「今日もいい感じに晴れてるな~」
思いっきり背伸びをしながら、葉柴良平は誰もいない学校の廊下を歩いていた。真夏の朝は確かに蒸し暑いが、この爽やかさは良平のお気に入りでもある。
爽やかな朝風。廊下へと入ってくる眩しい日差し。真夏を歌うような小鳥たちのさえずり。8月の朝として、それらは最高に理想的なモノであった。
「ぐ、ぐぇぇぇぇ……」
そうだというのに、向こうから聞こえてきた声は、どうしても「爽やかさ」とは凄まじくかけ離れている。
「な、なんだこりゃ?」
人間の範囲を超えているようなその声で、良平はしばらく自分の耳を疑う。だが、遠くから木霊するあのヤバい声は、決して幻聴ではなかった。
「い、行かなきゃいけないのか……」
そのひどいうめき声に惹かれ……というか引っ張られ、良平はあの声のする教室、3-Cへと近づく。
「お、おおぅ……」
そこで良平を待っていたのは、まるで屍のような形で教室の机にぶら下がっていた、今すぐでもカビが生えてきてもおかしくなさそうな、見苦しさしか感じられないヒマリであった。
「ど、どうしたッスか?!」
「もう、もう……」
そして、ヒマリは嘆くような低い声で、こう口にした。
「どうしてあたしの夏はこんなんなんだよ~~!!」
「なんだ、そんな理由でしたか」
「あ、あんたね……」
すぐ興味を無くしたような顔をする良平に、ヒマリは怒る。自分の真面目な悩みがこんな扱いをされているということが、とても悔しいようだった。
「いや、てっきりもっとヤバい理由かと」
「あのさ、今の段階で十分ヤバいでしょ」
そう口にしながら、ヒマリは良平を睨む。あそこまで死んだような顔だというのに、その眼差しは背筋に来るものがあった。
「もう真夏だというのに、夏らしいこと、ほとんどやってないんだよ、今年の自分」
「いや、今からでもなさればいいのでは……」
「だから、海とか川とか、夏と言ったら思い浮かべるところがあるんでしょうが!」
ヒマリの声は、だんだん大きくなっていく。その死んだような顔と比べると、あまりにも信じられないくらいだった。
「ここって海も近くにないし、川とかもないでしょ。夏らしいこと、何もやれないんじゃない」
「いや、それでしたら、屋上のプールが……」
「あんたはあたしに、もうすぐ取り壊される予定の、掃除もまともにされてない学校のプールを代わりにしろというの?!」
もう耐えられなかったからか、ついにヒマリがびっくりするほどの大声を出す。さすがに良平も、これ以上とぼけるわけにはいかなかった。
「す、すいません。ちょっとカビ臭いですよね、あっちは」
「いや、これってそれ以前の問題……」
そう言いながらヒマリは、自分の右手を額に当てた。こんなこと、こいつに大声で言っても無駄だというのを、今になってようやく気づいたのだ。
「まあ、古井市(ここ)って、内陸の方にありますからね。どうしても海が見たいなら、遠くに行くしかありませんし」
「それなのよ、それ。『あいつ』のせいで、あたし、古井から遠くまで行けないんじゃない」
ヒマリは自分の向こうにいる、「あいつ」へと視線を移しながらそう語る。そこに目を落とした良平は、やがて「ああ……」と言いながら頷いた。
「まあ、無理ですよね。あの健太郎さんがいる間は」
「そうそう」
まるで親の仇でも見ているような顔で、ヒマリが不満そうに頷く。そこには、「いつものように」死んだような有様で隅っこの椅子にもたれかかっている、健太郎の姿があった。
――あいつさえヒマリの人生にいなかったら。
そうだったら、今頃ヒマリは、きっと真夏を満喫しているはずだったのだ。
「それはそれとして、本当に死んだような姿ですよねー……。あの健太郎さん」
「まあね」
あの情けない、というよりやる気がない姿を見ながら、ヒマリがそう頷く。そもそも、「中の人」が誰もいない今、あの月島健太郎が「死んだように」見えるのは当たり前だった。
「こんなこと、不謹慎だとは思うんですが、あれでよく死にませんね」
「きっと丈夫なのよ、あんなところがこんなところまでね」
「それはちょっと羨ましいかもしれないッスね」
「あたしは遠慮したいけどね、ああいう生き方は……っ?!」
そう首を横に振っていたヒマリは、いきなりの出来事に思わず震えてしまう。さっきまで(死んだように)じっとしていた健太郎の体が、明らかにビクッとしていたからだ。
