があると思っております」
「そうですか、でも、今度は残念ですよね」
「さて、その真意は?」
「ほら、ここに」
 いつの間にか、雪音は羽月の後ろに回っている。さっきまでは間違いなく羽月の正面にいたはずなのに、今はにっこりと、羽月の小さいバッジを、そのしなやかな指でとっていた。
「これでチェックメイトですね」
 そのセリフを合図に、雪音は見事に羽月のバッジを奪ってみせる。雪音の手のひらに置かれているのは、間違いなく羽月のつけていたバッジであった。
「いや、参ったな」
 そう言いながらも、羽月はどこか楽しげな表情だった。遠くから見るとずいぶんおかしい光景だが、この二人はどうやら、これでよかったらしい。
「今度はわたしの勝ちですから、ヒマリちゃんはもらっていきますよ」
「まあ、次には決して負けません。それに、また日は長いんですからね」
「つまり、なんでしょう?」
「ヒマリさんのこと、しっかり捕まえるかどうか、期待しています」
  そんなことを言いながら、羽月は忽然と向こうに消えてゆく。これもまた、ずいぶん羽月らしい退場の仕方だった。

 一方、良平とヒマリは2階にまで上がってきて、再びかけっこをしていた。もちろん、追われているのは良平の方である。
「あいつ、意外とやるんじゃない」
 なかなか捕まってくれない良平を見ながら、ヒマリはそうつぶはく。もちろん、良平も男子高生であるため、体力は非常に優れていた。ついでに、今はサボっているようだが、野球部の経験者でもある。どれだけヒマリの運動神経が優れているとしても、容易く追いかけることは難しかった。
 それに、ヒマリは、良平が今、冴えてるアイデアを思いついたことには気がついていない。
「そういやオレ、もう一個だけ見つければカードが全部揃うんですよね。大変だったんですよ」
「あ、そう?」
「はい、ですから残り一個だけなんとかすればいいんですけど」
「ちょっと、あんた、そっちは――」
「なんです、ヒマリさん。オレがこっち行ったらダメだというんですか?」
「……やるわね、あんた」
 今、良平がどこへ向おうとするのかがわかったヒマリは、思わず反応してしまう。良平の言っていることがほんとならば、「あれ」を手にするだけで、良平は軽々とトイレ掃除免除が確定するからだ。
 ここにきて、ヒマリは自分の失策に気づく。相手が良平だからと言って、舐めすぎたのかもしれない。
 こいつ、あたしが動揺するのを利用して、カードの位置を推測するとは――
 これは本当に、ヒマリも予想できなかったことだった。

「あいつら――」
 一片、ヒマリたちがこっちに走ってくるのを見た刹那は、激しく動揺する。もう自分は終わった、と思ったからだ。はっきり言って、普通の体力しか持ってない刹那がヒマリに勝つだなんて、無理にもほどがある。もちろん、実は二人でかけっこをしていたせいで、他の人など目にも入らなかったわけだが、そんなことを刹那が知るわけはなかった。
 だが、まったく方法がないわけではなかった。
「あ、そういや……」
 その時、刹那はまだ、自分が水鉄砲を持っている(そして、まだ水が残ってる)事実に気づく。
 もちろん、すでに使ったため、これを「相手に向かって」使うのは反則だ。だが、「もし、相手に使ったわけじゃないなら」まだ平気じゃないだろうか、と刹那は考える。自分でもズルいとは思ったが、やはり刹那は、捕まれることだけは御免だった。
「え、えいっ!」
 だから、刹那は水鉄砲を「床の方に」発射する。つまり、廊下を水まみれにしよう、という作戦だった。
「な、なんスか?! う、うわっ!!」
 これに油断していた良平が滑られてしまい、ついでに、後ろで追いかけていたヒマリの足も止まる。
「な、なに?!」
「おっ?!」
  ヒマリも、こんなことは考えてなかった、という顔だった。みんな走ることに熱心で、周りが見えていなかったということだろう。なんか別の声も混ざっていた気がするけど、それは今、二人しか目に入らない刹那にとってはどうでもいいことだった。
 ともかく、これで自分は無事になる。刹那は早く、二人の死角になりそうなところへと移動した。

