機械仕掛けのコスモス・ 衝撃

「あれ、顔色が悪いですね、チサさん」
 次の日の朝。
 いつものように、ハナさんは俺のことを心配してくれた。
「い、いえ、大丈夫です。大したことじゃありませんから」
「ふふっ、よかった。ひょっとして、チサさんは今日もウツボカズラに喰われる夢を見たのかな?と心配していたんですよ」
「じ、自分も毎日、そんな変な夢は見ませんよ……」
 なぜかハナさんに変な勘違いをされて、俺をすぐ首を振る。だが、むしろこれでよかったのかもしれない。
 ……昨日のことは、ハナさんにバレたくなかった。
 機械らしかぬちっぽけなプライドが、どうしてもそれを許さなかったのだ。

「でも、何事もなくてよかった。うちに来てから、チサさんっていつも淡々とした顔で食事をなさるから、どうしても心配しちゃったんですよね」
「えっ、そうなんですか?」
 考えもしなかった話に、俺は目を丸くする。まさかハナさんに、そこまで見てもらえたとは思わなかった。
「はい。やはりせっかく作ったご飯はおいしく頂いてほしかったんですから、何か原因でもあるのかな? と思ったんですよ」
「た、確かにそうかもしれませんね」
 ……ああ、そうだ。
 今までの自分は、きっと人間からすると、かなり味気ない食べ方をしている。
 人間になってからには、何かを口にしなければ生きていけない。もちろん、こんな姿になったあの日から今まで、俺はハナさんの用意してくれた手作り料理をいくらか口にした。
 だが、味は正直、よくわからない。
 元々機械の身だったことに加え、人間になってからありとあらゆる情報に振り回されたため、そこまで気が回らなかったことも大きいと思われる。
 これは、ちょっと悪いことをしたな。
 こちらの都合はともかくとして、せっかくの手作り料理なのだから、ハナさんにとっては美味しく食べて欲しかったはずだ。

「あれ?」
 そういや、今朝のハナさんはやけにしっかりとした服を着ている気がする。
 いや、ハナさんが家ではだらしない服を着ているとか、そういう話じゃないのだが……。なぜか、外に出かけてきたような雰囲気を感じる。
 もちろん、今は機械でも何でもないわけで、俺の気のせいである可能性も高いが。
「ま、間違っていたらごめんなさい。ひょっとして、さっきまで出かけていたのでしょうか?」
「はい、正解です。すごいですね。気づかれてしまうだなんて」
 俺の話を聞いたハナさんはふふっと微笑んでから、事情を説明してくれた。
「実は昨日、あるものを注文しに商店に行ったんです。この町にも一つだけ、雑貨を扱う商店があるんですよ」
「そ、そうなんですか」
 ここに詳しくない俺には当たり前ではあるが、それは初耳だった。
 こんなに山奥の町だとしても、生活雑貨などを扱う店はあったらしい。
「はい、そこに注文したものが朝早く出来上がったと聞きましたので、早足で行ってきたんです」
「そうだったんですね」
 よくわからないが、つまりハナさんは何かを注文したようだ。俺が寝ていた間、ハナさんはそれを取りに行ってきたらしい。
 その「注文したもの」がいったい何なのかは、まったく読めなかったが。
「わたしが子供の頃には、いつもあそこでアレを注文してたんです。夏になると、むやみにああいうものが飲みたくなるんですよね」
「……アレって、何でしょうか?」
 さっきからずっと気になっていたことについて、俺はハナさんに尋ねてみた。
 やはり、どうしても気になってしまう。
 ハナさんの言う「アレ」とは、いったい何なのだ?
「あ、説明が遅かったんですね。アレっていうのは飲み物です。ほら、キッチンのテーブルに置かれてありますけど、わかるのでしょうか?」
 その話を聞いて、視線を動かしてみると――
 そこには、確かに「何か」が置かれてあった。

「これって……?」
 それは間違いなく、飲み物の一つだった。
 ガラスのカップに、氷の入った赤い飲み物が入ってある。
 ……中に気泡が浮かんでいることから考えると、あれは炭酸の入った飲み物のようだった。
「これを、注文してきたんですか?」
「はい。そろそろ暑くなりますし、これを思い出しまして」
 そう語るハナさんの瞳は、昨日のようにキラキラと輝いている。
 きっと、あの飲み物はハナさんの好物なのだろう。
 だが、ああいうものと縁がなかった俺としては、ただ首を傾げて見つめることしかできなかった。