まるで痙攣したような動きを見せてから、目の前の「死んでいた」健太郎がゆっくりと目を覚ます。さっきまでびっくりするほど意識がなかったというのに、見ているこちらの方が信じられないほど、その動きは滑らかだった。
やがて、ゆっくりと目を覚ました健太郎は、ぼんやりとした眼差しで、目の前の二人をじっと見つめる。
「ん……えっと、ヒマリさんと、良平さん?」
「誰かと思ったら、あんただったんかい」
そう口にしたヒマリは、「ビビって損した」とでも言っているような表情で、体ごとがっかりしていた。
それを見つめる健太郎――つまり紗絵は、どういうことかわけがわからず、「どういうことでしょう?」って顔で首を傾げる。
「あ、そういう話を交わしていらっしゃったんですね」
しばらくしてから。
トイレに行ってきた健太郎――つまり紗絵は、ヒマリたちから話を聞いて、ようやく訳がわかったという顔でそう頷いた。
「ええ、あんたは目が覚めて、すぐこいつの中に入ったわけね」
「そうらしいんですよね。急に下の方が重かったから、何事かと思いました」
「いや、それは報告しなくてもいいから」
言わなくてもいいことまで律儀に口にする紗絵から、ヒマリはそっと視線を逸らす。となりの良平すら、無垢な顔をする紗絵の視線を明らかに避けていた。
「でも、夏らしいこと……なんですね。何があるのでしょうか?」
「だから、水遊びとか、花火とか……」
「すごいです、ヒマリさん! わたし、夏らしい過ごし方、今の話で初めて知りました!」
「いや、だからそれができないって言ってるんでしょ、今!」
どうしてこのお嬢様は、ここまで抜けているのだろうか。
おかげで頭がさらに痛くなったヒマリは、このどうしようもない気持ちを抑えきれず、机の上に顔を埋めた。
「あ、そういやここ、海がないようですね」
「……それでヒマリさん、ここまで落ち込んでたんっスけどね」
また話があちらに戻ってきたからか、ヒマリの首が再びガクッと落ちる。
そんなヒマリのことを、紗絵は興味津々に、良平は憐れみの眼差しで見つめていた。
「本当にもう、ひどくない? リバーシ挑まれたり聖剣抜けられたり、変なことはこんなにたくさんやったというのに、夏らしいことはまだだって」
お菓子を一つ口にしながら、ヒマリそう愚痴をこぼす。よっぽどあの時の出来事が忘れられないという顔であった。
「まあ、それらも普通の人にはできないことだと思いますよ、きっと」
「いや、リバーシくらいならあんたにも出来るんでしょ」
「聖剣の方は認めるッスか」
良平のツッコミを無視して、ヒマリはポリポリとお菓子を口にする。きっと、今のヒマリにはそれしかストレスの発散ができないのだろう。
「それなら組織(うち)のヘリでも呼べばいいんじゃないか。素早く近くのビーチまでご案内しよう」
「いや、あんたらの組織の助けは本気でいらないから」
「でもヒマリさん、ヘリですよ? うちらのような一般人が、人生の中でどれほど乗れるか……」
「だから、あいつの組織の方が信用できないって言ってるんでしょ」
なぜか目が輝いている良平に、ヒマリが乗り気でない声でそう突っ込む。その眼差しには、羽月に向けたありったけの不信が精一杯つき込まれていた。
「やれやれ、まだ俺は信頼されていないようだな」
「そりゃそうでしょ。あんたらのような胡散臭い組織なんか、信じられてたまるか」
「だが、今のような状況には助けになるかもしれないぞ」
「じゃ、今はまだ、そこまでヤバい状況じゃないってことね」
そう言って、ヒマリは羽月からスンと顔を背ける。
自分が明らかに拒絶されている状況だというのに、羽月は相変わらず「やれやれ」と、様になる格好を見せるだけだった。
「そういや、あんたの組織ってとこは、真夏だというのに夏季休暇の一つもないわけ?」
その余裕たっぷりの姿がなぜか悔しかったヒマリは、思わずそんなことを口にした。
「まあ、あまりそういうのは求められない職場なんだからな。緊急の用事も多いしね」
「……よくもあんなところで務められるわね、あんたって」
自分ごとでもないというのに、ヒマリはため息をついてしまう。
あそこまで胡散臭い職場だというのに、まともな休暇の一つもないとは。これは本当に笑えない。ここで給料すらショボかったらやってられないと、ヒマリは本気で思った。
「いったいどれほどの給料なのよ、あんたらの組織は」
「そんなもの、もちろん営業秘密に決まってるんだろ」
だが、ヒマリは引かなかった。
そりゃホイホイと自分の給料を口にするやつはこの世のどこにもいないと思うが、どうしてもヒマリの好奇心がそこでやめることを許さない。