「し、死ぬかと思った……」
 滑りそうになりながらもなんとか危機を回避した良平は、相変わらずヒマリの反応を頼りにして走り続ける。自分の作戦はわりと成功だと思いながらも、このままじゃ体力の限界だ、と良平が思っていた時だった。
「……おっ?」
 「それ」に気づいた良平は、思わず反応する。
 ちょっと離れたところにある、3階へと続く階段。その近くの壁に、四角形の白いものがついてあった。良平がヒマリと出くわしたところからちょうど正反対の方である、あまり目立たなさそうなところにひっそりと位置している。
 間違いない。あれは良平が取るべき、最後のカードだった。こんなところにあったんだ。そう思いながらも、良平は跳ねる心を抑えることができなかった。
「ぜったいに、トイレ掃除だけは、やらない……!」
  ここまで自分が本気になったことは、いったいいつぶりなんだろう。そんなことを思いながら、良平は必死にカードに手を伸ばしつつ走る。
  だが、相手は他でもない、あのヒマリだった。それに、さっき滑りそうになって、体がふらふらするようになったツケは大きい。
「あのさ、それであたしに勝てると思ってんの?」
「う、う、うわあっ!!」
「はい、あんたのバッジ、いただくね」
  結局、良平は鬼のように運動神経の良いヒマリに掴まれ、そのまま、まるで捕食されるような形でバッジを奪われてしまった。
「だ、ダメっス! オレの、オレのトイレ掃除が……!」
「よかったじゃない、みんなとトイレ掃除ができて」
「だから、それは違うっス! ぐわあああーっ!!」
 こうして、良平の野望はあっけなく失敗で終わった。よく考えると、初めからあのヒマリに勝とうと思ったのが敗因だったかもしれない。

 良平の痴態を見て、刹那は少し安心していた。良平には申し訳ないが、すくなくても自分は無事で済んだからだ。
  まあ、ちょっと可哀想だったのは確かだが、やっぱり刹那だって、自分のことがいちばん大切だし、それは仕方ない。そんなことを思いながら、刹那が気を抜いていた時だった。
「おや、刹那ちゃん?」
「バッジ、バッジ!!」
「……えっ?」
 ここで気が抜けていた刹那のバッジを、二人組がさりげなく隣で奪う。一瞬の出来事だった。刹那はぼんやりしていたせいで、あの二人組がすぐ側まで近づいたことに気づかなかったわけである。さっき聞こえたあの声も、二人組のものに違いなかった。
「なんで、どうして……」
  一人でぼうっとしていた刹那は、ふと、今日自分がやってきたことを思い出す。恥ずかしい。こうなるんだったら、初めからやらなかったらよかった。
「う、ううっ……」
 いったい今日、自分はどれだけ恥ずかしい姿を晒してしまったんだろう。そこまで考えると、刹那は頭を抱えて廊下に座り込まざるを得なかった。

 ――ヒマリちゃん。わたし、まだ諦めてないから。体育館で待ってるね。
「雪音ったら、今度はあたしに挑戦してくるだなんて、何考えてるんだが」
 ヒマリはグループチャットで今の状況を把握し、雪音がいるらしい体育館へと移る。
「えっと、みなさん、どこにいらっしゃるのだろう……」
  その時、こんなことを呟きながら3階あたりを彷徨っていた紗絵は、敗者用の教室の方へと近づいてくる刹那と出くわした。今までずっとみんなの行方を探していた紗絵は、刹那に今までの出来事について教えられる。
「それじゃ、みなさんは体育館に――」
「そういうこと。私の過ちを無駄にしたくないのなら、急いだ方がいいと思うわ」
「はいっ! ぜったいに、刹那さんの犠牲を無駄にはしません!」
「……まあ、がんばってね」
 その話が終わってから、紗絵はすぐに体育館へと向かった。もちろん、二人組はすでにそこに向かって走っている。さすがに、ヒマリより早く着くことはないだろうが。