 こちらの様子に気がついたか、ハナさんはまた俺に向かって話しかける。
「あれはストロベリーソーダというものです。チサさんはまだ、口にしたことがなかったのでしょうか?」
 ……そういや、確かに聞いた覚えはある。
 機械の身にはいらない物だったので、そこまで真面目に観察した覚えはないが。
「は、はい」
「えっと、ひょっとしてチサさんは、今まで炭酸を口にしたことがないのでしょうか?」
「そ、そうなります」
 当たり前だが、機械が炭酸を摂取する必要なんて、これっぽっちもない。機械が動くために必要なものは、ただのエネルギー源だけだ。
 だから、電気とかそういうものならともかく、俺は食べ物など、一度も摂取していない。そもそも巨大ロボットたるものだから、そういうものの味なんて感じられない。
 今までの自分は、それが当たり前だと思っていたわけだが。
 ……人間からすると、こんな俺の答えは、かなり奇異に思えるのだろう。
「それはすごいですね。わたし、今まで炭酸を口にしていなかった方は初めてです」
「こ、ここでも炭酸はみんな口にするものなのでしょうか?」
「うーん、大きな町では様々な飲料を売っていますから、きっとみんな、一度は口にしているのではないでしょうか」
 ……そこまで誰もが口にしているものだとしたら、こちらも味わっておく必要がある。
 反応のことは自分でも読めないが、とにかく、一度は口にしてみた方が良さそうだ。

 そんなことを思いながら、俺はテーブルの前に立ったまま、飲み物に刺されたストローに口を当てた。
「……?!」
 よくわからない味――というか、本当にわからない何かが俺の口を襲う。
 あまりにも未知なる経験過ぎて、それがどうやって言葉にすればいいのか、まったく見当もつかなかった。
 こんな情報、味わったことすらない。
 本当に人間は、こんなものを日常的に味わっているというのか?
「あの、チサさん、大丈夫ですか?」
「は、はい。だ、大丈夫です。少し混乱しただけ――」
 だが、やはりこのままではいられない……というか、どうしても体がウズウズする。
 一応、なんとかテーブルの隅っこを掴めたが、口の中の出来事が激しくて、指先に力がうまく入らなかった。
 ――と言うより、どうしてもじっとしていられない。
 気がつけば、俺はなぜか尻餅をつくような形で床に転がり、そのままのたうち回っていた。
 ……自分でも何をやっているのかまったくわからないところか、自分に呆れてしまいそうだが、そうでもしないと体が耐えられそうになかったのだ。
「あの、チサさん、本当に大丈夫なのでしょうか?」
「はい、お、お気になさらず……!」
 いや、この有り様で「お気になさらず」はないだろう。
 そんなことを思ったのは事実だが、今の俺としては、それしか応えられることがなかった。
 何かが、口の中から弾けている。涙が出てくるくらい、その感覚は刺激的であった。
 全身がかゆくなる……というより、我慢できなくなる、と言った方が正しいのだろうか?
 情報としてはあまりにも異質過ぎて、どう形容すればいいのか、途方に暮れる。

 その時、ドカンと入り口の方から音が聞こえてくる。どうやら、誰かが来ているようだ。
 ……それはわかるものの、今の俺には、立ち上がれる力がまったく沸いてこない。
 やはり、口の中のおかしな感覚は、俺のことをひどく混乱させているようだった。
「ここに来るのは久しぶりですねぇ……って、これはどういうことなのでしょうか?」
 よくわからないが、上から声が聞こえてくる。アレは……クロのものだ。
「えっと、チサさんがソーダを口にしたのですけど、いきなり転がってしまって……」
「あれ? あのソーダってそこまで衝撃的な味だったんですか?」
 二人が何か話しているような声が聞こえるが、今の俺には何もわかり取れない。
 ……口にした味が衝撃的過ぎて、それところじゃなかったのだ。
「チサさん、大丈夫ですか? 僕のこと、わかりますよね?」
「わ、わ、わかります……恥ずかしいから、もう話しかけないでくださいっ」
 まずい。このままじゃ、俺はクロのやつに見世物として扱われそうだ。
 もうハナさんの顔なんか見られそうな自信がないのだが、ともかく、起きなくては――

