明日が晴れになる前に。

 普通の日常というのは、誰かの過ごす非日常の上で成り立っている。
 僕はふと、そんなことを思いつく。なぜだろう、自分には上手く言えそうにもない。そもそも、普通というのは一体何なのだろう。何か、みんなが納得できる定義でもあるのだろうか。
 これはただ、僕のつまらない考えに過ぎない。実際に世の中がどうなっているのかなんて、僕にはわかるはずもない話だ。だが、ここまで晴れた朝空の下にいると、なぜかそんなことを思ってしまう。
 自分がまったく思いつかない「非現実」なことが、この世を支えているというなら。
 それを僕が知ることはできないとしても、この世の中はそういうことになっているとしたら――

「おーい」
 登校の途中、そんなことをぼんやりと考えていた時に、誰かが後ろから僕の名前を呼んでくる。まるで青春小説の一幕でもあるように、そいつは僕の肩を軽く叩いた。
「何をぼうっとしてるんだ? 返事くらいはしろよな」
 この男子生徒の名前は須田耕平(すだ・こうへい)。ちょっとお調子者ではあるが、基本的には気配りのいい友人だ。僕のように、どちらかと言うと普通の高校一年生の男子生徒でもある。
 でも最近、耕平にはたった一つ、「普通じゃない」ところができてしまった。
「そういや、お父さんはまた見つかっていないのか?」
「あ……ああ、さっぱりだ」
 ある日突然、耕平の親父がいなくなったらしい。いわゆる失踪という奴だ。家からいなくなっただけならまだいいのだが、まるで「初めてからこの世にいなかったように」綺麗さっぱりにいなくなったのだ。証拠も何もまったく残っていない。それから一週間後になる今でも、目ぼしい情報は入ってこないままだった。
 自分の父に対して、耕平はあまり素直じゃなかった。「無口すぎる」とか、「何を考えてるのか、息子である俺ですらよくわからん」とか、そんなことをよく言っていた。だが、父が急にいなくなってから、耕平は明らかに動揺している。
「どこいったんだよ、まったく」
 そんなことを言いながら、やっぱり耕平は父親のことを心配している。「いっしょに釣りに出かけようなんて言ってたくせに」と、耕平は寂しそうにぶつぶつしていた(もちろん、それを言われたら必死に否定するのだろうが)。
「あの面白みのかけらもない親父が、せっかく思いついた趣味だというのにな」
 ほら、今日だってそう。耕平のやつ、いつものように生き生きとしていない。本人では何事もなく振る舞っているつもりだけど、となりから見るとすぐわかるんだ。昨日の面白かった番組や、友だちの話をしながらも、その声にはあまり張りがない。
「あれでも俺にとってはたった一人の親父なんだけどな。おふくろだって心配してるというのに」
 そう言いながら、耕平は軽くため息をついた。なんだかんだ言って、耕平は自分の父のことが嫌いじゃない。それは、高校に入ってからになるけれど、となりからずっと見てきた僕の方がいちばんよく知っている。
 それにしても、ほんとうにどうしたのだろう。いつも明るかった耕平の母さんだって、最近はだいぶ落ち込んでいると聞いた。耕平の妹も、どうやらあまり元気ではないらしい。

「おお、先輩だ!」
「えっ、どっち?」
「ほら、そっちに――」
 ともあれ、僕たちが教室の中に入ってきた時、急に廊下がざわつく。誰かが廊下を通っていて、周りの生徒たちが騒いだせいでうるさくなってしまったらしい。それは誰でも知っている学校の先輩――朝比奈小春(あさひな・こはる)だった。
 先輩は、僕たちの通う学園ではちょっとした人気者だ。生徒会長だという肩書きだけでも有名だが、容貌端正、成績優秀、人望もあって運動神経も優れているなど、人気が出るのも納得というものだ。その長い黒髪が、白い素肌が、先輩の綺麗さをますます引き立てている気がした。もちろん、僕は先輩と話したことなんてまったくない。雲の上の人ー僕にとって、先輩はそういう人だった。もちろん、となりにいる耕平にも。
「今日も綺麗だなー先輩って。近寄れないくらいに」
「そうだよね」
 そう言えば、最近、そんな話を聞いたことがある。先輩は元からおっとりした性格だったが、最近になってはますます大人っぽくなったという話だった。雰囲気というか、そういうのが以前と変わってきたらしい。僕はあまり先輩には詳しくないが、周りからそう言われているのは、たしかにそうなんだからだろう。
「ほんと、いつ見ても飽きが来ないな。あの儚い感じがたまらないと言うか。その孤高たる姿に惚れてしまうというか。うちのこのはも雰囲気だけなら似てる気がしなくもないんだな。なぜか先輩の話をするとすごく嫌がるんだけど。あいつに先輩の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいよ」
 耕平も先輩に憧れていたからか、そんなことを言いながらずっとそこを見つめていた。ちなみに、このは、というのは耕平の妹である。わりと可愛げがある性格だと思うのだが、耕平にはそうでもないようだ。廊下から「小春ちゃん、待ってよー」という慌てた声が聞こえてくる。たぶん、先輩の友だちなのだろう。
 どちらにせよ、先輩と僕には何の接点もない。先輩はこの学園で、まさに高嶺の花のような存在なのだから。これからもきっとそうだ――僕はそう思っていた。
 ――あの日の、放課後の前までは。