「やっと来てくれたね、ヒマリちゃん」
 体育館へ行ってみたら、案の定、そこには雪音がヒマリのことを待っていた。なんでだろう、ものすごくラスボスっぽい、変な雰囲気を漂わせている。
「あんた、本気?」
「もちろん。わたし、どうしてもヒマリちゃんをつかまえてみたいの。羽月さんのおかげで、どうしてもそうしたくなったわ」
「よくわからんけど、じゃ、勝負ね」
 その言葉を合図に、ヒマリは雪音とかけっこしはじめる。こんな日が来るとは思いもしなかったが、まあ、こうなった以上、仕方がなかった。
 さっきの追いかけっこと違って、今度はヒマリが雪音を追うという、ごくありきたりなやり方だ。あの時はヒマリもびっくりしたため逃げてばかりだったけど、今度は違う。追いかけるのはすでになれているからだ。今度こそ、ぜったいに雪音を捕まえてみせる。
「もう終わりよ!」
 そう思いながら走り続けたヒマリは、ようやく雪音の腕を掴む。追いかけるのは慣れているからか、今度はそこまで時間がかからなかった。
「あら」
「ちょ、なんでいきなり変な雰囲気になるわけ?」
 自分で腕を掴んで置いて、ヒマリは妙な気分になる。だって、まったく意図してなかったのに、まるでロマンチックな雰囲気になってしまったからだ。実際、雪音は恋人に腕を掴まれたような表情で、頬を赤く染めている。これって、知らない人から見ると恋人同士だと言われてもおかしくなかった。
「だって、ヒマリちゃんがよく見てた動画では、こんな時になるとどこかロマンチックな雰囲気に――」
「いや、それ、男女限定なんだから」
「でも、わたしだってヒマリちゃんのことが――」
「あーもーうるさい!!」
 少しへんな雰囲気になってしまったが、ヒマリは無事に雪音のバッジを奪った。これで残った人は、あと3人になる。

  こうして、残った人はヒマリと二人組、そして紗絵だけになった。もう残り時間はわずか。この3人の中の一人が、めでたくトイレ掃除を免除されることになる。そのためには、誰かがバッジを奪われないといけなかった。
「ヒマリちゃん、こっちこっちー」
「あっちー」
「どっちだ、お前ら」
 ――あいつら、ほんとやっかいだな。
 まるでこっちを振り回すように、あっちこっちで騒ぎまくる二人組を見ながら、ヒマリはそう考える。あいつらってただでさえよく動き回るのに、こんなふうに人があまりいなくなった時に騒ぐと目障りで仕方がなかった。たぶん、これもあいつらの戦略だろう。ここまで来たらヒマリの集中力もだいぶ減っているから、それを狙っていることに違いない。ただ自分勝手であるだけかもしれないが。
  とは言え、ここにいる人間の中でいちばん狙われやすいのは、ヒマリではなく、あのぽわぽわなお嬢さま、紗絵に決まっている。二人組もそう思っているからか、早くも行動を起こした。
「んじゃ、紗絵ちゃん、行くよー」
「はいっ、来てください!」
「あ、あんた、ひょっとして……」
 まるで始めてから決めていたように、二人組は紗絵を狙ってくる。だが、紗絵の目はむしろ「これからの出来事」でキラキラとしていた。
 そう、紗絵はずっと、この瞬間を待ちわびていた。
 それも知らず、二人組が紗絵に襲ってくると、沙絵はにっこりと笑いながら、残酷な言葉を口にする。
「さあ、ゾウさんになってください」
「おー?」
「ゾウさん?」
「はい、ゾウさんです」
  その話を聞いて、二人組はまったく考えてなかったという顔をする。もちろん、すべてのジョーカーを知っているヒマリは、この事態を予測していた。
「あんたのジョーカーだもんね、それ」
「はい、これがやりたかったんです」
「うわーだまされたー」
「あんたたちがそれを言う?」
 ともかく、それでゾウさんになった二人は、誠実にその場でぐるぐる回りはじめる。別に「二人とも」やらなければならないとは言ってないはずだが、すでにバッジを奪われた片割れも鼻を掴んで、下を向いてから丁寧にぐるぐる回っていた。
 で、二人がそんな風にぐるぐる回り終わったら、すぐそばにいたヒマリは光のような速さで手を伸ばし、残りのバッジを軽々と奪う。もちろん、紗絵は二人がゾウさんになっていた時に、早くその場を去っていた。
「横取りー横取りだー」
「あんたらもバカね。ぶっちゃけ勝てばいいのよ。正々堂々にね」
「あんまりだー」
「神木のバッジもあんたらがそうやって奪ったらしいし、そんなことどうでもいいわ」