……まあ、自分から考えても無茶振りだとは思うが。
「もったいぶらずに教えなさいよ。手取りで」
「まったく、君は本当に強引なんだな」
そこまで喋ってから、羽月はヒマリの耳にそっと何かをささやいた。それを聞いたヒマリは、一瞬目を細くする。
「うわっ、微妙」
体を震わせてから、ヒマリはそう言い加える。どうやら、よっぽど微妙な数字であるようだった。
そんな二人を、となりの良平が「なにやってんだこいつら」という眼差しで見つめる。
「何やってるッスか、二人とも」
「別に。大人の会話をちょっと交わしただけ」
「すごく嫌な感じがしますね、そこは」
良平がそう揶揄してみるが、ヒマリは平然とした態度だった。良平の反応なんか、自分にはどうでもいいという顔である。
そんな会話をさりげなく交わしたヒマリは、いつものような調子で羽月の方に振り向き、そう言い加えた。
「あ、また耳打ちしてきたら、ぶん殴るから」
「ぶん殴るだけなのか、君は優しいなぁ」
「いや、その、たぶん逆だと思うんですけどね、それ」
良平が二人の会話に入ってくる。
「オレの考えですけど、ヒマリさんは『次は殺す』とかはよく口にするけど、たぶん行動には移さないと思うんですよ。でも『今度やったらぶん殴る』とか言うと、それは絶対ッス……ぐえっ!!」
「ほら、あんたには今すぐやってあげたから、今度にはならないでしょ?」
「……これは反則だと思うッス、ヒマリさん」
「つまり、ここは最近出来た花屋ってことでしょうか」
「まあ、そうね。あたしもここのこと、つい最近知ったのよ」
中にある色とりどりの花を眺めながら、ヒマリはそう答えた。
もちろん、ここに花屋が出来るのはおかしいことじゃない。古井で長く住んでいるヒマリは、様々な店が商店街に入店したり、去っていったりすることを何度も目にしていた。
……どちらかというと、気になるのはこの花屋というより、ここの店長のことである。
まあ、ヒマリも一度だけ話してみただけなので、詳しいことは何一つ知らないが――
「いらっしゃいませ」
「あっ、この方が店長さんなのでしょうか?」
「いえ、違います」
そこで出てきたのは、20代後半くらいだと思われる、若い女性だった。ヒマリと見間違えるくらいの金色の髪を、腰まで長く下ろしている。とはいえ、ヒマリのような華やかさ――というより、「今どき」な感じでは決してなかった。
ここまで目立つ印象だというのに、本人は引っ込み……いや、淡々としているというギャップ。
知り合ってばかりではあるが、これまた奇妙な人なんだな……と、ヒマリは心の中で思った。
「じゃ、店員さんのオススメの花とかはないですか?」
ヒマリがそう聞くと、店員はしばらくじっとしてから、やがて向こうの壁に視線を落とす。
「……あえて言うと、ウツボカズラでしょうか」
「あの、それって花の括りで合ってます?」
別にウツボカズラを舐めているわけではなかったが、ヒマリは思わずそんなことを口にしてしまった。ひょっとすると、これはヒマリの感性が足りないせいかもしれない。
「すごいです! わ、いや、僕、ウツボカズラが――」
「はいはい、そこまでにしとけ」
いつものように紗絵がお決まりのセリフを言い出そうとするのを、ヒマリは適当に阻止する。
その滑稽な光景を、例の店員の日向は訳がわからないという顔で見つめていた。
……こりゃ、完全に覚えられたな。
初めてやってきた花屋でこんなことになってしまったヒマリは、なぜかどても居心地の悪さを感じてしまう。
「す、すごいですっ! こ、これが……っ、玉蹴りという感覚……なのですね!」
「も、もうそれ以上喋るな! わざわざ無理しなくてもいいからっ」
「……オレとしては、どうしても直視だけはできませんね」
まるで屍のような姿で路地に倒れているというのに、紗絵の口調はあまりにもいつも通りであった。その力が抜けて掠れた声に比べると、いくら何でも温度差が高い。
その玉蹴りをかました花屋の女性――日向は、今、目の前に広がった風景を、ひどく複雑な顔でぼんやりと眺めている。驚くほど様々な感情が混ざっているため、赤の他人であるヒマリとしてはそれを読み取ることができなかった。
「っていうか、見てるだけでその苦しみがわかってしまいそうです」
「こ、これ、どうすりゃいいんだよ……あたし、今すごく頭が痛いんだけど」
「こっちのセリフっス」
「わお……」
この状況、どうしたら収まるんだ?
