永遠の下っ端 葉柴良平の一日(1)

 ある8月の朝。
「もう、朝かぁ……」
 窓から差し込む日差しに目を細めつつ、職員室の大きな黒いソファで寝転んでいた葉柴良平はでっかいあくびをする。
 良平がこの校舎に泊まり込むことになってから、もう何日かが過ぎた。
 初めはここまで長く居座るつもりはなかった。ちょっと部活の野球で嫌になったことがあって、それから逃げるような形でこんなところで泊まり込んだのが、全ての始まりである。
 ……まさか、ここまで事態がでっかくなるとは考えもしなかった。
 都合よく両親が仕事で家を空けていなかったら、今ごろ良平は、もっとひどい目に会ったのかもしれない。

「ほんと、いろいろアホみたいなんだよな……」
 まだ覚めきっていない頭で、良平はぼんやりとそんなことを考える。
 もう「あんなこと」があって何日かは確かに過ぎているわけだが、今でも良平は、自分の置かれた状況が信じられなかった。
 一人で取り壊される校舎で小説を書きながらのんびりと過ごしていたら、急に変な姉貴と出くわした。
 その姉貴は、まさかの吸血鬼であるらしい。
 ここまでだとしても現実を疑うレベルの大事(おおごと)なのだが、問題はそれところじゃなかった。
 まあ、これも語るとなぜか長くなるのだが……。
 とにかく、今は目覚めてしまった以上、起きるのが大事だった。
「今日は何が起きるのかな……」
 そんなことをつぶやきながら、良平は背筋を伸ばし、ソファから起き上がる。
 ……今日も、暑い一日になりそうだった。

 ――もう、旧校舎(ここ)での住まいにもだいぶ慣れてきたもんだ。
 いつかはここを出ていく必要があるんだろうけど、まあ、夏休みまではこれでいっか。
 そんなことを思いながら、適当に身だしなみを整えた良平がトイレから出てくると。
「あっ、神木さんっスね」
「……おはよう」
 廊下にはこの大事で出会った仲間の内の一人、神木刹那が佇んでいた。どうやら良平と似たような形で、朝早く目が覚めてしまったらしい。
 実は、良平もまだ、この神木刹那という女の子のことはよくわからなかった。あの姉貴と一緒にやってきた、少しぶっきらぼうな人っていうのが初印象だったからである。
 まあ、しばらく一緒に過ごしてみた今でも、良平にとって刹那はそういう印象だったわけだが……。
 黒髪のストレートロングをポニーテールに結んだその姿は、着ているカジュアルな服装と相まって非常に魅力的……だと心の中で思う良平だったが、そんなこと、本人には言えるわけがなかった。
「いや~今日も暑いっスね。おかげで柄でもなく早起きしてしまったんですよ」
「……こっちも」
「ですよねぇ……。これだから真夏は参っちゃうんですよ」
「……」
 そう話を交わしながらも、良平は果たして、これでうまく行っているのかがよくわからなかった。
 この神木刹那という人は、あらゆる意味で心の奥を見せない。
 姉貴――「あの人」と一緒にいると今よりはイキが良くなるけど、ほとんどケンカばかりであることを考えると、それが望ましいことなのかは謎であった。
 ――さて、これからはどうしよう。
「あっ、それじゃオレは失礼しますね」
「ええ」
 結局何の答えも得ずに、良平は刹那を後にした。
 ……あの人のことは決して嫌いじゃないが、どうやって接すればいいのか、未だにわからない。

 刹那と分かれてから、良平は一階に向かうため、階段の方へと歩き出す。
 やっぱり腐っても運動部員だからか、起きたからには体を動かしたかったからである。ああいうことになってからは野球すら真面目にやっていないけれど、体が鈍るのは嫌だった。
 そんなことを思いつつ、良平が階段へと向かっていると――
「あっ、おはようございます!」
「あ……へ?」
 いきなり大きな声を聞かれた良平は、思わず床に尻餅をついてしまう。声が聞こえた方へと視線を移すと、そこには予想外の人物が立っていた。
「良平さん、いつも早起きなさるんですよね」
 いかにも朝らしい丁寧で爽やかなセリフと、それに微妙にそぐわない重たい声。
 そこにいたのは、良平の夏休みをめちゃくちゃにした元凶、月島健太郎……というか、その被害者の一人、星野紗絵であった。