 こうしてやっかいな二人組を倒し、ようやく一息つけるようになったと思えた時、ヒマリも考えていなかった非常事態が起きた。
 ――体力が、なくなってしまったのだ。
 別に、思い返すとこれはおかしいことではなかった。どれだけ運動神経がいいヒマリだとしても、今日はあまりにも走りすぎた。それも夏の昼のことである。そこまで体力を使ったら、力がなくなるのも自然だ。
 そして、上のような理由で体力が尽きてしまったヒマリに、まったく考えていなかった魔の手が寄ってくる。
 それは他でもない、紗絵だった。
「えっと……できた」
「……は?」
 紗絵はどうやら、そっとすぐ隣までやってきてヒマリのバッジを奪ったらしい。ヒマリの錯覚でなければ、たしかにそうだった。
 だが、その仕草があまりにもさりげなかったため、ヒマリはまったくそれが実感できない。ヒマリが「自分のバッジを奪われた」ことを確信したのは、紗絵の手に自分のバッジが置かれているのを見てからだった。
「……あんた、今何したの」
「えっと、バッジを奪ってみました。このやり方であってるんですよね?」
「いや、あってるんだけど、その、これはあんまり……」
「そういえば、ヒマリさん以外にバッジをつけた方って、今はわたし一人であるような気が……」
「あっもー! なんでこうなったんだよ!!」
 ヒマリは悔しくて大きな叫び声を出してしまうが、そうしたって何かが変わるわけではない。ただ無情に、遠くから蝉の声がうるさく聞こえてくるだけだった。

 結果として、なぜかはわからないが、いちばんトイレ掃除に熱を出していた沙絵がトイレ掃除免除、というおかしな状況になってしまった。
「ぜひ皆さんといっしょにやりたいんです!」
 もちろん、紗絵はそう言いながら目をキラキラさせていたため、結局、トイレ掃除はみんなで仲良くやることになった。
 なんか、勝負をやった意味が激しくなくなったと思えて仕方がないヒマリだったが、少なくとも、沙絵のおかげでかなり早めに終わったのは間違いないし、これはこれで良しとしよう。
 ……なぜかものすごく、ムカついて仕方がないんだけど。
 おかげでその後しばらく、ヒマリは凄まじくモヤモヤした気分だった。

 なんだかんだ言って、無事にトイレ掃除が終わってから。
「ともかく、みんなお疲れさま。大変だったね」
 そう言いながら、ヒマリは近くで買ってきたスポーツドリンクを渡す。今日の出来事がむかつくのは事実だったが、それはそれ、これはこれだった。
「そういやヒマリさん、以前から気になったことがあったんですが」
「ん? 何?」
 良平がそう聞いてきたため、ヒマリはそっちに視線を向く。もうトイレ掃除のせいで力がなくなったため、ヒマリもだいぶ戦意が薄れていた。
「ヒマリさんって吸血鬼なんですけど、その、衝動とかないんですか? 血が飲みたくて仕方がない、とか」
「へ? だから今、飲んでるんじゃない、血」
「えっ? それ衝動と言えるんですか?」
「人間が水を飲まなきゃどうしても飲みたくなるように、あたしも血を飲まなきゃそうなるわけ。そこまで大したもんじゃない。ほんとに面倒だわ」
 ヒマリはそんな感じで、不満をこぼしながらいつものように、パック入りの血をいただいていた。
「でも、ヒマリちゃんは血だって水のように飲めるのだからいいんじゃない。それは誰もできないことだわ」
 いつものように、そうして雪音がヒマリを慰める。だが、ヒマリの気分はまったく晴れない。
「そんなのいらない。どうせ何を飲んでも血になるのならば、普通に水とか飲んだほうが楽だし。こんな奴、誰が好んで飲むか!」
「まるで子供みたいですね」
 ヒマリがそうぶつぶつと不満を述べると、となりで沙絵がくすくすと笑う。
 あっもーむかつくムカつくムカツクーっ!!
 なんであの箱入りお嬢さまにまで……と悔しみながら、ヒマリはともかく次には絶対に勝つ!と心に決めるのだった。

 その日の夕暮れ、グラウンドの隅っこで。
「いったいあたし、今日、なにやってたんだろう」
「ひ、ヒマリさんはすごかったですよ。ホントです」
 ヒマリはグラウンドでしゃがんだまま、一人で落ち込んでいた。いちおう、今日ヒマリに追われっぱなしだった良平がとなりで慰めていたが、ヒマリにはどうも届いていないらしい。
「ほんとうにもう、あたしの気持ちをわかってくれるのは、この夕焼けだけなんだから……」
「あの、ヒマリさん、夕暮れはこっちですけど」
「あーもー知らないっ! たまにはこっちで日が沈んでもいいんじゃない!!」
 地球の法則が一気に変わりかねる無茶なことを叫んでから、よけいに力が抜けてしまったからか、ヒマリはまたガクッと頭を落とした。
 まあ、こんな日もあるんだろう。きっとそうだ。……たぶん。