 それからどれほど時間が過ぎたのだろう。
「ああ~。つまり、チサさんは炭酸を口にしたのが、今度で初めてだったんですね」
「は、恥ずかしながら、そうなります」
 クロのやつから必死に視線を逸しつつ、俺はそう答えた。今の自分は周りから見ると成人した人間でもあるわけで、そう答えるのがひどく恥ずかしい。
「いやいや、ならそういう反応もおかしくないですよ。やっぱり炭酸って、初めて味わうとかなりショックだと思いますしね」
「クロさんって、すごく面白そうな顔でこっちのことを見てましたけど」
「まあまあ、そういう時もありますよ。ははは」
 ……こいつ、絶対に俺のこと、弄んでいるな。
 悔しくて仕方ないのは事実だったが、さっき、ああいう奇行を見せたのも自分であるため、今回は無視することにした。

「で、でも」
「?」
 俺がそう口を開くと、ハナさんとクロのやつがこちらに振り向く。
「きょ、今日の出来事で、味っていうものが何なのか、やっとわかった……気がします」
 そう、それだけはブレようのない事実であった。
 まるで何も見えず聞こえないというのに、初めて「水」を覚えたあの人のように――俺は、「味」という感覚を覚えたのだ。
 だから、これからは食べ物のことで、ハナさんを悲しませることはないと思う……おそらくのことだが。
「あれ、そうじゃ今まで、チサさんは味がなんたるものか、わからなかったって話になりますね」
「はい……。も、もちろん食べたりはしたのですが、しっくり来ない感じだったので……」
 こちらのことを興味津々に見つめているクロから視線を逸しつつ、俺はそう答える。
 やはり、今の俺は「人間」として認識されているわけだから、あまりにも変なことは口にしたくなかった。

「わたし、今でもよくわかりませんが」
 しばらくこちらの話を聞いてきたハナさんが、やがてそう口を開く。
「でも、チサさんにとっていいことだったのなら、安心ですね」
「はい、いつもありがとうございますっ」
「いやいや、これってこんなにいい話にして大丈夫なんでしょうかね?」
 もちろん、クロのやつの一言は無視だ。
 少し恥を見せてしまったことは不覚だが、なぜか俺は、心が落ちつくことを感じた。
「それじゃ、もう一度ソーダに挑戦してみるのはいかがでしょうか?」
「え、えっ?!」
 そう落ちついていたら、ハナさんはすごいことを口にしてくる。
 いや、確かに、おかしくはないが……。あの凄まじい飲み物をまた口にするには、やはり勇気が必要だった。
 だが、このまま逃げてばかりいるのも良くはない。
「じゃ、た、試してみます」
 そう言ってから、俺はもう一度あのソーダに近づき、ストローを口にする。
 初めはあの強い刺激のせいで頭が回りそうだったが、しばらく飲んでいると、徐々にフルーツならではの甘酸っぱい味が伝わってくる。
 いや、俺はただの機械だったわけだから、これがフルーツならではのものなのか、自信など持てないが……。
 少なくとも、この味が「果実ならでは」のものだということはわかった気がした。
 慣れてくると、その酸っぱい味が炭酸のよくわからない感覚と混ざり合って、独特な味わいが口の中に広がっていく。
 飲料を飲む、エネルギーを得るというより、その感覚はある意味、娯楽に近いものであった。
 自分のような機械にとって、エネルギーを摂取することはただ動くためなのだが、人間にとっては、そのような生命を維持する活動すらも一つの娯楽なのだ。
 これには、恐れ入らざるを得ない。
 俺のような機械には、決してたどり着けない結論だ。

「変わった……味なのですね」
 その感覚を全身で味わうように気をつけつつ、俺はそんなことを口にした。
「初めてお飲みになられたのなら、そういう反応が出ることもおかしくはないですね」
「わ、私は、その、あまり経験がなくて」
「大丈夫です。人たるもの、いろいろな都合があるんですから」
 ハナさんはそう言いながら、こちらに向かって微笑んでくれる。
 ――眼の前にいる存在が本物の人間だと信じ切っている、あの柔らかな笑顔。
 それに罪悪感を覚えて、俺はそっと、視線を逸してしまった。