自分が玉蹴りされたわけでもないのに、ヒマリの頭の中は凄まじく複雑だった。
「と、とにかく、誤解しないでね。こいつは、その、ちょっと手が滑っただけで――」
ヒマリの話をまったく聞いてない顔で、日向は返事もせずに奥へと消えていく。
――まずい、もう手遅れだったのか。
主がいなくなった花屋の中で、ヒマリは再び頭を抱える。
「……さすがに、小学生たちに夏休みの過ごし方で負けるとは思わなかったわね」
「本気で悔しそうですね、ヒマリさん」
体を震えているヒマリを、良平が適当に慰める。もちろん、そんな適当な慰めにヒマリが満たされるわけがなかった。
「っていうか、昨年のこの頃はどんな過ごし方だったッスか?」
そう良平が言い出すと、ヒマリは明らかに嫌な顔をする。あんまり思い出したくないことを思い浮かべてしまったという顔であった。
「昨年は、とある事情でずっと雪音の店で過ごしたのよ。真夏だというのにあの暗い地下室で、時計バカのどうでもいいウンチクを聞かされながら……」
「……それ、今年の方がマシじゃないですかね?」
「言うな、あたしも忘れていたかったから……」
そういやあの時は、来年こそ!なんてことを思ってたっけ。
人生は楽しめるうちに楽しむことが一番であることを、ヒマリは今になって改めて実感した。
「そういや、達郎さんは夏休み……というか、この頃、どう過ごしておられるんですかね?」
以前出会った時のことを思い出した良平は、なんとなくそんなことを口にした。
「ん? 祖父さん?」
「はい、なんか只者じゃなさそうな気がするんですよね」
「まあ……今頃、どこかのビーチで女遊びでもしてるんでしょうね」
「マジっすか」
「おお、じゃ、紗絵ちゃんは生まれて初めてキンタマを蹴られたんだ!」
「はい、初経験でした」
「おお、初体験~~」
「あんたら、いい加減にしないとぶん殴るぞ」
紗絵の周りで楽しそうにする双子を見ながら、ヒマリは頭がクラクラしてくるのを感じた。こんなアホみたいな会話、黙って聞いてるわけにはいかない。
「あ、そういやヒマリちゃんは経験ある? ほら、キンタマの方――」
「……あんたら、命が惜しくないようだな?」
「おおっ! ヒマリちゃんが怒った!!」
「わわ、逃げよ!」
「こいつら……!!」
「な、何っすか、ヒマリさん?!」
そこにいたのは、健太郎の姿をして、堂々と男湯に入ってきたヒマリであった。こんなぶっ飛んだ状況、良平が想定できるわけがない。
「よくも一目でわかるな。ちょっとは悩むと思ったのに」
「いや、こんなとこにここまで堂々と入れるのは、ヒマリさんしかいませんって」
「いや~とんだ災難だったね~」
「……他人事になったとはいえ、ひどいッスね、ヒマリさんは」
湯から上がってきた良平は、ヒマリのことを見ながら首を横に振る。その向こうには、同じく湯上がりした健太郎……というより羽月が、珍しく困った顔をしていた。