 その日の放課後。
 図書室で本の整理を終えた僕は、遅きながら下校しようとしていたところだった。別に図書部だったりするわけではないが、時折、こんなふうに助っ人に呼ばれたりもする。こちらも別にやるべきことはないから、遅くまでその膨大な作業を手伝っていた。
 誰もいない、夕暮れの校内。
 今日は少し本が多かったからか、整理にもかなり時間がかかってしまった。こんな時間まで残っているのは、よほどの学校好きでもない限りそうそういないのだろう。自分の足音だけが廊下に響くことを聞きながら、僕は自分の教室からかばんを持って、ゆっくりと歩いていた。
 何も考えずに、僕がある空いた教室を通り過ぎようとした時だった。
「っ……うぐっ……ううっ……」
 その時、ふと僕は、教室の窓の向こうにいる、ある人を見つけてしまう。
 先輩が、泣いている。
 僕は目を疑った。先輩は、こちらが心配になりそうなくらい、激しく、つらそうな顔で、ひたすら泣きじゃくっている。ここにいる僕のことも気づかずに。
 黒い髪が涙に濡れて、沈みゆく太陽の光でまぶしく光る。ある意味では非常に幻想的な光景。だが、先輩の静かな鳴き声が、それをひどく切ない光景に変えていた。その光景から、目が離せない。いけないことをしているのはわかっているつもりだが、足が、思うように動かない。
 その時、先輩と僕の目が合う。僕はまるで、石像でもなったように、体ごと動けなくなってしまった。だが、驚くべきところはそっちじゃなかった。先輩は目を丸くして、ありえないものでも見た表情で、こうつぶやいたからだ。
「えっと、耕平の……ともだち?」
 その時、嘘のように時間が止まった。
 どうして、今まで一度も出会ったことのない先輩が、耕平のことを知っているのだろう。それに、なぜ、僕が耕平の友だちだというのを知っているのだろう。どうして、どうして――
 何かがおかしい。僕はそう思っていたが、どう話し出せばいいのかわからなかった。こんなときにはどうしたらいいだろう。そんなこと、教えられたことなんてない。
「……あ」
 先輩も自分がなんて言ったのか気づいたようで、顔が青くなる。そして、震える声でそう言い訳した……ように見えた。
「えっと、違った。耕平くん、だよね。いや、ち、違う? えっと、須田くん? え、えっと、わたし、」
 僕はもう、どうすればいいのかすらわからなかった。目の前の出来事が理解できない、受け入れることができない。そんなことを思っていた時、先輩は、力のない声でそうつぶやく。
「……わたし」
 まるでそれは、自分自身のことを確かめているような、弱々しい声だった。

 まるでスローモーションのように、今度は時間がゆっくりと流れてゆく。
 さっきよりもやや昏い夕焼けだけが、この静かな教室に深く染み込んでいた。先輩と、僕。二人しかいなくなったような、そんな世界。
 すべてが止まっているようで、かつ、僕たちを置き去りにしたままで動いてゆく。外から聞こえるあらゆる音や声も、どうやらここには、届いてないようだ。
 何から考えたらいいのだろう。いったい、これからどうすればいいのだろう。
 僕は、すぐとなりにいる、美しい先輩に見惚れる余裕すら持てないまま、静かな教室で座り込んでいた。先輩は今、どんな表情をしているのだろう。どんな気持ちで、どんなことを考えて、今、僕の側にいてくれるのだろう。
「あのね、わたし、その」
「はい」
 先輩は、やっとこっちに話しかけてくる。でも、その口調は、どこか一人でつぶやいてるような感じがした。
「今から、ものすごくおかしなこと、話すね」
「……はい」
「こんなこと、信じてくれなくてもいいの。いいえ、こんなの、信じてもらえるわけがない。戯言とか、そう思ってもらっても構わないから」
「いや、僕は――」
「だって、わたしも信じられないんだもの」
 先輩は、話を遮る。
「わたしが、その――一週間前まで、耕平とこのはの父親だったということ」
「……はい?」
 なにか、すごくぶっ飛んだ話を聞かされたような気がする。他にもっと言うべきことがあるはずなのに、僕は、そう聞き返すことしかできなかった。
「ごめん、全部、わたしが変な子であるせいだよね。なぜそうなったのか、わたしにもよくわからないの。いきなり15年も前に戻されて、わたしもおかしな気分」
「え、えっと、話がよく、見えないんですが」
「うん、そうだろうね。わたしもこの一週間は生きた心地がしなかった。自分が「どこ」にいるのか、「どの」時間軸にいるのか、頭が割れるんじゃないかと、何度も思った」
「いや、ですから……」
「だから、順を追って言うね。わたしが覚えている、今までの人生について」

 先輩はゆっくりと、自分について語る。
 それは、少しだけ特別だけど、ありふれた女の子の人生のはずだった。今から一週間前――先輩にとっては15年も前に、先輩は生徒会長であることと、少し家柄がいいことを除くと、他の同年代の子と変わらない女子高生だった。はっきり言って世間知らず。誰かに嫌われたくないから、なんとか優秀な生徒をこなしていただけ。先輩は、それまでの人生をこう表現した。
 だが、15年前のあの日――僕らが生まれるよりも前に、先輩はいつものように目覚める。それが今までとは違う、歪んだ時間の始まりであることも気づかずに。
「えっと、あまり驚かないでね」
 そう断ってから、先輩はゆっくりと、話を続ける。なぜか僕から、視線をそらしたままで。
「わたし、気がついたら――自分が生まれるよりも前の時代に、大人の男性として存在していたの」

「……えっと?」
「ごめん、急な話だよね。わたしもわかってる。15年に及ぶ出来事がなかったら、わたしだってあまり信じないと思う」
「だ、だから、その……」
 先輩の話によると、あの時代より未来で生きていたはずの自分は、なぜか生まれるよりも前の時間軸で、大学生くらいの成人男性としてそこにいたらしい。なぜ、どうしてそんなことになったかはいっさいわからない。ただ、それまでの出来事が夢でもあったように、先輩はそうなっていた、ということだった。
「嘘みたいだよね。わたしもそう思った。いきなり周りの時代が変わっているんだもの。それも、わたしの両親が若かった頃のような時代に」
「……」
「知らない家、知らないところ、知らない時代。そんなところで、一人で目覚めて――最初は、これは夢だと思ってた。よくできた夢で、わたしはそこを彷徨っているだけだと。でも、それは違った。現実っていうのは実感があるものね。外の空気や、お腹が空くことや、その、自分の体の感覚から、これが夢じゃないことはわかるようになったの」
「そ、その、先輩、辛そうだったら、無理して話さなくても……」
「ううん、大丈夫」
 僕がそう話しかけると、先輩は頭を横に振る。今でも泣き出しそうな、でも、どこか芯が通っている、そんな不思議な姿だった。
「で、なんとか『今』の時代に適応していこうと一人で足掻いていたら、ヨリと出会った。事情も何もわからない胡散臭い男だったわたしを、ヨリは心から受け入れてくれた。気がつけば、わたしはヨリと家庭を作っていたの。そうして産んだのが耕平とこのはだった。わたしが産んだわけじゃないけど、間違いなく、わたしの子でもあるから」
 それを聞いて、ふと僕は思い出す。耕平は自分の妹であるこのはが、先輩とどこか似ている、と言っていなかったのか。
「たぶん、耕平に聞いたと思うけど、わたしはそんなにいい父親じゃなかった。あまり面白みもないし、自分のことをしゃべるのも得意じゃない。だからあまり好かれてなかったと思う。それはずっと申し訳なかった。あいつが――耕平が高校生になってからは、もっと親しくなりたいって心から思った。わたしったら、ものすごく不器用なんだから、きっと空回りばかりだったと思うけど……」
「……先輩」
「あはは、変な話。自分が言っているくせに、あまり現実感がないね。わたしもそれはよくわかってるつもり。だから、今のこの瞬間が、正直、あまり受け入れられないの」
「えっと――」
「いつか元に戻りたい。自分自身として生きてみたい。そう思ったのは本当だけど、なんで、今になっていきなりそうなったのだろうね」

 僕と先輩の心も知らず、時間は次々と流れてゆく。ゆっくりながら、そう、確かに。
「今ごろ、わたしが話もなく消えてしまって、耕平やヨリも大変だろうね。わたしだって、今さらこうなるって、思いもしなかったんだもの」
 また、先輩はヨリ、という名前を口にした。その名前には聞き覚えがある。たぶん、耕平の母親のことだ。以前、あいつの家に邪魔した時に、耕平の「父親」がそう呼んでいた覚えがある。一ヶ月くらい前の話だった。
 その、耕平のお母さんの愛称を、なぜか、目の前にいる先輩が知っている。ありえない人が、知ってているはずのない人の名前を口にしている。
 あまりにも淡々で、こっちがもたれそうな声だった。喉が乾いて、声が上手く出ない。まるで自分だけ、時間が止まってしまったようだ。
「でも、わたしが『わたし』だという証なんて、どう示せばいいのだろう。いちおう、元に戻った今も大切なものはちゃんと残っているの。でも、それは果たして、わたしがそこにいたという、『証』になってくれるのかな」
 それを聞いて、僕は初めて気がつく。先輩の左手の薬指には、銀色に輝く指輪が嵌められていた。長い年月が経ったことがよくわかる、少し古びて、それでいながら気品のある佇まいだった。
 先輩は寂しそうな声で、そうつぶやく。
「そう言えば、いっしょに釣りに行こうと言っていたのに、守れなくなっちゃったな」
 まるで自分の胸に穴が開くような、なんとも言えない感覚。その空いた穴に、誰かが鋭い何かを刺さってくるような、チクチクした感覚。
 いったいこれを、どう否定すればいいのだろう。これを聞いて、僕は、どう答えたらいいのだろう。
「あなたのことは、よく知っていた。耕平がよくうちに連れてきてくれたから。だから、何か話しかけたかったのに、ずっと言い出せずにいたの。ごめんね」
 だから、この矛盾だらけのひどい現実を。
 僕は、どんな顔をして受け入れれば、いいんだ。

「ごめん、あまりにも時間を取らせてしまったね」
 そこまで聞いてから、僕は、もうだいぶ時間が過ぎていることに気づく。もう時間は午後の6時。そろそろ帰らないと、まずい時間だった。
「す、すみません。僕はその、どうしたらいいか……」
「ううん。大丈夫。わたしの話をここまで聞いてくれたことで十分。こんなこと、話せる人ができるなんて、思いもしなかった」
 そう言いながら、先輩は照れくさそうに微笑む。もう夕暮れも薄れているこの時間に、その笑顔は、なぜかひどく寂しく見えた。
 自分ができることは何かないのだろうか。僕にできることは、果たして――
「でも、もう帰った方がいいと思う。これからも、よければまた話し相手になってね。もし、あなたがよければ、だけど」
 僕はその話を聞いて、ようやく腰を上げた。あまり座り込んだ覚えはないのに、なぜかひどく腰が痛い。今日の出来事のせいなんだろうか、あるいはー
「じゃ、失礼します。先輩も気をつけて、お帰りになってください」
「あ、そうだった」
 そう挨拶してから、後ろを向いてこの教室から出ようとしていた僕に、先輩の、細い、鮮やかな声がまた聞こえてくる。そう、まるで不意打ちのように。
「うちの耕平といつも仲良くしてくれて、ほんとにありがとね」
 僕は、心臓が止まりそうな気分になる。今、この状況で、その台詞が意味するのは一体なんだろうか。
 先輩の、今でも途切れそうな細い声が、続く。
「こんな状況だけど、やっと言えたね。よかった」
 息がつまりそうになって、呼吸がうまくできない。その声を聞いて、後ろに振り向く勇気なんて、僕にあるわけがなかった。

 ふと、今朝の頃に考えていたことを思い出す。ただのその場しのぎであっただけの、つまらない考えを。
 ――我々の過ごす日常は、誰かが積み重ねた非現実の上に立っているのではないだろうか。
 それを思い出し、今度は胸が痛むことを感じる。
 先輩は、今まで、いったいどんな気持ちで――…